第5話 シリンタレアの医術師見習い

「よし」

 ならば彼女が優先すべきは、まずどうにか無事に自国へ戻ることだ。話はそれからだ。

 意を決した彼女は、背負っていた革袋を地面へと下ろす。朧気な記憶を辿ってでも、足を固定してここを離れよう。山で夜を迎えるのなら、もう少し風がしのげる場所でないと体力まで奪われてしまう。

 気力が戻ると、楽観的な考えも浮かび上がった。

 これだけ暗くなったしまったら、追っ手も一旦は諦めてくれるかもしれない。あの青年もひとまず寒さをしのぐための場所を探しているかもしれない。怪我をしたのは失敗だったが、悪いことばかりではないはずだ。

 彼女は薄闇の中で目を凝らし、革袋の中を確認する。携帯食に濾過器、火を起こすための道具一式が入っている。

 急であったはずなのに、クロミオはここまで配慮してくれるとは。やはり彼女をシリンタレアに帰したいという思いに嘘偽りはないらしい。

「あった」

 その他に、包帯等幾つかの医術道具もあった。彼女がシリンタレアから持ち込んだ物だ。医術国家の人間であれば誰もが外へ出る際には携帯している。

 ぶわりと、また風が吹き込んだ。ざわざわと揺れる木の葉の鳴き声に、彼女は思わず手を止めた。

 一人きりの時間は嫌いではないが、ひとりぼっちで聞く自然の声はやけに寂しく感じられる。きっと子どもの頃を思い出すからだろう。大国ジブルで、必死にあらゆるものを吸収しようとしていたあの頃を。

 深く息を吐き、彼女は唇を引き結んだ。それでもわわなきそうになる手で、どうにか包帯を手に取る。

 すると忽然と目眩がした。彼女は幹に背を預け、もう一度目蓋を閉じた。なんとはなしに体が揺れているような錯覚がする。頭でもぶつけたのだろうか?

「いた」

 しばらくそのまま深呼吸を繰り返していると、左手から草を踏みつける音がした。びくりと肩を震わせた彼女は、恐る恐る目を開ける。

 まるで曇った硝子越しに何かをのぞくような歪んだ視界。そこに人影が映った。数度瞬きを繰り返すと、近づいてきたのが先ほどの青年であることがわかる。

 ひゅっと喉が鳴った。青年はぼろぼろの布に木の葉をつけたまま、近寄ってくる。苛立ちを隠すことのない双眸が、真っ直ぐに彼女を捉えた。

 まさかあの斜面を下りてきたのか? それとも少し遠回りして、角度が緩やかになった場所を探してきたのか? 彼一人というところを見ると、別の追っ手は撒いたのだろうか。

 黙って見下ろしてくる彼を、彼女はただただ見つめ返す。こうなってしまったら逃げるという選択肢はない。打つ手はもうどこにもなかった。

「怪我しているのか?」

 青年の声に、少しだけ案じる色が混じった。一体どこから見抜いたのだろう? 躊躇いながらも、彼女は素直に頷いた。ここで嘘を吐いても利はない。

「足を、捻ったみたいで」

「見せてみろ」

 そう口にした時には、彼は既にしゃがみ込んでいた。彼女は布袋をさりげなく彼から遠ざけ、左足を指さす。

 長いスカートを少し捲れば、布と短靴の隙間から足首がのぞいた。腫れているようには見えなかった。変色しているかどうかは、この薄暗さではやはり判断できない。

「靴を脱がせるからな」

 彼はきちんと宣言してから行動に移す。そういった所作はシリンタレアの人間らしい。彼が何をするのか、彼女はじっと見守っていた。

 左右の靴を脱がせた彼は、双方を見比べ、触れ、それから慎重に左足の動きを確かめる。ずきりとした痛みが走り、彼女は小さく呻いた。

「痛むな? 折れてはいないと思うけど、何にせよ固定は必要だ。その包帯をよこせ」

 彼は彼女の反応をうかがいつつ、ぶっきらぼうにそう告げた。そして彼女が差し出した包帯を奪うように受け取り、丁寧に巻き始める。

 手つきが慣れていると、彼女はすぐに気がつく。これはほんの少し経験があるというだけではない。何度も訓練をした者が身につけることができる技術だ。それではやはり彼はシリンタレアの者なのか。

「あなたは、医術師なんですか?」

 思わず彼女はそう問いかけていた。顔を上げた彼は、何故か不機嫌そうな気配を漂わせる。頭に巻き付けた布のせいで目だけしか見えないというのは、どうにも表情が読み取れなくて不便だ。

「まだ見習いだ。君はもう薬術師なんだろう?」

「私のこと、知っているんですか?」

 彼女は瞠目した。ついつい声が大きくなった。

 そこまでわかっているとなれば、彼は何らかの方法で彼女のことを見聞きしていたのだろう。では本当に彼女を助け出すためにきてくれたのか? もちろん、そうであったとしても疑問は残る。

「頼まれた時に聞いただけだ」

 顔を上げずに、彼は即答した。頼まれたということは、詳細を知っているのは彼ではないのか。彼女は戸惑いながらも、身じろぎをしないように息を詰める。

「よし」

 待っている時間はそれほど長くはなかった。手際よく包帯を巻き終えた彼は、満足そうに首を縦に振る。本当に医術師見習いならば、彼女とさほど年は変わらないのかもしれない。おそらく二十代前半だろう。

「これでどうにか歩けるはずだ。立てるな?」

 先ほどよりも彼の声が若干優しいのは、こちらが怪我人だからだろうか?

 病める者、負傷した者への振る舞いは、シリンタレアの者には幼少期から染みついている。そう教育されている。全ては弱小国が生き残るための戦略だ。

「本当なら、夜が明けるまで待っているべきなんだろうが、生憎時間がなさそうだ」

「……時間?」

 彼女が問いかけても、彼は何も答えなかった。やはり余計なことは口にしない心づもりらしい。

 一体何が起こっているのか? 想像もつかないが、休息する暇はないのか。もしかしたら、遺産探索の者たちがもう本格的に動き出しているのかもしれない。

 彼女は革袋を背負い直し、布袋を抱えて、慎重に立ち上がった。そしてゆっくり呼吸を整える。少しだけ左足に体重をかけてみると、やはり鋭い痛みはあった。先ほどよりはましだが、山を歩くのには不安がある。

「ゆっくりでいい。行くぞ」

 硬い声を発した彼は、こちらを振り返らずに歩き出した。尋ねたいことは山ほどあったが、彼女はどうにか口をつぐむ。

 彼はまだ彼女が裏切り者だと疑っているのか。ただ怪我を負ってしまったので、逃げ出すことはないだろうと安堵はしているのかもしれない。実際のところ不可能だ。仕方なく、彼女は黙って彼の後をついていく。

「このままどこへ?」

「山を下りたら、遺跡群をかすめて毒の地に入る」

 返答がないことを覚悟して問いかけると、あっさり彼は口を開いた。それは隠す必要がないらしい。口元を覆う布の位置を正したのか、先ほどよりも声がくぐもっている。

 小国ニーミナは、大国やその他の国よりもずっと北に位置している。ニーミナと他国の間には手つかずの土地が多いが、遺跡群の先にある毒の地は、どの国にも属さない場所の代表例だった。かつて大戦の際に、何らかの兵器が使われた名残らしい。

 もっとも、はっきりとした記録や、歴史を綴った書物が残されているわけではない。ただの伝聞だ。

 毒などと大層な名がつけられているが、歩く分には何ら支障はない。しかし見晴らしがよすぎることと、水が得られないのが問題だった。彼は夜が明ける前に毒の地に入り、距離を稼ぐつもりなのだろう。

 顔を歪めつつ、彼女は必死に前へ前へと進んだ。ゆっくりと足を踏み出しているのに、心臓がどくどくと脈打つ。彼はずいぶん速度を落としてくれているようだが、それでも置いていかれないようにするのは苦労した。

「足下気をつけろよ」

 彼の無愛想な忠告を最後に、二人は無言となった。彼女の場合はそうせざるを得なかったというのが正しい。歩くのに必死で、口を開いている余裕など全くなかった。

 彼が聞き耳を立てているのはわかったが、大丈夫な振りをすることさえ困難だった。じわりと額に滲んだ汗が、頬や首筋を伝って落ちていく。

 荷物があるからなおさら不安定なのかもしれない。しかしこの本は手放せない。彼の視線が時折抱えた布袋に注がれていることには気づいていたが、彼女はそれを無視した。

 山を抜けるのは途方もない先のような気がしたが、どうやら迷いながらもずいぶんと麓に近づいていたようだ。

 しばらくすると、木々の隙間から一つの遺跡が見えた。揺れる葉の向こうに、流線型の白い物体が露わになる。あの大きさから想像するに、かつて空を飛行していた何かだろうか?

 遺跡や遺産はどの時期のものかによって大まかに分類されているが、彼女はそれらには詳しくはない。正確に言えば、シリンタレアの人間は大体その辺りの知識が乏しい。

 医術に関するものであれば他国の追随を許さぬ一方で、それ以外の情報が制限されているからだ。そこには二大国の思惑があるのだろう。小国が無闇に力をつけることを、彼らはよしとしていない。

 それでも彼女には大国ジブルへの留学経験があるため、最低限の知識はあった。

 飛行する物体の多くは第二期の時代のものだ。第三期は既にこの星では資源枯渇問題が浮上していたため、大型の物は滅多に製造されていなかったと記憶している。

「明かりはついてないな」

 前方を行く青年がぽつりとこぼすのが聞こえる。なるほど、浮浪者が住み着いているなら、火を焚いている可能性が高いのか。小動物を追い払うこともできるし、暖も取れる。

 二人はゆっくりそのまま平地へと降りる。進めば進むだけ草が疎らになった。毒の地が近いせいか? 遮るものが乏しくなり、風の勢いが増した。

 その寒さから逃れるよう、彼女は布袋を強く抱きしめた。これ以上の防寒具は持っていない。

「何か来る」

 そこで彼は突として足を止めた。息を呑んだ彼女は、慌てて耳をそばだてた。言われてみると確かに、かすかな気配がある。湿った土を踏む何かの足音。これはおそらく人ではない。小動物か?

「野犬だ!」

 彼が声を上げると同時に、それは遺跡の陰から飛び出してきた。大人の膝程度の背の高さの、やせ細った野犬が数匹。

 だが侮ってはいけない。こんなところにいる生き物など、どんな病を持っているかわかったものではない。少し噛まれただけで命の問題になる可能性すらある。それに彼女は走ることもままならないのだ。

 姿勢を低くした彼が、腰から何かを手に取る。目を凝らすと、月光を反射して輝く刀身が見えた。護身用の短剣か?

「動くなよ」

 瞳をぎらつかせた野犬が飛び出してくると、そう言い残した彼は前へ出る。一匹ならばどうにかできるかもしれないが、複数となると短剣で対処できるものだろうか?

 甲高い獣の咆哮が、辺りの静寂を裂いた。土色の外套を翻した彼の剣は、野犬の体をかすめもしない。やはり彼に剣の心得はないのだ。シリンタレアの人間なら当然だ。

「あっ」

 短剣を警戒した一匹の横を、もう一匹が通り過ぎた。興奮してぎらぎらと光る双眸が見据えたのは、彼女の方だ。――こちらへ真っ直ぐ向かってくる。

「ディルアローハ!」

 振り返った彼が叫んだ。やはり名前を知っていたのかと、そんなことに思考を向けているような余裕は、今の彼女にはなかった。

 腰から下げていたナイフを、無我夢中で手に取る。しかしろくに身動きもできぬのに、どれだけ意味がある行為なのか。

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