第19話 桜恐怖症

 密先輩は言っていた。

 この土手沿いの桜並木は、この世のものとは思えないくらい綺麗だ、と。

 だが、土手に落ちた花びらを見て、目の前の桜より幼い頃の記憶に浸ってしまっていた。

 僕は昔、桜が怖かった。

 数え切れない花弁の一枚一枚が生きている、そして落ちて死んでいく。そのことが不気味で仕方なかった。

 家の前が花びらの絨毯でいっぱいになっていると、恐ろしくて歩けなくなった。

 花びらが落ちてくると、恐怖で焦って駆け出し、転んだ。膝から血が出て、桜の花びらがついていて……。傷口から桜が僕の中に入ってくる! と半狂乱だった。

「変なやつだなー。普通、桜が咲いたらみんな喜ぶんだぞ?」と僕をからかって笑う父親に背負われて、幼稚園に向かった記憶がおぼろげに浮かんだ。

 桜のかおりと、血と、粘つくリンパ液の匂い。父親と触れあった珍しい記憶。

 父と、子。煩わしく感じている関係が、一瞬だけは愛おしく思えた。僕は単純だ。

 もっとも、桜が怖くなくなった僕にはもう、そんな瞬間は訪れないのかもしれないけど。

「樹くん?」

 先輩。また顔を覗き込んでくる。ということは、僕はいつも下を向いているのだ。

「なにボーっとしてんの? 私のオススメの桜が見れないってか?」

 先輩は首を傾げ、僕の尻を触った。

「ちょ、そんな真剣な顔でケツ撫でないでくださいって、なにやってんすか」

「嫌がらせだ」

 いや、そんな堂々と言われても。てかこれ嫌がらせになってないよ、先輩の手が、手が。

「鞘師、ボーっとしてないで助けろ!」

 僕が照れ隠しに声をかけると、それまで黙りこくっていた鞘師がぽつりと言う。

「おれ、先輩のガチの部屋着みたい。見たら元気でる」

「急になんだよ。なんでそんな雪男みたいな喋り方に」

 先輩は自らジャージの上着をくいっと引っ張り、「残念でしたー、これしか持ってきてないよ?」と挑発的に笑った。

「ジャージはジャージでいい。でも、ガチの部屋着のほうがやっぱいい!」

 鞘師ご乱心。さっきから様子がなんだかおかしい。

 トラビスは鞘師をじっと睨んでいるし……。

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