トルソー 1 (旦拝)
※「マネキン 1〜5」から続いています。
↓「マネキン」冒頭記載の注意書きを必ずお読みください。
https://kakuyomu.jp/works/16816452220786401591/episodes/16817330648035951855
学校全体をあげての芸術鑑賞会という試み自体は、なるほど結構なことである。
しかしその対象となる「芸術」の
バレエも能も、その舞台をいきなり見ただけではストーリーは解らないし、あらすじを知っていたところで、面白く楽しめるか、というのはまた違う話である。
娯楽性を重視して、ロックオペラやミュージカルなどを選んだとしても、そもそも突然役者が高らかに歌い出すその表現技法に馴染みがなければ、違和感が勝ってしまうだろう。
「──それに、日本のミュージカルって大抵は元が外国の作品ですから、どうしたって馴染むわけないんですよね」
「なるほど。
──拝原先生って、意外とこういうの辛口なんですね」
「えぇ、そうですかね……?」
逆に、甘口なイメージとかありました? と訊ねると「こういう場合に使う辛口の反対って、甘口ではないんじゃないですか」と笑顔のまま返され、拝原はうぅとうめいて項垂れる。
「どうしたんですか先生、急にしおれて」
「旦波先生ってそういうところありますよね……」
第二理科室のガラス棚の前で、拝原と旦波は言葉を交わしていた。放課後の廊下には、誰もいない。
経年劣化で少し歪になったガラスの表面には、向かい合わずに立つ二人が映っている。背後の蛍光灯の光が、その表情を白くかき消すように反射していた。
「──
「えっ、だ、ダメでしょう、それは」
半ば反射のように、拝原は旦波の方へ向けた首を勢いよく真横に振った。旦波は対照的に、ゆっくりと拝原の方を向いて不思議そうにした。
「そうですか? 僕、意外といいんじゃないかと思うんですけど。ああ、あまりショッキングなものや、センシティブな描写がある作品は避けたほうがいいでしょうけど──」
「ほ、ほとんどそうじゃないですか?」ていうか、あの人、それがやりたくて脚本書いてる節があるし、と目を泳がせる拝原に、「さすがモデルになっている人の意見には説得力ありますね」と、目の奥にどろりと闇を湛えた旦波は口角を上げる。
加治井は、拝原の大学時代の先輩であり、劇作家─そして演出家である。そして、妻子がいながら、拝原と異常な肉体関係を十五年間続けている男でもある。
人を、人とも思わず欲のまま虐げて嬲ることで、その曖昧な奇想が現実に彫琢され、形造られていく。
──その途方もない泥の沼を干上がらせて、残った結晶が彼の作品である。
「僕、あれ好きでした。『贋作 嵐が丘』」
ぴたり、と拝原の不審な挙動が止まる。瞳だけが、よく見ると、細かく
「み、観たんですか」
「はい。調べたら、けっこう演劇作品ってDVD売ってるんですね」
「か、借りたんですか」
「買いました」
ついに絶句した拝原の顔を、笑みの形に細めた目で、じいっと旦波は見ている。
「僕、実は嵐が丘、ちゃんと覚えていなくて。観るにあたって改めて読み返しましたが、──あれは天晴れですね」
「しょ、小説がですか」
「いいえ。演劇が」
もちろん、元の作品がどうというのでなく、あれをそうアレンジするのか、という意味で。
淡々と、旦波は拝原の顫える眼から視線を外さないまま、微笑している。「あれ、再演されるんじゃないですか。もうすぐ。新宿で──」
理科室前の廊下の電気が、羽音のように瞬いた。拝原の脳裏に、かつて観た舞台の景色がフラッシュバックする。
たとえ、大きな屋敷のなかでも、寝室でも、厩でも、荒野のヒースは常に舞台の上に蔓延っている。偏執的に丁寧な
影のように、足元に縋りついて、運命のように、決して離れない。
黒い緑の血。
旦波の眼が、声が、その背後の読めない心が、ヒースのように足元に忍び寄って、拝原の両脚をがんじがらめにする。
「今度、二人で観にいきましょうよ」
「ハスの葉っぱって、よく水を弾くでしょう。あれは表面に細かい粒々があるからなんですよ」
紫の、先の尖った蓮の花が、ガラス越しの陽光に、ピンクに透けている。
「へえ。肉眼では見えないですけどねぇ」
「ヨーグルトの蓋の裏とかも同じ原理で作ってるそうです」
「ああ。アレすごいですよね」
ほとりほとりと、会話は人工池の中に落ちて吸い込まれていく。
新宿御苑の温室は、水っぽい植物の気配で、息苦しいほどだった。濃い緑の匂いは肺を圧迫する。塞ぐのでなく、浸み入って、内臓が湿って重たくなってしまうのだ。
小さな橋の上で、小人の国に迷いこんだような長身痩躯を折り曲げて、拝原は水面の草に視線を落とした。
「ここ、好きなんですけど。校外学習で来ると、全然集中して見られませんから」
「僕もきちんと見たことなかったので、面白いです。拝原先生の、生物の先生っぽいところも見られて」
「いや、ぽいっていうか、生物の先生なんですけど……」
眉尻を下げながら、拝原は口の中で呟く。水面に映る自分の顔は、ずいぶん不健康そうな色をしていて、隣に立っている旦波の──長袖でこそあるが──体育教師らしい肌の色とは対照的である。
水鏡に映る旦波のほうを向いていたからだろうか。拝原のシャツからのぞく頸筋に、ほんのわずか、黄色が滲む紫が見えた。咄嗟に手で覆う。
家を出るときに気がつけなかった。見るからに痣だった、隣の男につけられた──
臍よりも下、何もない腹の奥がじくりと疼いた。拳を叩き込まれる前、ざらりとした彼の指や、握った拳の背で、いつもそこを一度撫でられる感覚と同じだ。
まずい、まずい、とぐるぐる頭の中で水が渦を巻くように考え込む。ああ、身体中の紫と黄色が熱くなってきた、日向に置きっぱなしの水がぬるんで腐るように。
隣の男のせいなのだ。
拝原は、水鏡から視線を外し、気まずさを隠して立ち上がった。旦波のほうへ一歩寄ると、彼は気づいてやたらと長身の拝原の顔を見上げてにこりとする。
「国立新美術館のほうにでも行ってみます?」
「うーん、時間ありますかね」
「えー、まだお昼ですよ。拝原先生、展示は結構しっかり見るタイプですか」
「どっちかって言うと、そうかもしれないです。……どのくらいで行けますかね」
旦波は素早くスマホを操作すると「歩いて三キロ弱ですね。どうしましょう」と、拝原に委ねてきた。優柔不断のきらいがある拝原は、曖昧な相槌だけうち、長い首を傾げて黙り込んだ。そこで、はっと先程見た痣を思い出して、おもわず頸筋に手をやって俯いてしまう。
スマホをジーンズのポケットにしまった旦波の手を、つい俯いた視線で追ってしまう。くるぶしと同じ、香ばしそうな手首の骨、腱と肉の筋、手の甲。指の付け根の紫と黄色。
最近は、暴力だけではない。固く握られていたこの指が開かれて、次にされることを、もうこの身体が覚え始めている。
「拝原先生。気分でも?」
「え。あ。だいじょうぶ、です──けど」
旦波が、その手首を掴んだ。
指がぐるりと、骨の透けた手首を一周して、締めつけてくる。
「どこかで休みます?」
橋の上で、ぐいと引き寄せられた。
ぎらぎらと、温室のガラスの向こうで輝く日が、二人の足元に、絡みあう強い影を落とす。そのひとつになった影から、
「た、旦波先生──」
旦波は黙って、わずかに歯を見せて笑った。
「──
尖った白い歯の隙間から、濡れた舌がのぞいていた。
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