第2話 涙がでちまう

 震える体を叱咤激励し、なんとか手すりを乗り越えて、ベランダを渡り切った。


 目の前にある大きな窓は濃紺の遮光カーテンに覆われ、部屋の中は暗い。だが、20センチほどカーテンが開いているので光りの道ができている。窓に顔を近づけ、光りの道を追っていく。


 よくは見えないが、こんもりとした膨らみ。きっと間違いない。


 窓に手をかけたが動かない。叩いても中から反応はない。隣のベランダから首を伸ばす美和へと声を飛ばす。


「救急車!」


 分かった、と言った美和が背後を振り返り、電話電話、と言いながら、あ然とする女性を押し込むようにして、部屋の中へと消えていく。



  僕はもう一度、窓にかけた手に力を込めた。やはりビクともしない。辺りを見渡しても、何も見当たらない。自分の体をまさぐると硬い物が手に触れた。ポケットに手を突っ込み、家の鍵を取りだした。


  熊ちゃんじゃ、役に立たない。小さいがこっちしかない。


 鍵を逆手でしかりと握りしめた。そして、躊躇うことなく叩き込んだ。



 ガラスに亀裂が走り、何度か叩くと、窓の一部が砕けた。ヒビの入ったガラスを引き抜きながら、腕が入るスペースを作る。そして、クレセント錠に手をかけ、力を込めた。



 窓を開け放つ。その瞬間、たじろぐほどの悪臭が襲ってきた。 口を塞ぎ、カーテンを全開にすると、部屋の中がいっぱいの光りに満たされた。


 空き袋やペットボトルが散乱している。


 そして――そこから目が離せない。ベッドの上に横たわる姿を目にし、自分でもはっきりわかるほど体が震えている。


 水分を失いカサカサとした肌。肉を失いやつれた顔。ブカブカになってしまったTシャツと短パンから覗く手足は、くすんで細い枝となっている。やけに頭だけが大きく見える。


 手遅れ……。


「なんで……なんで、こんなことになるんだ」


 母親はどうした! 父親は何をしている!


 きっと、この子は飢えと闘いながら、誰かの帰りを待っていたはずだ。少し開いていたカーテン、あの隙間から、その姿を求めて、外を見ていたかもしれない。叫んでいたのかも――バカヤロウ!



 ベッドに近づき、小さな体をそっと抱き上げた。

 腕の中でぐったり横たわる体の軽さに涙が込み上げてくる。曇った視界にぼんやり映る幼女の手。だらりと垂れ下がった手の中に千切れたティッシュがある。


  横たわっていた彼女、その手は口元にあった。


「ウォワァ!」


 やるせなさから叫びが溢れだした。


 食べる物が失われた時、ティッシュまで口にしようとしていたのか。動く気力もつき、この黄ばんだシミや汚物の擦れた後があるシーツの上で……。


「チャポ」


 開いた窓に呆然と立ちつくす姿がある。


 首を横に振ると、美和の目がみるみる潤んでいく。よろけるように近づいてきた美和が、横で崩れるように膝をついた。


「ごめんね。助けられなくて」


 小さな手をすくい上げるように包み込んだ。と次の瞬間、美和が顔を少女の口元へと近づけた。


「バカッ!」


 鋭い視線と声。

 美和が幼女を優しく奪い取っていく。


「大丈夫。ちゃんと温かいよ」


 涙で濡れた顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。


「えっ、何? どういうこと?」

「だから、もーう、バカ。早とちりのおっちょこちょい。この子はちゃんと生きてる。弱いけどちゃんと呼吸もしてる」

「……えっ、うそ」


 あえて言いわけするなら、動揺していたということだろう。だって、あの姿を見れば、そう思うのも当然だろ。温かい? そんなの気付かないよ。っていうか、生きてんだよ。助かったんだよ。


「ほら、泣いてないで水持ってきて」


 気付けば、しゃくりあげるほど泣いてる自分がいる。


「あぁ、そうか。水、水ね」



 慌てて立ち上がり、キッチンに向かった。


 流しのシンクも部屋同様、物が散乱していて、コップが見当たらない。とりあえず、手近な茶碗を濯いで水をくんでいく。


 急いだせいで、半分くらいしか残っていない。それを美和へと手渡し、すぐにキッチンへと戻った。


 さっきから何度もチャイムが鳴っている。

 鍵とドアを開けると、お姉さんの姿があった。


「あのう、えーっと、どういうことなの?」


 彼女は相変わらず訳が分からない、といった感じだ。

 きっと、美和も電話が終わるとすぐにベランダを渡ってきて、何も説明していないのだろう。といっても、なんと説明すればいい。鼻水をすすり上げながら、そんなことを思った。




 サイレンが遠ざかっていく。救急車にはあの子と隣のお姉さんが乗っている。


 救急隊員には、たまたまここを通りかかり、ベランダを跨ぎ渡る女性を目にし、事情を聴いて手伝ったと説明した。

 お姉さんは見ず知らずの高校生から訳の分からない話しが飛びだし、言葉を失っていたが、構うことなく救急車に押し込み、送りだしてしまった。


「お願い助かって」


 救急車を見つめ、美和が呟いた。僕も胸の中で声を送る――がんばれ!


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