ふともも

ふくろう男は突然現れ、突然いなくなった。そもそもふくろう男なんていたのだろうか。僕の妄想の産物、幻ではなかろうか。どういった会話を交わしたのかも、上手く思い出せない。唯一、この世界は異世界だ、ということだけはよく覚えていた。


 日が昇らない世界。永遠に夜の世界。月明かりは繁茂した木々に遮られ、僕の足元までは照らしてくれない。スマートフォンのライトで周辺を照らしてみようか、と考えたが、バッテリーの消費はなるべく避けたい。なんせ充電ができるあてなど無いのだから。仕方がないので、僕は足元にあるススキのような草を蹴り上げた。先程輝いていたホタルをもう一度呼ぶために。


 この行為は想像以上の効果を生んだ。足元に隠れていたであろうホタルが一斉に発光し、僕の頭を超えるくらいの高さまで舞い上がってきた。小さな光が幾重に重なり合うその光景は、雨の日の道路に反射するテールランプによく似ていた。


 ホタルはしばらく辺りを漂うと、また点滅を始めた。先程の感想につられ、ハザードランプを焚くかのように見える。また消えてしまうのだろうか。僕の心配を他所にホタルたちは次々と点滅を始めていく。

 やはりこのホタル、何かを伝えようとしているんじゃないか。僕は不思議とそう確信めいていた。それと同時にもう一つ、ある考えが脳裏をよぎった。



 「僕に、じゃない」



 脊椎を恐怖が通過した。このホタルは何かを呼んでいる。僕がここにいることを伝えている。そして、それは僕にあまり友好的では無いだろう。ホタルの点滅はまるで警報機のようだ。この場所に留まってはいけない。僕は急いでこの場を立ち去ろうとした。


 しかし、そう思った矢先、僕の目の前を 大きな何か が立ちふさがっていた。


「カココココ」


 目の前の 何か が不気味な音を発している。積み木を口に含んでうがいをしているような音だ。全身毛むくじゃらで、二本足で立つその体は、ゆうに2mは超えていよう。全体のシルエットはヒグマのようにも見えるが、目は顔の中心に1つあるだけだ。手、もとい前足も猿やゴリラに近い。四本しか無いその指からは、長く鋭利な爪が無作法に伸びている。こいつが何を考えているのかは分からないが、友達にはなれそうもない。


「やばい、これはやばい」


 走って逃げないと、しかし、逃げ切れるのか? そもそも足がすくんで立っているのがやっとだ。腰を抜かさなかっただけでも立派だと思う。僕は自分でも勇敢な人間では無いことは自覚しているし、むしろ臆病者、ヘタレなのだ。


 何か はゆっくりとこちらに近づいてくる。


 戦うか、僕がこいつと戦うのか? 異世界に来たんだ、不思議な力の1つや2つくらい使えてもいい。


 何か はゆっくりと爪を振り上げ、思い切り振り下ろした。幸い、どうにか踏ん張ってきた腰がめでたく抜けたことにより、この爪の切れ味を経験せずに済んだ。


 そんなラッキーの余韻に浸れるほどの時間は無かった。 何か は再び爪を空に向けたのである。


 次はどうする? どうなる? 地面が陥没してまた爪をかわすのか、あるいは不思議な力に目覚めるのか、それとも----





 風が裂ける音が鳴り、その音はすぐに大きな金属音にかき消された。


「間に合った、大丈夫?」


 そこには爪を剣で受け止める少女の姿があった。


 ほんのりとラベンダーの香りがした。僕はその匂いをごくりと飲み込んだ。ありがたい。


「怪我はない? すぐにここから逃げるわよ」


 異形の怪物の攻撃を受け止め対峙する女性は、慌てた様子で僕に語りかけてきた。しかし、それどころではない。彼女の衣装である短いホットパンツと膝上まで伸びたブーツ、その間30㎝程の空間に広がる純白のふともも畑に僕は目を奪われていた。世の中には数多のフェティシズムが存在する。僕はその中でも足フェチというジャンルに属している。足フェチと言っても、脚全体のバランスであったり、足の裏であったり、ふともも、ふくらはぎ等、興奮する部位は多様である。僕は『足フェチ目 ふともも科 むっちり属 色白種』に分類される。つまり、今目の前にあるふとももは僕の理想郷である。それは生物の生存本能を凌駕するには十分すぎる理由だった。


「ちょっと、聞いてる? もしもーし。あのね、こいつの力はすごく強いの。私、結構必死なわけ。いつまでも受け止めきれないの。キミが立ち上がってこの場を離れてくれないとね、私もこいつにやられちゃうかもしれないの。腰が抜けて立ち上がれないのなら、群れからはぐれた子犬みたいに四つん這いでどうにかここから逃げてくれないかな」


「尊い」


「なに? なにか言った? いいわ、言い直さないで。きっと私には理解できないだろうから」


女性は呆れていた。僕は彼女の気持ちがよくわかった。助けに来たことを後悔したに違いない。


「逃げます、逃げます。どちらに逃げましょう」


「私の腰にある瓶の蓋を開けて、その中のヒカリについていって」


 彼女の言う通り、俺はすぐさま立ち上がり、腰にぶら下がっている丸い瓶の蓋を開けた。すると中から、僕を幻想的な空間に誘ったホタルとよく似た光が勢いよく飛び出してきた。先程のホタルと違い、色は青白く、動きも活発だった。ホタルは不規則にぐるぐると回り、何かを思い出したかのようにピタリと静止した。


「行って!」


 そう言い放つとホタルは、彼女の左肩をすり抜け勢いよく飛んでいった。僕は慌ててそれを追いかけた。ホタルはすぐに豆粒のように小さくなるくらい遠ざかっていったが、青い光の軌道が線になって宙に描かれていた。僕はそれを頼りに森の中を走り続けた。彼女は大丈夫なのだろうか。僕も加勢するべきだったのだろうか。実際、僕が化成したところでそれはかえって足手まといになるかもしれない。しかしここは異世界だ。なにか僕の知らない力が目覚めているのかもしれない。だが、あの異形の怪物と戦う勇気が僕にはない。今は、彼女が無事に逃げられることを祈ることしかできない。僕は走った。途中、木の根っこに足を取られ躓きそうになったが、どうにか体勢を立て直し、一心不乱に走り続けた。





 月なら元の場所に戻ってくるんじゃないかな。そう思わせるぐらいに走り続けるうちに、僕はとうとう森を抜けることができた。

 森の外は緩やかな丘になっており、そこから見下ろす世界は相変わらず夜が佇んでいたが、森の中よりはずっと明るかった。チカチカと輝く光が遠くの方で見える。あれは街だろうか。空には黄金色の月が浮かんでいる。それは僕がよく知り見てきた月よりもずっと大きかった。その輝きは荘厳で、僕を睨みつけているかのようだった。なんだかバツが悪いので僕は背筋を伸ばし、姿勢良く立ちすくんでみた。

 

 光の道標は丘を下り、遠くの方まで伸びている。しかし、助けてくれた女性が心配だ。引き返すことはできないがしばらく彼女が来るのを待ってみよう。きっと無事にこちらに向かっているはずだ。万が一、あの怪物に殺されでもしたら、僕は逃げたことをずっと後悔することになってしまう。それは嫌だ。

 

 程なくして森から声が聞こえた。


「大丈夫ー? ちゃんと逃げられたー?」


 先程の女性の声だ。僕は罪悪感に苛まれる心配が無くなったことに安堵し、大きく返事をした。


「大丈夫でーす!」



 森から飛び出してきた彼女は少し服が汚れていたが、大きな怪我もなさそうだ。全力で走ったのだろう、呼吸は荒々しかった。




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ヒカリノート 黒川 月 @napolitan07

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