第2話 シュレディンガーと隣人

『いやあ、今日も仏頂面ですね、先輩は』

彼女は失礼なことを言わないとダメな性分なのだろうか。指導係が私じゃなかったらすでに何度も怒られているだろう。

「そうかもしれないね。それで報告事項というのは?」

雑談することも大事だし、否定するつもりはない。しかし、話を進めなければこの子は何時間でも雑談をしてしまうだろう。

『今日も連れないっすねえ。実は……テレワーク飽きました!」

画面の向こうで彼女は高速で左右に揺れる。ゲーム用途であろう彼女のヘッドセットもその動きに合わせて七色に輝く。なかなかシュールな絵面である。

「それは大変ですね」

スルーしよう。

『まじでつれねえ! 後輩がこんなに困っているというのにー』

「本当に困っているのなら後でメールして下さい。別途打ち合わせの時間はいくらでも取るから」

『お、先輩のやさしぃ一面、頂きました!」

「いい加減、話を進めましょう。矢賀さん、報告をお願いします」

『はーい、誠司せいじせんぱい! えーと、資料をメールで送っていると思いますので、まずはそちらを開いて頂けますか?』

矢賀後輩は、普段はだけど、めちゃくちゃ仕事ができる。尋常ではなく頭が回り、少なくとも会社外の人に対してはしっかりした態度を取る。もっとも、癖のある会社内での態度のせいで色々な部署をたらい回しにされてしまった。最終的に私の一人部署に異動し、いつの間にやら私の後輩というポジションにすっぽり収まったのである。

『……という感じなので、このままこの案件は進めたいと思います! 大丈夫ですか?』

「問題ありません。一応気づいたところはいくつかありますので、資料に適当に記載しておきました。後で確認して頂ければと思います」

『了解っす! いよっ、日本一!』

先程までの真面目な様子はどこへやら、急転直下で普段の様子に戻る。ギャップがすごいが、別に気にするほどのことじゃない。私も別に嫌っているわけじゃないし、すでに一年以上の付き合いでそれなりに信を置いている。

「一応、ありがとうと言っておきましょう。それじゃあ、お疲れ様。午後からもそこそこ頑張りましょう」

『ういうい、失礼しまっす!』

最後に彼女はぴしっと綺麗な敬礼をしつつ、唇からぺろっと下を出して画面から消えていった。

「よしっ、後はドキュメントだけ整えれば今日の仕事はほぼ終了だ」

時刻は13時前。今から一時間の昼休みをとって午後もさくっと乗り切ろう。

「あ、あ、あ、あ……締切りまで後、後、後……ふふふ、白紙の原稿が、後……」

私とは違って、彼女の正念場はまだまだ続くようだ。心の中で『頑張れ』とついつい呟いてしまった。


しかし、隣の彼女はどんな人物なのだろうか。

サンドイッチに使うきゅうりを切りながらそんなことを考える。お、みずみずしくて良いきゅうりだ。

彼女の職業。漫画家、イラストレーター、そういう感じの創作業の感じがする。締切りに追われていることからするとかなりの売れっ子なのかもしれない。

それ以上のこと……良く分からない。とにかくいつも切羽詰まって叫んでいる印象しかない。

「よし、上手にできた」

牛乳とサンドイッチ。とても素敵な組み合わせだ。彼女のことを考えても仕方ないのだ、私はこれを美味しく食することに集中しよう。

しかし、冷蔵庫の中もほとんど空なので、就業時間後に買い物に行かなくては。


時刻は18時過ぎ。私の右手にはそこそこ膨らんだビニール袋。スーパーで食材を仕入れた帰りである。食材をあまり無駄にしないためにも2、3日分の量しか買わないようにしている。ちなみに今日の夕食はカレーの予定だ。スパイスで頑張るのも悪くないが、流石に面倒なのでルーで簡単に作ってしまう予定だ。

私の家の前でばったりと女性に出会う。背丈はかなり高いが、何より目立つのはその格好である。身体にピッタリとあった細身の黒いスーツの一方で、髪はブリーチで黄金に輝いている。目元の青色のサングラスが非常に似合っているが、一体何をしている人なのか、皆目検討つかない。

その方とはエレベーターでもそのまま一緒になり……私と同じ階で降りる。女性優先、ということで私がエレベータの扉を開閉していたことから、彼女の後ろをついていく形で通路を歩く。そして――彼女は私の家の隣に吸い込まれていった。

……なるほど。声だけで隣の彼女の雰囲気を勝手に想像しても、やはり意味のないことだったようだ。全然想像していた姿とは違ったが、特に気にするほどではない。

私はなんとも不思議な気持ちのまま、自宅の鍵を空けようとする。片手に持っているビニール袋のせいで少しもたついていると、隣から怒声が聞こえてくる。

「先生よぉ! もう締切りだ、早くしやがれ!」

「もう少し、もう少しだけ待ってよー!」

……編集者さん、かな。しかし、あの金髪の方が『彼女』なのかそうではないのか――つまり隣人なのか編集者さんなのか――この目で確認していない以上、それは分からない。

シュレディンガーの隣人、つまらないこのジョークを聞かせる相手がいなくて本当によかった。三十路のこんな冗談なんて場を凍らせるだけだから。

ため息をついて、ようやく取り出せた鍵で私は自室へと戻った。

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