いつかのユズリハ

アオキアオ

record 1 しずかな王国


《ドール三原則》


第一条

ドールは人間を守らなければならない。

第二条

ドールは人間と交わした約束を遵守しなければならない。

第三条

ドールは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己を守らなければならない。






 誰とした約束なのか忘れても残り続ける 祈りみたいに






   1


「あと三日か」

 五時の鐘が遠くで鳴っている。しゃがみこんで花を摘むサンの、丸まった小さな背中を眺めながら、ダイリは三日後のことを考えていた。

 夕暮れ時だと言うのに周りはまだ明るく、もうすぐ来る夏を思い出させる、草の匂いのする風がときどきふたりの間を吹き抜けていく。ついこの間までこの広場は、菜の花が鮮やかな黄色に染めていたような気がするのに、春はいつの間にか過ぎ去っていたらしい。あたりの木々はもうすっかり青々とした緑を茂らせていた。

 もうすぐ夏が来る。

 ふたりが着ている揃いの作業着と、同じ色した空が広がる季節だ。帰ったら、宿舎の窓に風鈴でも吊るそうかと考える。こういうことは大切にしたいのだ。滞る時間のなかで、たしかな季節を感じるためにも。

 花を摘むことに集中しているせいか、いまだにダイリの存在に気付かず、黙々と手元の花束を作り上げていくサンに「鐘、鳴り終わったよ。そろそろ帰ろっか」と声を掛ける。その声にはっと顔を上げた彼は「わざわざ迎えにきてくれたですか!」と見た目の年齢そのままに満面の笑みを見せた。青年型オートマチックドールのダイリと違って、少年型であるサンの歩幅は狭いので、そう広いわけでもない広場でも、一生懸命駆け寄ってくる。

「だってお前、全然帰ってこないんだもん」

「ごめんなさい。これ作るのにちゃっかり夢中になっちゃったです」

「ちゃっかりじゃなくて、うっかりね。で?」

 色とりどりの花が寄せ集められた、小さな花束を指差し「それ、どうすんの?」とダイリが問えば、サンは照れくさそうにしながら「ご主人さまにあげるです」と目を細める。

「へえ。いいじゃん」

「ご主人さま、よろこんでくれるです?」

「そりゃ喜ぶよ」

 お前が摘んだ花なんだから、とダイリが続けようとして、それは叶わなかった。サンがなにかに怯えるように、腰にしがみついてきたからだ。せっかく作った花束は、ふたりの足元に散らばっている。サンが怯えながら見つめる広場の奥では、茂みがざわざわと動いているのが見えた。先ほどのような風ではない。奥の方から、確実にこちらへ向かって、何者かが近づいてくる動きだ。

「ダイリくん、おかしいです! ここにはボクら以外に誰もいないのに」

「ということは、まあ、普通に考えてエンダー襲来の可能性が高いよね」

「ついにです? えっとえっと、どうしたら」

「落ち着いてサンちゃん。いまここには俺たち以外誰もいない。そういうときは?」

「人間を守るための排除行動オートモードは作動しないから、マニュアルどおりに行動、です!」

「そうそう。こういうときはマニュアル通りに行動……したいところなんだけど」

「けど?」

「そういえば俺たち、いま完全に丸腰じゃんね。詰んだわ」

「だめじゃないですか!」

 あーあ、万事休すか。ダイリが諦めたように半笑いの顔を見せたところで、茂みからエンダーと思われる何かが飛び出してきた。

「やっぱり! 思ったとおり、夕陽がきれいに見えるぞ! 記録しておこう」

 こちらが理解できる言葉を発した。ということは、エンダーではないのか。

 騒がしく広場へ現れた白い髪の青年は、外見年齢だけで言えば、ダイリと同じくらいだろうか。フードの付いたケープを着ているので、はっきりとした体格まではわからないが、ダイリよりも少し細身に感じられる。

 青年は夏空のような目をきらきらと輝かせながら、あたりを見回し「……あれ? もしかして人間?」ようやく目があったダイリとサンを交互に指差した。目が合ったふたりは、突然の質問に声も出せず、ただ首を横に振る。「なんだ、違うのか。残念」

 残念というわりには、そこまで落ち込んだ様子もなく、青年はもう一度広場をぐるりと見渡して「いやあ、ほんと景色がいいなあ。登ってきて良かった」と呑気にしている。一体どこの誰だろうか。

「ダイリくん。あれはエンダーとは違うです?」

「首にバーコードが見えるし、マニュアルドールみたく動きに規則性がない。たぶん俺たちと同じ、自律思考の入ったオートマチックドールだ」

『ユズリハを発見しました』

「は?」

 足元から突然機械的な声がして、ダイリとサンが飛び上がる。いつの間にやってきていたのか、犬にも猫にも見える小型のペットロボがてくてくとふたりの傍を通り過ぎていく。ユズリハ、というのがあの青年型ドールの名前なのだろうか。考えを巡らす暇もなく、そのペットロボに続くように「いたいた!」と、少し高めの声があがった。同じく茂みから現れたのは、十代中頃と思わしき少年で、彼もまた首にバーコードがある。今日は珍しくドールの千客万来だ。

「ユズリハ、勝手にどっか行かないで下さいよ。あんた迷子になる天才なんですから」

「あはは。どうしたんだよセイ、蜘蛛の巣すごいな」

「こなくそ、誰のせいだと……何ですこいつら?」

 ユズリハと呼ばれた青年は「とりあえず人間じゃないみたいだ」と答えを返す。

「あんたねぇ、そんなん見りゃわかるでしょうよ。ちゃんと挨拶しました?」

 そう問われてようやく思い出したのか、手を叩いたユズリハが、立ち尽くしているダイリとサンの方へ向き直り「はじめまして」とようやくコミュニケーションを取る態度を見せた。

「ぼくはオートマチックドールのユズリハ、こっちはセイ。いまはいろんな場所を旅しながら記録を残している最中なんだ」

「こんにちは、セイです。なんか入り口の門が開いてたし静かだったんで、ここも捨て地かと思って勝手に入っちゃいました」

 お邪魔してまーす、と頭を下げるセイの頭には、まだ蜘蛛の巣がうっすらと残っていて、黒髪に交じるその糸がまるで人間の白髪のようだ。十代の少年のような見た目にはなんだかちぐはぐに感じられる。

「ご丁寧にどうも……俺はダイリ。で、こっちが」

「お散歩係のサンです。みんなサンちゃんって呼ぶです」

 よろしくです、と差し出されたサンの手をじっかりと両手で握りしめ「よろしくね、サンちゃん!」とセイが勢いよく振る。距離はすぐに縮めていくスタイルらしい。

「ところでおふたりとも、このへんで桜とか見たことありません? ずっと探してて」

 ひさしぶりの来訪者たちに、聞きたいことはたくさんあるのだが、ダイリはひとまず「もう桜って季節じゃなくね?」と返すので精一杯だった。




   2


「じゃあ、俺たちに用があって来たわけじゃないんだ?」

「今日は夕焼けがきれいだったろ? せっかくだから見晴らしのいい場所から記録しようと思って丘を登っていたら、きみたちの話し声が聞こえたんだ」

 宿舎に自分たち以外の誰かがいるのは久しぶりだった。このあたりは夜になると暗くて危ない。旅慣れしているのにお節介かもとは思ったが、ユズリハたちに泊まっていくよう提案したら、ふたりは思いのほか喜んだ。特にセイは「暗いうえに慣れない山道を歩くなんて、ユズリハとはぐれろって言われてるようなもんですよ! イヌハリコは全然役に立たないし。今日はご厚意に甘え倒して泊まっていきましょう!」と両手をあげて喜んでいた。途中でイヌハリコと呼ばれたペットロボが『ユズリハを見つけられたのは私のおかげでしょう!?』と憤慨していたが、一切聞き入れる様子はなかった。そんな大喜びのセイといえば、いまはすっかり懐いたサンにここの敷地内を案内されているところだ。

「というか、きみたちに用事も何も、ここがどこかもよくわかってなかったからなあ」

 談話室にある一人がけのソファーに座っていたユズリハは、自分の膝の上にちょこんと収まっていたイヌハリコの頭で、ぽんぽんとリズムを取るように撫でながら続ける。

「イヌハリコ、今いる場所がわかるかい?」

 話しかけられたイヌハリコのまんまるとした目が細まり、しばらく考え込んだ様子を見せたあと、また元のように目が戻る。犬にも猫にも見えるその姿は、名前の通り犬張子がモデルになっているようだ。

『検索を試みましたが、接続がタイムアウトしました。ネットワーク接続が弱いか、不安定である可能性があります』

「とまあ、大体いつもこんな感じで」

『いつもじゃありません! ユズリハ、訂正してください』

「このへんのエリアに入ってからはずっとそうだったろ?」

『そうじゃないときもありましたよ。訂正してください』

「はいはい」

 この手のペットロボにしては珍しく、繊細な自律思考が設定されているらしい。見た目の愛らしさを損なわないまま、イヌハリコがぷりぷりと怒る様子がなんだか面白い。

「それってもしかして、見守り型のペットロボ? ここには居なかったけど、うちに来たお客さんが似たような感じの見守りロボを連れてたって日誌で読んだことあるよ」

「元々は単なる見守りロボだったんだけどね。先生が旅のお供として、いろいろとリメイクしたんだ。調べ物が得意で、物知りだよ」

「先生?」

「ぼくにシェルターの外を旅して記録を残すように約束した人間さ。ぼくがアーカイブに保存した外の記録を精査してるみたいなんだけど、なかなか終わらないらしい」

 ぼくが先生のアーカイブに保存していってる記録が膨大だからかな、とユズリハが笑う。そういえば、彼は夕焼けがきれいだったからという理由だけで記録を取ろうとしていた。きっと保管されている記録は、ダイリが想像しているよりも遥かに多いのだろう。

「ユズリハ、なにを呑気に世間話してるんですか! あんたもこっち来てくださいよ、星がものすっごい近いんです!」

 一通りの案内が終わったのか、セイが興奮した様子で帰ってきた。

「そうなの?」

「いつもどおりです。セイくんはちょっと大袈裟です」

 サンがやれやれといったふうに腕を組むので「俺たちにしてみればいつも通りでも、はじめてだとすごく見えるんじゃない?」とダイリが笑いかける。「このへんじゃここが一番高くて、視界を遮るものがないからね。ふたりで展望台に行ってたの?」

「そこはまだです。さっきはご主人さまのお気に入りの池の近くに行ってました」

「展望台!? そんな面白そうなもの、行くっきゃないでしょうに! ほらサンちゃん案内して!」

 早く早く、とセイに急かされて「もー! まだ行くですか?」とサンが呆れながら部屋を出ていく。見た目年齢だけでいえばサンの方が幼いはずなのに、はしゃいでいるセイを宥める姿はまるで弟を見守る兄のようだ。あんなサンを見るのはひさしぶりで、少し微笑ましくなる。

「展望台、ユズリハは行かなくていいの?」

「あの調子だとセイがうるさそうだから、後にしようかな……落ち着いて見たいし」

 夕焼けを見るために広場に飛び出してきて騒いでいた本人が、自分のことを棚に上げて何を言っているのだろうか。彼とセイは見た目こそ似ていないものの、興味のあるものに対するはしゃぎ方はそっくりだ。ドールは持ち主に似るとよく言われているが、彼らの『先生』とやらも好奇心旺盛なのだろうか。

「じゃあせっかくだし、もうちょっと世間話に付き合ってよ。サンちゃん以外のドールと喋るのひさしぶりでさあ。ユズリハはいままでどんな記録を取ってきたの? 俺、ここから出たことないから気になる」

「そうだな。ぼくが見たものはとにかくなんでも記録する約束だったから、それこそいろんな記録を取ったよ。山より高い建造物とか、海みたいに大きな湖とか。あ! 海といえば、捨て地の水族館に、人魚型のマニュアルドールもいたよ」

 人間は面白いものを作るよね、というユズリハの言葉に「そのなかに俺たちオートマチックドールも入ってるよ」と笑って返す。

「じゃあさ、エンダーも見たことある? ここって辺鄙な場所じゃん? そのおかげでエンダーにも見つかりにくいのか、まだ一度も出くわしたことがないんだよね」

 だから最初ユズリハがやってきたときもエンダーかと思って驚いちゃって。恥ずかしげにダイリが頬を掻くが、ユズリハが「ぼくも見たことないよ」と返してくるので、少しほっとする。「ぼくがエンダーについて知ってるのは、百年前に突然現れたこととか、人間を襲うこととか、そういう基本的な知識くらいさ」

「あー一緒だ。俺もそんな感じ」

「そういえばセイは見たことあるって言ってたな。そのときぼくは一緒じゃなくて、ひとりで対応したから大変だったって」

「ひとりで? すごいじゃん。どうやって倒したんだろ」

「そりゃあ、排除行動オートモードじゃないか? 詳しく聞いてないけど」

 やっぱそうだよね、とダイリはうなだれる。

 人間を襲うエンダーに対して、オートマチックドールは普通、排除行動オートモードで対処が可能とされている。ドール三原則の第一条「人間を守る」に則った行動だからだ。ただしそれは「人間を守る」ための排除行動オートモードで、その場に人間がいない場合、はたしてそれがちゃんと機能するのかどうかがダイリにはわからない。

「そういえば、きみたちのご主人さまに挨拶がまだだった。もう夜も遅いし、今からじゃ難しいかい?」

「うん、ちょっと難しいね」

 じゃあ明日にしようか、とユズリハがイヌハリコに話しかけている。明日になっても無理かな、とダイリが天井を見上げ、目をつむった。ユズリハたちが来るのがもっと、ずっと早ければ良かったのに。

りくさん、このあいだ死んじゃったんだよね」

 久しぶりに口にした名前は、思ったよりもすんなりと出てきた。

 思いがけない回答に驚いたユズリハは「ええと……それは、エンダーの所為かい? いや、エンダーはここに来たこと無かったんだったか。というか、こういうことはあんまりずけずけと聞いちゃ駄目なんだっけ?」と少し慌てた様子を見せる。

「大丈夫。百年近く生きて、死んだ。大往生ってやつだよ。単なる寿命だから、悲しい理由じゃない。いや、いなくなったことは悲しいし、すっごく寂しいんだけどね」

 こればっかりは、どうしようもないから。

「会わせたかったなあ、ひさしぶりのお客様」

 そうだ、せっかくだから明日、ここを出る前にお墓参りしてってよ。

 ダイリの提案に、そういう挨拶の方法もありますね、とイヌハリコが得心したようにうんうんと頷いた。




   3


「ご主人さま、昨日はお花持ってこれなくてごめんなさいです。かわりに今日はたくさん摘んできたですよ」

 晴れやかな朝だった。形の良い石に向かって、サンが朗らかに話しかけながら、そっと手作りの花束を供える。手を合わせたサンにならって、セイも同じように手を合わせた。

「今日はとってもいいお天気です。そっちもお天気です? ボクがいなくてもお散歩できてるです? 昨日は、ひさしぶりにお客さまがいらっしゃったですよ。セイくんです」

「どうも、セイくんでーす。このあとすぐ出発するんですけど、昨夜はお邪魔しました。星めっちゃきれいでした!」

「セイくんは昨日はしゃぎすぎて展望台から転げ落ちそうになったです」

「それ別に言わなくてもよくない?」

『帰りの階段で結局転げてましたけどね』

「それも言わなくてよくない?」

 墓参りにしてはにぎやかなその様子を、少し離れた場所からダイリとユズリハが眺めている。夏を告げる眩しい光は、大きな樹の枝が遮ってくれていて、光の欠片が足元に散らばっていた。サンとセイのいる場所だけがまるでスポットライトでも当たったみたいに、まばゆく輝いている。

「あの子はお散歩係だから、サンちゃん」

「そだね」

 サンを指していたユズリハの人差し指は、そのまま今度はダイリの方へと向けられる。

「じゃあきみは、何かの『代理』でダイリくん?」

 向けられた人差し指から目を反らし、惜しい、とダイリが指を鳴らす。

「何かじゃなくて、全部だよ。ぜーんぶ任せるって言われたの、俺は」

「主人がいなくなったのに、その『全部の代理』っていう約束を守ってるのかい?」

「そう」

「破ったとして、もう誰が咎めるわけでもないのに?」

「そうだよ」

「空しくないかい?」

「そうでもないよ」

 だってそういう約束だったし、何より俺はオートマチックドールだから。

 本当になんでもないことのようにダイリが返してくるので、それ以上ユズリハは何も言わなかった。そうだ。自分たちはオートマチックドールだから、人間とした約束は守らなくてはならない。そして、たとえ主人がいなくなっても、残り続ける約束はある。そういう約束があることを、ユズリハは知っていた。

「決めました! ボクもユズリハくんの真似をするです」

 陽が降り注ぐ墓の前で、サンは声高らかに宣言する。小さな身体を大きく見せる動物のように、両手をあげて、これ以上無いアイディアだと言わんばかりに彼は笑顔をこぼす。

「ボクがご主人さまのことを書いて、記録を残すです。だから今度会ったとき、ボクの書いたお話をセイくんに読んでほしいです」

「面白そう、読む読む! それってどんなふうに書き始めんの?」

「むかーしむかしあるところに、ご主人さまと、ボクと、ダイリくんがいました。とか?」

「いいじゃん! その書き出し、おれいちばん好きなやつ」

「なぜです?」

「だって、絶対に『めでたし』で終わるはじまり方でしょ?」

 絶対なんてことはないだろうに、セイがあまりにも自信満々に言い切るので、なんだかそんな気がして、ユズリハは吹き出してしまう。ふたりの姿が眩しく見えるのは、夏の日差しのせいだけではない気がする。


   #


 またいつか、とダイリたちに手を振って、墓地をあとにした。

 昨日通った茂みが多い道とは反対側の、整備されたゆるやかな坂道を、ふたりと一匹でゆっくりと下っていく。イヌハリコを頭のうえに乗せたセイが、ユズリハと向き合うように後ろ歩きをしながら「次はどこに向かいます?」と話しかけた。

「どうしようか。とりあえず、行ったことの無い場所ならどこでもいいんだけど」

「このへんは捨て地も多くて地図が当てになりませんからね」

「そうなんだよ。まあ、とりあえず広い道に出てから考えようか」

「異議なーし。おれのセイは賛成のセイ」

「この前は世紀末のセイって言ってたような」

 そうでしたっけ、とけらけら笑うセイは相変わらず後ろを向いたまま、器用に歩き続ける。いつもだったら『そんな歩き方をしていると転びますよ』と頭のうえから注意が入ってもいいタイミングなのに、先ほどからイヌハリコはじっと黙ったままだ。おかしいな、とふたりが不思議に思ったのと同時に、眠たそうに細められていたイヌハリコの目がかっと見開いた。

『結論が出ました!』

「は? なんの?」

『この場所についてです。おふたりとも私に質問してたでしょう』

「え。もしかしてぼくらが質問してから、ずっと検索システムに接続してたのかい?」

「お前、効率わっるいなー!」

『そんな非効率なことはしません。オンラインが駄目ならオフライン。いつネットワークが繋がるかわからない状態でただ待つよりも、私の中にある地形図から現在地を割り出す方が効率的と考えました。そこで昨夜の星の見え方やこの土地の周辺地形を照らし合わせ、類似するエリアを調べた結果……』

「わかったわかった、イヌハリコすごいすごーい! それで?」

 答えを急かすセイにごほん、と咳払いをし、かしこまった様子でイヌハリコが続ける。

『ここは夕日ヶ丘動物王国。一度目の《一斉避難の大号令》後、園は臨時休園を決断。再開する日を待っていたようですが、結局それ以降の開園は叶わないまま、職員すべてがシェルターに避難し、完全閉鎖された動物園です』

「やーっぱ捨て地だったかあ。ね、おれの言った通りだったでしょ?」

「本当だ。セイは正解のセイ」

「そのセイじゃないでーす」

『ちなみに、私の持つ避難記録には職員の名前しかありませんでした。恐らく動物たちの避難までは完了できず、やむなく飼育員代理、もしくは園長代理として彼らを置いて去ったと思われます』

「まあそーでしょうよ。あるあるだ」

 ドールはいつだって置いてけぼり、とセイが歌いながら、くるりとダンスでも踊るように一回転半をその場で回る。本来の進行方向に向き直り、そこからスキップでもするように軽やかに三歩ほど進んだところで「ん? でもおかしいな」と大袈裟に首を傾げた。前触れもなく急に傾いた頭のせいで、頭のうえにいたイヌハリコがころんと地面に落ちる。

『ちょっと! 危ないじゃないですか!』

「何が変なんだい? あるあるなんだろ?」

「そっちじゃなくて。動物園の職員は全員避難が完了したんでしょう? じゃあこのあいだ死んで、おれたちがお墓参りしたあの『ご主人さま』は一体誰なんですか?」

「リクガメだよ」

 先ほど手を振って、たしかに別れたはずの声が聞こえた。慌てて振り返ると、ユズリハたちの後を追いかけてきたのか、ダイリだけがそこにいた。

「リクガメの陸さん。うちの園内でいちばん長生きした、大きくて立派なリクガメだった。サンちゃんの摘む花を食べるのが大好きでさ。ふたり並んで、いつも一緒に散歩してたよ」

「どうしてここに?」

「謝っておきたくて」

 何を、と問いかける前に、ダイリはセイに向かって頭を下げる。

「ごめんな、セイ。サンちゃんと約束してたみたいだけど、あの子は物語を完成させられない。三日後にはあの子の容量がいっぱいになって、記憶の保存限界がくるんだ」

 だから今日のことは、全部消えて無かったことになるよ。

 まるで今日は午後から雨だよ、とありふれた天気の話でもするように、ダイリがあっさりとそんな話をするものだから、セイも面食らってしまう。

「消えるってそんな……いや、でも容量からはみ出た分はドールのバックアップ専用クラウドに移しちゃえば……あっ、そうか」

 夕日ヶ丘動物王国が閉鎖された後、恐らくそういった類のものも使えなくなってしまったのだろう。いままさに自分の足元からよじ登って、肩に捕まろうとしているイヌハリコが、ずっと言っていたではないか。この周辺に来てからずっとネットワーク接続が出来ないと。職員たちがいなくなった後、ダイリとサンは完全孤立スタンドアローン化したのだ。

「自動消去で消されていくのは、古い記憶からだろう? いずれ今日のことを忘れるにしても、もっとずっと先じゃないのかい?」

 ユズリハの言葉にダイリがゆっくりと首を振る。

「すぐの話だよ。三日後、俺はまた、この一週間分のサンちゃんの記憶を消去する」

「また?」

 これが初めてじゃないのか。驚くユズリハとセイに向かって「お願いされたんだよ、サンちゃんに」とダイリは無理やり作ったような笑顔を見せる。

「サンちゃん、言ってたんだ。ご主人さまのこと、ひとつも忘れたくないって。サンちゃんの記憶容量の限界は、陸さんが死んでからちょうど一ヶ月と一週間。だから陸さんのことを一欠片だって忘れてしまわないように、時間を戻すみたいにして、いつもこの一週間を消してきた」

 毎回死んだ次の日まで戻しちゃってたら、さすがに可哀想でしょ? だから、一週間だけ。

 つとめて明るく話すダイリに「消すのはこれで何回目?」とユズリハが問う。きっと、二度や三度の話ではないはずだ。だから彼が言っていた、リクガメが死んだという「このあいだ」も、恐らく自分たちが思っているよりも遥かに昔のことなのだ。何度も繰り返される一週間のなかで、サンとダイリの「このあいだ」はすっかりズレてしまった。

「何回目だろ? 数えてないや。数えてたら、果てしないことになるし」

「果てはあるでしょうに。笑ってる場合じゃないですよ、あんた」

 ふたりの会話を黙って聞いていたセイが、早口でまくしたてる。ダイリがあまりにも他人事のように話すからか、彼は怒っているようだった。

「サンちゃんだけじゃない。ここはもう、どことも繋がっていない動物園なんでしょ? 記憶容量は個体それぞれでしょうけど、はみ出した記憶をクラウドに保存できないのは、あんたも同じなんだよ」

 あんただって、いつか忘れ始める。セイが躊躇もなく断言する。現実を見ろと言わんばかりの目に、ダイリは苦笑するしかない。「心配してくれてんの? 優しいじゃん」

「あんたね、だから笑ってる場合じゃ……」

「俺のはもう、とっくに消え始めてるよ」

「……え?」

「思い出せないんだ。一緒に働いていた職員たちの顔も、俺に全部任せると言ってくれた人のことも、代理ダイリと呼ばれる前、自分がなんて呼ばれてたのかも」

 たくさんのお客様で賑わっていたといういつかの動物園の姿は、すべて日誌のなか。職員たちの手でつぶさに綴られていたおかげで、かつての日々はたやすく想像出来たが、懐かしいという感覚はついぞ生まれなかった。ダイリの記憶にはもう、何一つ残っていない。

 残っていたのは、約束だけ。それだけがダイリに残り続けるものだった。

「空しくないかい?」

 今朝と同じユズリハの質問に、同じ顔をしてダイリは答える。

「そうでもないよ」

 だってそういう約束だったし、何より俺はオートマチックドールだから。




   4


「あー。かなり掠れてるけど、答えを知ってたらまあ、読めないこともないか。文字の大きさ的に『ゆうひがおか どうぶつ おうこく』って感じかな。なるほど、こっちが正規ルートだったのか」

 坂道を下りきった場所で、ユズリハがいましがた通り抜けた、かつて入場ゲートだったと思われる大きな門を振り返る。そこには小さな子どもでも読めるように配慮された、ひらがなで書かれた看板がかかっていた。

 エンダーも来ない辺鄙な場所だとダイリが言っていたが、当時は来場者のためのバスも運行していたのだろうか。もう使われなくなって久しいベンチが、いくつか門のそばに並んでいた。日に焼けてしまい、元の色がすっかり分からなくなっているものや、座面が割れてしまっているものもある。

「イヌハリコ。ドール三原則を読んでよ」

 今にも壊れそうなベンチのひとつに座ったセイが、自分の膝上に乗せたイヌハリコの頭を丁寧に撫でて言う。

『第一条、ドールは人間を守らなければならない。第二条、ドールは人間と交わした約束を遵守しなければならない。第三条、ドールは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己を守らなければならない。以上です』

「ありがと。ねえユズリハ。おれ思ったんですけど、ドール三原則の中には動物のことって入ってないんですよね」

「言われてみればそうだな」

「でもあのふたりは、残された動物たちの世話をして、散歩をして。そうやって、動物たちのことをずっと守っていた。死んでからもずっと」

 セイが背もたれに全身を預けて、のけぞるような体制になる。門の前で佇むユズリハが逆さまになって見えた。

「あんた気付いてました?」

「何に?」

「サンちゃんのご主人さまにお花を供えたとき、他にも石がたくさんあったでしょう。あれ、たぶんあの動物園にいた他の動物たちのお墓ですよ」

「やっぱりそうか」

「ふたりにとって、あそこにいた動物たちは人間と同じだったんでしょうか」

「それはないさ。人間は人間だし、動物は動物。あのふたりが守ってるのは、第一条じゃなくて、第二条だ」

 ドールは人間と交わした約束を遵守しなければならない。

「ダイリもサンちゃんも忘れてしまった『誰か』との約束だったんだよ、きっと。このしずかな王国を守る、っていう」

 だから、あの場所を離れることも出来ない。

 ここから離れて、どこかに行けば、残せる記憶があると知っていながら。

「記憶は勝手に消えるのに、約束だけが残るなんて」

 逆さまになっていた世界をもとに戻して、やるせなさを誤魔化すように、セイは膝上のイヌハリコを両腕で抱きしめた。

 あの場にいた全員が気付いていたけれど、あえて口にしなかったことがある。ダイリの記憶が消え始めているなら、いずれ彼は、サンからの「お願い」も忘れてしまう日がくる。サンは人間ではないから、その約束はダイリのなかに残らない。その日が来たら、あとはふたりとも無くしていくだけ。自分たちが世話をした動物達との思い出すらも、ひとつ残らず。

 そうして、空っぽになったしずかな王国だけを、ふたりは守り続けるのだ。

「三原則が最重要事項。約束は残るものだし、記憶は残らなくても、記録はちゃんと残る」

『ネットワークが使用可能状態になれば、昨日からの記録はきちんと先生のアーカイブに保存されますよ』

「だからほら、そんなところで座ってないで、そろそろ行こう」

 あのふたりと違って、ぼくらはどこへだって行けるんだからさ。

 振り返った先には、本物と同じようにそこから姿を消した文字と、残された『ゆうひ おうこく』の文字。真ん中だけがぽっかりと空白になっている。

「ドールはいつまで人間との約束を守ればいいんでしょうね」

「そりゃあ、もういいよって言われるまでじゃないか?」

 勢いよく立ち上がって、両手を口元に添えたセイは、かくれんぼの鬼へ伝えるように声を張りあげる。

「もういーよーーーっ!」

『こらっ! 近所迷惑ですよ』

「誰もいないのに?」

『そういえばそうですね』

 身も蓋もないイヌハリコの言葉に、どちらからともなく笑いあった。

 返事はまだ、返ってこない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る