4、陽を望む影



どんなことがあったとしても朝は必ずやってきた。

あの時だってそうだったように。

今日だって、そう。


登校前で慌ただしい朝の女子寮の廊下。

木尾 アンナはある部屋の前で立ちすくんでいた。


一組、また一組、仲の良い者同士が寮の階段を降りていく。

そそくさと通り過ぎるその子達が遠巻きにアンナに好奇の視線を送りながら顰め合う。

ひそひそと密やかに飛び交う事実。それは聞かなくても理解できるほど明白で、耳を塞いでも余計な情報が頭に流れ込んでくるようだった。


昨日の夜、各生徒の部屋に設置されている連絡用の魔法端末に避難警報発令の詳細が送られてきた。


学園内でSランク悪魔の鮮花を確認したが契約者がいるため明日の就学に支障は無い。

……という旨だった。


人間には決して従属しないと言われる鮮花。

そんな悪魔の恐らく史上初の契約者となった友人。


その事実を確かめるのが怖くて、アンナは扉を叩こうとする手を動かせないでいた。


「……マリア」


この中に鮮花がいる。

マリアは無事なのか。

もしかしたら、いや。でも、もし……

アンナは震えるほど握った手を力なく落としてマリアの部屋から目を逸らす。


「……ごめん」


一歩、二歩、扉の前から後退るアンナ。

そして後ろめたさを振り切るように一人で階段を駆け降りた。





ーー

アンナのその様子を、ベトニアチェルは部屋の中から感じ取っていた。


『……行ってしまいましたよ、マリア』


既に学校へ行く準備を整えていた私はベトニアチェルの声に少しだけ肩を落とした。


「仕方ないよ、客観的に見たら私だって怖いと思うもん」

『……私のせいですよね、ごめんなさい』


目の前でベトニアチェルが萎れたように謝った。


「ううん、ベートのせいじゃないよ。誰のせいでもない」


私は首を振って持っていた鞄をぎゅっと抱きしめた。


「大丈夫、今日からまた入学すると思えばいいんだよ」

『マリア……』

「それに一人じゃない。ベートと一緒だもん!」


前向きでいよう。

私はそう心に決めて目の前に咲く真っ赤な花に微笑んで見せた。

肩にそっと蔓を伸ばしてきたベトニアチェル。


『……そうですね。では、そろそろ参りましょう、か』

「うん。でも、ちょっとだけ待って」


私はベトニアチェルの蔓をぎゅっと握ってドアの前でしゃがみ込む。

行かなくちゃと思うのに足が竦んでしまうのだ。

いつもは何とも思わないドアノブがあんなに遠い。

胸のチクチクともやもやが消えない。


「ごめん……もう少しだけ」

『マリア……』


この言葉に出来ない気持ちを察してくれたのだろう。

ベトニアチェルは私がドアに手を伸ばせるようになるまで静かに寄り添ってくれた。







ーー

そして気を取り直して登校。

ベトニアチェルの案内は完璧だった。

言われた通りに進むだけで目指す場所に辿り着く。

少しも迷わず目的地に行けるだなんて、まるで背中に羽が生えたかのようだ。


私は小走りに魔除科の教室に向かう。

遅刻ぎりぎりの今、廊下に生徒の姿は無い。

すれ違う生徒も他人なんて気にも留めずに歩き去っていく。そのことにちょっと安心している私がいた。


『マリア、着きまし……通り過ぎましたよ』


ベトニアチェルの声にはっとして足を止める。

余計な事に気を取られていた私は苦笑いしながら行き過ぎた距離を後ずさる。


そして到着した魔除科 一年一組。

私は隙間なく閉ざされた教室の扉をじっと見つめる。


クラスの様子はどうだろう。

いつも通りに接してくれるかな。

もしも、みんなに……あー、いやいや。


「ありがとベート。よし、次は私が頑張る番だ!」

『ええ、応援してます!』


ベトニアチェルは私を励ますように頬に花弁を押し当てると気を利かせて鞄の中に隠れてくれた。


「ふーっ、はぁーっ」


私は深呼吸をしてもやもやを落ち着かせると、そおっと静かに教室のドアを開いた。


音も立てずドアを開いたはずなのに、クラスの視線が一斉に私に注がれた。


「お、おはよ」


私はいつものように笑みを作り、教室に一歩踏み込んだ。


「…………」


誰も挨拶を返してくれない。

教室はしんとして私の一挙一動に注目している。


みんな緊張してるし、どこか変な体勢。

たぶん隠したその手に杖を握り、または鞄を握りしめ、何があっても逃げられるような体制を整えているんだろう。


避けられているどころか警戒されていると全身で感じながら、私は窓際の真ん中の席に腰を下ろした。


「……………」


沈黙がこれほどまでに痛かったことがあっただろうか。

時計の針の音がやけに耳に付き、少しの雑音が耳の奥で反響する。


顔が上げられない。

椅子の据わりが悪いのに身動きが出来ない。

緊張の唾を飲み込むことさえ躊躇ってしまう。

俯いたまま時計の針の音に刺され続けている時だった。


がっと乱暴に椅子を引く音がして一つの足音がこっちに向かってきた。


「遅刻、ぎっりぎりじゃない、マリア。そんなんだったら一学期終わらないうちに退学になるわよ」

「あっ……」


恐る恐る顔を上げると、目の前には怒ったアンナが仁王立ちで立っていた。


「マリア、あなたのことよ。聞いてるの?」

「アン、ナ……」


腕を組んでいつものように説教をしてくるアンナの姿を見て何故だろう、目頭が熱くなってきた。


「アンナ、私、いいの?」


いつもみたいに接してくれようとするアンナの気持ちが嬉しくて、私は机の向こうに立つアンナに手を伸ばす。

彼女は身を引くこともせず「何よ」とばかりにふんぞり返っている。


「あっ、あぁんなぁぁっ!」


私はアンナを引き寄せて力強く抱きしめた。

緊張で強張っていたアンナの身体から力が抜けて、ふにゃんと優しく抱き返してくれる。


「マリア、あなたが悪いのよ、あなたがちゃんと言ってくれれば、私だって、こんな、」


アンナは口元を押さえて声を震わせた。


「マリアのばかぁー」

「ごめんねアンナぁ」


教室中に響くほどの声で私とアンナがわんわん泣いていると教卓の方から「おー、青春やってるな」という感嘆の声が聞こえてきた。


「青春も良いが二人とも、席着けー」


ぼさぼさ頭を掻きながら教卓に肘をついてそう言ったのは雨宮先生だった。


「あっ、す、すみません」


アンナは弾かれたように後ろの席へ戻っていき、私も先生に会釈すると席に着いた。


雨宮先生は仕切り直すようにごほんと咳払いをすると、やたら長い「えー」の前置きから話を始めた。


「はい、みなさん先日はお疲れ様でした。それぞれ確認したと思うが、昨日の避難警報は管理課の早とちりだったみたいだな。今朝の職員朝会で、あれは避難訓練だと思って日々緊張して過ごせ。と、生徒たちに言っとけと言われたんで言っとくぞー」


雨宮先生は上の不都合に対する適当な解釈を「ははっ」と一笑した。


「で、渦中の花枝、ウワサの新顔連れて前来い」


先生はやる気なさげに手をこまねいた。

ベトニアチェルは鞄の中に居るはずなのに、どうして連れてきてるとわかるのだろうか。


「え、あ、あの」

「隠れてるんだろうがニオイで分かる。ほれ、はよ来い」


落ち着きを見せた教室に再び緊張が走る。


私がおずおずと鞄を開けると『あらら、まあ』と話を聞いていたベトニアチェルが顔をのぞかせた。

ざわざわとみんなが身を引くような感覚。

私は手のひらサイズの赤い花を両手に持つと、みんなが怯えないように胸の前で隠しながら教壇に上がる。


雨宮先生は教卓に頬杖をついて小さなベトニアチェルに手を振ってみせた。


「はーい鮮花、昨日ぶり。早速で悪いが、俺の生徒たちに自己紹介してもらっていいか?」


私の手からもぞもぞと這い出してきたベトニアチェル。ベトニアチェルはじーっと雨宮先生の方を見ると茨を腕のように組んで雨宮先生にぷんと遺憾の意を表した。


『……先生。私、気さくな方は好きですが、馴れ馴れしい殿方は嫌いです』

「ベート!?」


急にへそを曲げたベトニアチェル。

慌てる私と対照的に雨宮先生は怒るベトニアチェルを愛しそうな目で見つめていた。


「残念、俺はこういう性格なんだ。ほら、レディ。拗ねないで綺麗な顔を見せてくれよ。俺はもっとお前のことが知りたいんだ」


先生、冗談だよね? と正気を疑うクールな発言。

怒ってる相手にその返しはアウトだろうとヒヤヒヤしていたのに先生は自信満々。そして何故かベトニアチェルは赤みを増してうねうねと昂っていく。


『んふ、まあ……そうですね。先生がそう仰るなら私の生態と言わず、もっと深いところまで、ほら、お見せいたしましょう』


恥じらっていた花がもこもこと大きくなっていく。

茨が私の手を零れ、不気味な濃緑の枝葉が黒板を埋め尽くし、真っ赤な爪のような棘がその鋭い先端を光らせる。

そして、血のように濃い真紅の花が私の身長くらいに開ききると騒然としていた教室は逆に凄惨なほど静まり返ってしまった。


「…………」

「ちょ、ベートっ! みんな大丈夫だからね」


これは初見者にショックを与えかねない光景!

私は両手を振ってみんなの視界を遮ってみたが、だから何だというほどの効果。むしろそれが逆効果だったのか、私の言葉を引き金に生徒の一人が悲鳴を上げた。


「きゃーぁ!」

「うわぁ鮮花がデカくなった!」「逃げろ!」


そしてそれに続くようにみんな席を立ち、後ろの壁まで退いてしまう。


「はいはい、それが正しい反応だ。本能的な危機察知能力は花枝を除き全員オール5だな。じゃあ特別講師もいる事だし、このまま一限目の授業はじめまーす」


雨宮先生は阿鼻叫喚のクラスを見渡してペチペチとやる気のない拍手を送る。

しかし、生徒たちはそれどころではなく「先生が鮮花を怒らせた!」「殺される、助けて!」など、口々に恐怖を口にして震え上がっていた。


「ほーれ静まれ。授業中だぞ。お前たちもこれから調伏科と絡むようになったらこんなんよくある事だ。基本は人間と同じだ。初対面の相手を前にピーピー言ってたら失礼だろう」


雨宮先生の言葉にクラスのみんなは教室の後ろに集まって息を呑み、目を見開き、息を潜めた。

雨宮先生はちょっと真面目な顔で教壇を歩き回る。


「あのな、悪魔ってのは人間より余裕で強いから、こっちが何かしない限り無闇やたらとは襲っては来ない。……とも限らないから気をつけろー」


雨宮先生まさかのフェイント。

そういう刺激的な情報はもっとまろやかに伝えるべきだ。

最後の警告に発狂寸前の生徒たちを見て雨宮先生は大きく頷く。


「そうそう、いい反応。先生の言う事が全て正しいってのは間違いです。こういう時、唯一信頼できるのは教師の言葉でもなく、契約者の言葉でもなく、悪魔本人との約束だ」


そう言うと、雨宮先生は私とベトニアチェルに謎の目配せをしてきた。


「……ってことで花枝、鮮花、頼んでもいいか?」

「へ?」


何を? と問う前にベトニアチェルがくねくねと私に絡みついてきた。


『もう、先生ったら。何様かと思ったら俺様だなんて、王道ですね。……分りました。私、奥ゆかしいので特別に頼まれて差し上げましょう』

「へ?」


二人だけの謎展開に遅れをとった私。

俺様? 王道? 奥ゆかしい?

と、文面だけでは何が始まるのか分からず、私は先生とベトニアチェルを交互に見上げる。


「何? ベート何するの? 時代劇?」

『ああもうお馬鹿、マリアもよく覚えていなさい』


ベトニアチェルはやれやれとばかりに花を振り、私に契約印のある左手を上げさせて教室のみんなに向かって宣言した。


『私、鮮花 ベトニアチェルは、契約者、花枝 マリアの意図を汲み、このクラスの生徒たちに手を出さないと誓いましょう』


「…………」


しんっ、と教室が静まり返った。

そしてざわざわと、みんなが顔を見合わせる。


「どういうこと?」「大丈夫なの?」

「でも鮮花がそう言うなら……」


やがてベトニアチェルの誓約に信頼が伴うと引き攣っていたクラスのみんなも少しだけ胸を撫で下ろし、そんな生徒たちを見て雨宮先生もうんうんと頷いてる。


「はい二人とも、どうもな。お前ら、今日はもう床に座ったままでいいから授業を続けるぞー。鮮花、ちょっと黒板空けてくれ」


雨宮先生はぺったぺったとビーチサンダルを鳴らして茨に覆われた黒板の前に立つ。

それにしても雨宮先生はベトニアチェルが怖くないのだろうか、「もうちょい寄ってくれ」など気兼ねなく接しながら授業を始めている。


「いいか、悪魔との約束には大きく分けて二つある。一つは保身や願望など悪魔の行動や能力を簡易に束縛する誓約。そして、使役や隷属など悪魔の存在丸ごとを強固に束縛する契約の二つだ」


雨宮先生はベトニアチェルが空けた黒板の隙間に【誓約】【契約】と大きく書いていく。


「誓約はいわゆる守るべき約束だ。互いが理解して誓うものだが、強力な証明や義務はない。だから守れなくても罰則は無いが、蔑ろにすれば信用を失う」


雨宮先生は黒板に注釈を書き込み、そして契約の字をチョークでカツカツ叩きながら話を続ける。


「契約は誓約より強く互いを縛るものだ。契約内容は互いが遵守するべき法律みたいなもので、違反すれば破った方が罰を受ける。これは覆されることのない事実で、その上に悪魔と人間との関係が成り立っている。ちなみ花枝が鮮花と結んだのはこの契約だ」


雨宮先生は黒板に【信用第一】と書き込んでその字をハートマークで囲んでみせた。


「仮に人と契約している悪魔だとしても、何の約束もないまま油断してると食われるぞ。まずは契約者を介し悪魔に誓約、つまり保身を約束してもらうことだ」


雨宮先生は黒板のスペースに雑な字で誓約の原則を書いていく。


「まずは保身の内容、そして対価を示し、交わされた内容の一切を記録しておけ。誓いを立てたくらいで安心してると痛い目を見るぞ。木尾、さっきの鮮花の誓約内容を言ってみろ」


雨宮先生はみんなと一緒にへたり込んでいるアンナを指名する。


「えっと、『私、鮮花 ベトニアチェルは、契約者、花枝 マリアの意図を汲み、このクラスの生徒たちに手を出さないと誓いましょう』だったと思います」


恐る恐るという風だが、アンナは完璧にベトニアチェルの誓約を復唱して見せた。

先生も「おーやるなぁ」と言って拍手をする。


「さすが魔徐科の出る杭。じゃあ、この誓約の裏をいくつか挙げてみろ」


誓約の裏という言葉にクラス中が困惑した。


「ベート、さっきのそんな裏とかあるの?」


てっきり完全な保身を誓ってくれたのだと思っていたから私は驚いてベトニアチェルを見上げる。


『ふふ、昨日も言いましたけど完璧な約束などありません。いい機会ですし、マリアも考えてみなさいな』


私が誓約を思い出そうと頭を捻っているうちに、アンナはそこら辺の紙に誓約内容を書き出し、それを見ながらぶつぶつと何かを考え込んでいる。

そして文章中に二つの線を引くと顔を上げた。


「はい、誓約の裏は二点。一つはこのクラスの生徒でいる間の保身は約束するが、このクラスの生徒じゃなくなった場合はその限りではない点。もう一つ、手は出さないと言ったが、それ以外の攻撃は誓約の範囲外。そもそも鮮花に手はありません」


アンナは誇らしげに回答して見せたが、言った後に青ざめる。


「すばらしい、良い着眼点だ。つまり、今の誓約だとお前たちは何一つ身を守れていないことになる。ちなみに生徒ではない俺は全くの対象外だということも気付いてくれれば加点をあげたんだが、惜しかったな」


そう言って雨宮先生はアンナに向かってぐっと親指を立てた。クラス全体が不安に駆られているというのに先生は非常に楽しそうだ。


「悪魔へ誓約させる時のポイントは、悪魔に首を縦に振らせることだ。誓約内容は自分たちが考えて提示するほうが裏をかかれない。じゃあ各自で裏目に出ない誓約を考えてみろー」


我が身に関わることだからか、みんな必死に知恵とアイデアを出し合っている。


『さあ、マリアも私に穴のない保身を誓わせてみなさいな』


ベトニアチェルは楽しそうにばさばさと花を揺らす。花弁が煽る風でチョークの粉がぶはっと舞い上がる。


「ちょっとベートやめっ、もう縮んでて! 集中できない!」


私が花をムズムズさせて怒ると、ベトニアチェルは『はーい』と言ってちょっと長い扇風機程度まで縮んでくれた。

ベトニアチェルよ威圧感が薄れたからだろうか、授業に臨むクラスの意気も上がった気がする。


よかった、よかった……と言いたい所だが、

多分、私が一番に誓約を発表するべきなのだろう。

私は今考えられる最高の契約を捻り出す。


「はい。じゃあ、えっと、言うよ? 私はベートに優しくするから、ベートも私を傷つけないと誓って下さい?」

『マリアはいつもシンプルですね。結構なことです』


私の真横で真紅の花が深く頷いた。


「で、どう?」

『まず、誓約には略称や一人称ではなく正式名称を用いることが望ましいです。私ではなく、花枝 マリア。ベートではなく、鮮花 ベトニアチェルといった具合ですね。誓約内容については、うーん。それでいいんじゃないですか』

「適当にしないでよ」

「いやいや、俺もそれくらいでいいんじゃないかと思うぞ」


私が拗ねていると雨宮先生もベトニアチェルに同意を示した。


「場合にもよるが、細かすぎる誓約だと逆に欠点を見つけたくなるし、大きい落とし穴に繋がりかねん。簡素な方が契約を覚えておきやすいし、誇大解釈のしようがないから不利になることはないぞ。鮮花の言う点を直せば大方通用するだろうな」


雨宮先生はほうほうと頷きながら私の誓約を褒めてくれた。

そうするうちに切り込み隊長アンナが渾身の誓約を持って雨宮先生の前にやってくる。

ベトニアチェルもどれどれと間に入って誓約の確認をしている。


『あなたは今朝マリアのお部屋の前までいらしてくれた方ですね。うんうん、丁寧で誠意ある良い誓約です』

「えっ……あ、ありがとう、ございます」

『そう恐縮なさらずに。さあ、どうぞ私に言ってごらんなさい』

「ひっ……えっ、と」


最初はアンナもベトニアチェルを怖がっていたが、ベトニアチェルの的確なアドバイスと分かりやすく優しい指導にだんだんと心を開いているようだった。


アンナがベトニアチェルと満点の誓約をした頃、他の生徒もちらほら誓約を見てもらいに前にやってくる。


『この表現は少々回りくどいです。簡潔に要点を絞ってみてください』


とか、


『あなた、これは図々し過ぎて悪魔受けが悪いです。誓約は双方の信頼あってのもの。押し付けるのは良くないです』


とか、


『これはまた、綺麗に捻くれた誓約ですね。逆にあっぱれ。あなたの方が悪魔に向いてますよ』


など。

ベトニアチェルは実に良い教師として教壇に蔓延っていた。


そしてみんながベトニアチェルと誓約を完了しようとする頃、ちょうど授業の時間も終わろうとしていた。


「はーいみんな席つけー。今日はおかげさまで実りある授業ができました。鮮花と誓約できるなんて滅多にないぞ。花枝と鮮花に感謝しとけー。ってコトで、午前終了。飯食って来い」


雨宮先生がぱぱっと授業を切り上げると、その瞬間に終業のベルが鳴る。


私もみんなと一緒に食堂に行こうと思ったら雨宮先生が「花枝はこっちだ」と私を教室の外に呼んだ。

心得たようにベートがしゅるんと髪に巻き付き、私は興奮して盛り上がるクラスメイトたちを横目に見ながら名残惜しげに教室を出た。


「花枝、お前は鮮花と一緒に外で飯だ」

「外……? どうしてですか?」

「あほか、鮮花は植物だろ。光合成させなきゃ枯れるぞ、なあ?」


そう言って雨宮先生は髪止めになったベトニアチェルに同意を求めた。


『まあ、そうなりますね。授業中は傍にいますが、お昼時くらい外にいなくては、私萎びてしまいます』


そういってベトニアチェルはしおらしくして見せる。


『あとは水も欲しいです。それと差し支えなければ生き血とか肉片とか、あ、やっぱり結構です』


しおらしそうにして強かな要求をしてくるベトニアチェルをじとっと睨みつけると、彼女は『きゃっ』と嘘くさい悲鳴を上げて私の背中にこそっと隠れた。


「血とか肉って……ベートは植物なんだから、堆肥とか油かすじゃダメなの?」

『はぁ、マリアは私を家庭菜園レベルで養うつもりだったんですね。申し遅れましたが、私一角ひとかどのグルメとして名を馳せた時期もあるんです』


そう改めたベトニアチェルは私の背後でながーい溜息を吐いた。

だけどいきなり『私グルメなんです』と言われても何を食べさせれば良いのか分からない。

グルメといえば何だろう……刺身? 焼肉?

いやいや。ベトニアチェルは植物だ。ちょっとリッチな肥料と言えば、「魚粉……牛糞……」

なんて考えていたら、私の思考を読んだ雨宮先生が「違う、それじゃない」と首を振る。


「花枝、鮮花は植物という概念をいったん捨てろ。まず第一に鮮花は悪魔だ。特殊生物Ⅰ の授業で話したろ、悪魔の食餌と言えば何だ?」

「えっと、生贄です。でもベートにはほら、口が無いから固形物は無理ですよ」

『無理じゃないです。大柄なものでも私ちゅるんと頂けます』


背後からベトニアチェルが主張する。

生贄をちゅるん、って、一体どんな食事風景だろう。

「あー……アオイソメ、白魚、生パスタ」

ちゅるんとした生贄を想像していると、また雨宮先生が「どうしてそうなる」と私を小突いた。


「悪魔の生贄は基本的に生きた哺乳類。等級と階級は生贄規格の表を見直しておけ」

「えー、はぁーい」


雨宮先生の抜き打ちスパルタ指導に私はむうと口を尖らせ返事をする。

ご飯は生贄だなんて、そんな大事なことはもっと早く聞きたかった。

私がどうやって生きた餌を用意しようと考えていると、雨宮先生はベトニアチェルに困ったような顔をしてみせた。


「鮮花、あのな、学園で中級以上の生贄を出すには特別な許可が要るんだ。一応申請はしてみるが、鮮花に許可が出るかは分からない」

『致し方ないことです。この学園にいる以上、私もそこまでは望みませんよ』

「すまないな。まぁ、今日は授業の礼に、俺が腹いっぱい水飲ませてやるから」

『まあ、ありがとうございます。先生ってやっぱり紳士ですのね』


ベトニアチェルは肩口からひょこりと真っ赤な花を覗かせて嬉しそうに揺れている。なぜこうも二人は仲が良いのだろう、契約者ながら私は一人、アウェーな気分だった。


「さってと、花枝の進路指導も兼ねて今日は俺と昼飯な。何か奢ってやるぞ」

「え、そんな大丈夫です」

『マリア、お断りしては失礼です。こういう申し出はきちんと受けて男性に花を持たせるものですよ』


どこまでもマルチな知識を披露するベトニアチェル。

私はそれに習い「じゃあ、先生と同じもので」と頼んでみた。

先生は笑顔で頷くと「じゃあ下の庭で待ってろ」と言って教室を出て行った。


私たちは庭を目指して廊下を歩く。

ベトニアチェルの誘導に従いながら、私はぼんやりと色んなことを考えていた。

ベートは植物じゃなくて悪魔。

しかも危ないことで有名な鮮花。

その中でも最凶最悪と言われた三大悪、万毒の鮮花……なのだが。


『マリア、次の角を右ですよ』

「はーい」


耳元で行く先を指し示すこの小さなバラ。

上品で、親しみがあり、お茶目。

大きさも変幻自在だし、教科書の挿絵とは姿も印象も全く違う。

どの辺りが最凶最悪と呼ばれるのか私は頭をひねった。


『その階段を降りますよ』

「はーい」


これが本性じゃないのなら、彼女の本質とはどんなものなんだろう。もしも教科書通り血も涙もない悪魔なら、私はどうなってしまうのだろう。


なんて、色んな事を考えてしまうが、それを口に出して問えるほど私たちはまだ近くはない。

それに、私はまだ【ベトニアチェル】という悪魔を知るのが怖い。

そう思えば、言葉に出せる事は多くなかった。


「……ベートって、何なんだろう」

『何ですか、藪から棒に』


ぽろりと出てきたのはしょうもない質問。

自分でももう少し頭の良い言い方があるだろうと思ったが、まあいいかと諦めてそのままの話題に沿った。


「すごい物知りだし、昨日まで寝てたと思えないくらい元気だし。大きさ変わるし。っていうか今何歳?」

『もう、質問が多いです。それに、淑女に向かってずけずけと年齢を問うものではありませんよ』

「言いたくないならいいけど」

『千三百歳です』


「……へっ?」


予想よりも桁が一つ多い。

その衝撃に私の目が点になる。


『封印されていた時間を除けば正味五百歳ですが、寝ている間も情報は吸収していましたから、やっぱり千三百歳ですね』

「え、予想以上に年だね」

『……その言い方は直した方が身のためですよ。ですが悪魔は年を重ねることを誇りにするので年齢は積極的に聞いていいところです』

「そうなんだ。ベートってすごい長生きなんだね」


私がそう言うと、例によってベトニアチェルは嬉しそうに揺れて見せた。


『ええ、悪魔には基本的に寿命はありません。ちゃんと摂るもの摂っておけば、半永久的に生きていけます。でも千歳超えは悪魔の中でも自慢できる数字なんですよ』

「へー」

『あ、ちょっと流さないで下さい。ここ大事な話なんですから』

「そうなの?」


私が首を傾げるとベトニアチェルは私の肩の上でむんっ! と胸を張る。


『ええ、ちゃんと聞いてください。私たち植物系悪魔は水と日光によって生命維持ができますが、それだけで寿命は延びないのです』

「ふーん。あ、分かった。それで血とか肉とか言ってたの」

『まあそんなところです。悪魔は人々に生贄を捧げて貰ってその生命力に依存しながら存在を成り立たせるものですから』


私は「そうなんだ」と相槌を打ちながらベトニアチェルの話の続きに耳を傾けた。


『むしろ私たち悪魔は人間より命の摂取は少ないのですよ。契約した悪魔は契約者から体の一部や生気を貰うことでそれ以上の延命が可能ですし』


「……ねえ、それってもしかして、私の何かを強請ってる?」


怪訝な顔をして尋ねると、ベトニアチェルは『てへっ』と可愛いこぶって見せる。


『お願いだからそんなに怒らないで下さいよ。実は私、八百年の消耗であんまり長くないんです』


何気ない告白に気付き、私は驚きを隠せなかった。


「えっ、どういうこと。長くないって、あとどれくらいなの?」

『まあまあ、落ち着いてください。平穏に暮らせばあなたの卒業くらいまではお傍に居られます。ただ、そうもいかないのは分かってます』

「え、何で?」


『マリアにこの気配を察知しろって言っても無駄なんでしょうね。昨日の審問会以降、私たちずっと見張られてますもん』

「し、知らなかった」


辺りを見回してみたが、私には誰の気配も感じられない。


『まあ、彼らもすぐに事を起こすつもりはないでしょう。だから私の寿命の件、少しだけ考えてみてください』

「いや、それは考えるよ。ってか、なんでもっと早く言わないの?」

『昨日、審問会に行く前にそれとなーく言ったんですが、嫌われちゃったので』

「ちゃんとした理由があれば別だよ」


最凶と言われる悪魔が死ぬなんて全然考えなかった。

生贄を準備するといっても学園には頼れなさそうだ。哺乳類の生け捕りといえば……その方法は限られている。


「私、網罠猟の免許取ってイノシシとかタヌキ取ってくるから、まだ死なないでよ」

『ふふ、ありがとうございます。でもちゃんと私の話聞いてました? 私は動物よりも、あなたの傍で生気を貰って、たまに何か頂ければ生きていけるんです』

「……生気って今も吸ってる?」

『ちょっとだけ、ちょーっとだけです。分からないでしょ?』


ベトニアチェルは取り繕うようにぱたぱた葉っぱを振って見せる。


「いや、いいよ別に。あと、たまに何かって、例えば何?」

『えっと、軽いものなら涙などの体液ですね。あとは血液とか一定量の毛髪やら……それ以上は望みません』

「……昨日しれっと飲んだでしょう」

『ほほ、出てるものは頂きませんと』


思い起こせば、涙が数回と血を二回くらい吸われた気がする。

どこまでも抜け目ないなと感心したが、そこまでしないとベートは生きていけないんだと、ちょっと悲しくなってしまった。


「いいよ、大したものはあげられないけど、私ももっとベートと居たいもん。出来ることあったら言ってよね」

『図々しくてすみません。負担にならないよう努めますから。あと、どうか寿命の件は内密に』

「うん、分かった」


話がひと段落して、私たちは魔徐科の下にある庭に到着した。


天気はいいけどまだ風が冷たい。だからだろう、外でご飯を食べている人は一人もいなかった。


ベトニアチェルは一目がないのをいいことに、私の肩からするりと降りるとのびのびと芝生の上に伸びきっていく。

私は近くのベンチに腰を下ろしてベートの増殖していく様子を見守った。


「うわ、なんだこりゃ」


背後で雨宮先生の声がした。ベトニアチェルの茨の隙間を選んでベンチまでたどり着くと「すげえな」といって私の隣に腰を下ろした。


「ほい、昨日はご苦労様」


雨宮先生は大きな紙袋を私に渡す。

中には大きなサンドウィッチとあったかいココアが入っていた。


「わぁ! ちょうど寒いなって思ってました。ありがとうございます」

「まだ春先だもんな。でも今日からお前は暑くても寒くてもこうしてやらないといけないんだ」


先生は紙袋から同じサンドウィッチを出すとそのまま大口にかぶりついた。


「そうですね。さっきベートに悪魔の食事情のあらかたは聞きました」

「いやあ、あいつ俺より先生向いてるよな。さっき思ったけど教えるの上手いし。まあ負担にならない程度に養ってやれよ」

「先生って悪魔のこと詳しいですよね、ベートの事も全然怖がってないし」

「ん、そりゃまあ先生だから詳しいのは当たり前だな。でもSランク相手に怖がってない訳じゃないぞ。俺だってちゃんと怖いものは怖いし」

「え、そうなんですか?」

「当然だ。ただ、学生の時から調伏科の奴と知り合いで、悪魔慣れしてるってのはあるな。だから悪魔がみんな怖い奴じゃないってことは知ってる」


先生は話をしながら器用にパンを頬張っていく。あんなに大きかったのにもうあと一欠けしか残っていない。私も大きなサンドウィッチにかぶりつく。


「花枝、お前は鮮花を怖いと思うか?」

「うーん……少しだけ」


齧ったサンドウィッチの断面を見つめて、日光の下でだらけきったベトニアチェルを見る。


「私、今まであんまり悪魔と接点のない人生を過ごしてきました。悪魔の話は恐ろしいものばっかりだけど、実感はないっていうか……この学校も学費が安くて就職の間口が広いって理由で受けました。だからベートがどんなに恐ろしいかよくわからないし。それに、ベートが今から怖い思いをさせるって、迷惑をかけるって言う意味が今もいまいち分からないんです」


先生は最後のパンを飲み込むと、蓋付きカップのコーヒーを一気に飲み干した。


「はあ、あいつそこまで言ったのか。契約内容といい、接し方といい、随分愛されてるな」

「そうですか?」

「使役される悪魔は普通迷惑かけるとか言わねえよ。お前鮮花に何したんだ?」

「さあ、私が何かした覚えはないんです。昨日会ったばっかりで、でもなぜか一緒に居たいなあって思うんです。ベートもそう言ってました」

「あー、無条件に悪魔に好かれる奴っているよなぁ。今度調伏科に行って話聞いてみろ。悪魔付きに寛容な奴ばっかだからさ」

「そうだ、先生、私は転科しなくていいんですか?」

「あーそうだな。いや、別に今のままでいいんじゃないか?」


雨宮先生は「鮮花ぁ」とベトニアチェルを呼ぶと、手を鉄砲の形にして空に雨を打ち上げた。

ベトニアチェルの周囲にのみ降り続ける雨は陽光にきらめき、その近くに虹を掛ける。

雨に踊る花と七色の虹。

さっきは怖いと言っていたのに雨宮先生はベトニアチェルを見て慈しむように微笑んでいる。


「調伏科は悪魔を御す術を習うところだ。召喚の術とか、複雑な契約が必要なら転科を勧めるが、お前らみたいに信頼とかそういうので一緒に居るやつは別に習うことなんてないし、鮮花ほど強い悪魔に教えることもない。行きたいなら構わないが、それよりも魔徐科で花枝がレベルアップすることがお前らのためになるんじゃないのか」

「そう、ですね」


私は何も知らない。

何をしたいとか、目的も何も持ってなかった。

でもそれじゃダメだと昨日も今日も教わった気がする。そして昨日の魔導師戦の時、私は自分の魔法でベートを守れるようになりたいなと思ったんだ。


虹を纏って嬉しそうに水浴びをしているベトニアチェルを見ながら、私は彼女の支えになれるだろうかと考えた。いや、一緒に居たいと思うのならば、そうならくてはいけないのだ。

ベトニアチェルを支え、見合う自分にならなくては。


「私、魔除科で頑張りたいです。雨宮先生、これからもよろしくお願いします」

「ん、分かった」


先生に向かって下げた頭の上に、大きな手のぬくもりが伝わる。

私は魔徐科で自分の力を磨いていこう。

そう決意したときだった。


急にベトニアチェルが蔓延らせた枝葉を一気にたくし上げ、私を何かから守るように立ち塞がった。


『マリア、そのままじっとしていなさい!』


ベトニアチェルの厳しい声。彼女の茨に阻まれて私には何が起こっているのか全然見えない。

隣で雨宮先生が「な、嘘だろ」と信じられないという表情でベンチから立ち上がり、胸の前で拳を握ると、そのまま頭を下げて最敬礼の形を取った。


私はベトニアチェルの茨の隙間から庭へ目を凝らす。


「ふふ、そう警戒しないでくれ鮮花。やあ、昨日ぶりだね。花枝 マリア」


穏やかな笑みを浮かべて、彼がやって来た。

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