第4話 医術書の価値は

「――助けに来た」

 しばし躊躇ってから、青年はそう言い放った。彼女は耳を疑った。助けに来た? どこから? 一体誰から? 混乱する思考が答えを求めてぐるぐると巡る。

 それともこれは、油断させて彼女から何かを引き出そうとする策だろうか?

「それは、どういうことですか?」

「詳しくは言えない」

「それで信用しろだなんて」

 声を潜めながら、彼女は眉根を寄せた。つい本を抱きしめる手に力がこもった。

 助けに来たというのなら誠意を示してもらわなければ困る。こちらはほぼ丸腰なのだ。一応ナイフは身につけているが、訓練を受けたわけではない。何かあっても、若い青年になど勝てるはずがなかった。

「どういうおつもりですか?」

「いいから来い」

 彼女が動かないのに焦れたのか、苛立ったように青年はさらに一歩詰めてきた。よく通る、訛りのない共通語だ。それが可能なのは大国で教養を積んだ者か、シリンタレアのように医術や研究を生業とする者たちか。

 考えてみれば、ニーミナで出会った者たちも皆流暢に共通語を口にしていた。慣れ親しんだ環境と同じだから、気に留めていなかった。

「あなたは何者ですか?」

 そうなると訛りの問題だけでは、彼の正体は推し量れない。仲間を装っている可能性もある。やはり油断は禁物だ。

「来い、早くっ」

 彼は語気を強めた。彼女はびくりと肩を震わせ、思わず後退ろうとする。

 その時、今度は背後で何かを踏む音がした。近くではないが、朽ちた木を思い切り踏み抜いてしまったような、そんな音だった。はっとした彼女は振り返る。

「だから早くしろと言ったんだっ」

 顔を強ばらせていると、腕をぐいと掴まれた。いつの間にか距離を詰められている。危うく抱えていた本を落としかけて、彼女はきつと彼を見据えた。

「ちょっと、いきなり何するんですか!?」

「そんなこと言ってる場合か。あいつらに追いつかれたら終わりだ。そんな荷物なんて邪魔になる。置いていけ」

「これは駄目です!」

 無理やり引きずられそうになり、彼女は慌てた。ニーミナから得た希少な医術書を、こんなところに放り投げるのは憚られた。

「それは何だ?」

 青年の視線が、彼女が手にした布袋へと吸い寄せられる。ぎくりと体が強ばった。

 注目させてしまったのは問題だった。もし相手が味方を名乗り油断を誘っているのであれば、ここでクロミオの名を出すのはまずい。

「これは、いただいたものです」

 いつどこで、誰からとは言えない。これ以上の情報は与えられない。それでも手放すつもりはないという意志を強く込めて、彼女は答えた。すると彼の息づかいがかすかに変わる。

「まさかニーミナからか?」

 何故そういう結論に達したのかは不明だが、ここでは肯定も否定もできない。彼女は押し黙った。

 彼女がニーミナを訪れていたことを疑ってもいないのが奇妙だ。ニーミナへまだ辿り着いていない、という発想もないらしい。この青年は一体何をどこまで知っているのだろうか?

 するとぐいと腕が突き放される。予想できぬ行動に、彼女はたじろいだ。

「まさか、裏切ったのか?」

 彼の声が硬くなった。何を言われているのかわからず、彼女は眉をひそめる。

 裏切ったとは一体誰を? 何を怒っているのか? 自分のことは明かさずに勝手に決めつけて話を進めようとするその姿勢は、どうにも腑に落ちない。

「先ほどからあなたは何を言ってるんですか?」

 彼は本当にシリンタレアから来たのか? 彼女がニーミナで買収されたとでも思ったのか? しかしそう思い込む根拠も薄い。何もかもがわからず、逃げ出したい心地がした。

「聞いているのはこちらだ。裏切ったのか? そうじゃないと言うなら、それをこちらに渡せ」

 それでも彼は態度を変えない。全く話が通じなかった。その鋭い眼光が彼女を射貫く。

 勢いよく突き出された手を、彼女はまじまじと見つめた。何故彼女が信用されるためにそんなことをしなければならないのか。それともこれは遠回しの脅しだろうか? そう考えたところではっとする。

 また背後から、草木を掻き分けるような音がした。先ほどよりも近い。

 青年も弾かれたようにそちらへと目を向けた。彼女はさらに神経を研ぎ澄ませる。これはブーツが枯れ草を踏みつける音だ。それも、一人ではない。

「まずいな」

 青年は舌打ちをした。少なくとも、彼とあちらは仲間ではないらしい。逃げるなら今しかないだろうか。しかし、どちらへ?

 彼女がもう一度後ろを確認しようとしたところで、また強く風が吹いた。草木が一斉に揺れ、彼女の外套も煽られる。

 体勢を崩したのはわずかな間だった。それでも踏ん張ろうと足を踏み出したその先に、硬い地面が不足していた。力を込めようとした途端、足ごとずるりと土が動く。

「あっ」

 体が傾いだ。この方向は、彼女が避けようとしていた急な斜面だ。左足が空を蹴る感触に、絶望的な気持ちになる。振り返った青年が瞠目するのが見えた。

 彼が慌てたように伸ばしてきた手を、彼女は咄嗟には掴めなかった。

「おい!」

 青年の焦った声が、木々のさざめきに流されていく。彼の姿が遠くなるのを横目に、彼女はとにかく頭だけは守ろうと背中を丸めた。

 布袋を抱きしめるようにすれば、斜面にぶつかった体が大きく跳ねる。肺から無理やり息が絞り出される。

 転がるというよりは、ほとんど落ちているに近い。彼女は必死に目を瞑った。まずは致命傷を避けることだけを考える。さほど大きな山ではなかったはずだから、即死は免れるはずだ。

 一瞬のことにも、永遠のことにも思えた。弾み、転がり、また弾み。途中からは何がどうなっているのか把握するのを諦めた。

 斜面の下まで落ちたことを自覚したのは、騒がしい音が途絶えたからだった。それでも頭の中ではまだ何かが回り続けているようで、体中の感覚がおかしい。

 吐き気を堪えた彼女は、恐る恐る目を開けた。まず見えたのは深い緑だった。ゆっくり視線を巡らせれば、逆側には太い幹がある。これが受け止めてくれたのだろうか。

 彼女はもう一度固く目を閉じ、そして開けた。ついで深く息を吸い込み、痛みがないことを確認する。呼吸をするのに問題となるような傷はなさそうだ。

 それから彼女はゆっくり左手を持ち上げてみた。痺れのような感触はあったが、激痛というほどではない。折れてはいないだろう。

 そこまできてようやく安堵し、彼女はそのまま左手を地面へとついた。しかし慎重に身を起こそうとすると、左足にかすかな痛みが走った。

「もしかして捻った?」

 小さく呻いて彼女は眉根を寄せた。痛みを堪えつつ左足の方へと視線を向けたが、短靴越しではよくわからない。骨折していないことを祈りたいところだ。

 もっとも捻っただけにしろ、この山道では固定する必要がありそうだった。

「困ったわね」

 どうにか幹へと体を預けながら、彼女は思案した。そして手にしていた布袋を強く抱え直す。

 こういう時、自分に正確な医術の知識がないことを呪いたくなった。医術国家シリンタレアの人間ならば誰もが身につけておくべきだという両親の言葉に、反発などしなければよかった。

 ただ、必要性を感じなかったのも事実だ。シリンタレアにいる限りは、そういった技術を身につけている人間は掃いて捨てるほどいる。

 ゆっくり息を吐いて顔を上げると、木々の向こうの空は濃紺に染め上げられていた。もう夜だ。シリンタレアとは違い、この辺りはきっとこの時期でも冷え込むだろう。既にとても春とは思えない寒さだ。

 しかし追っ手がいる中で火を焚くのは無謀だ。先ほどの青年が追いかけてくる可能性もある。

 考えれば考えるだけ、どうにもならない状況に放り込まれていることを実感した。途方に暮れたくなった。どうしてこうなったのだろう? もう何度目かの問いを、彼女は胸中で呟いた。

 全ての始まりは、一つの噂だった。幼い子どもたちを使い、誰かが何かを企んでいる。

 ある一人の子どもが、友人が次々と消えていることを強く訴えたのがきっかけだった。仲良く遊んでいた友達が、ある日突然いなくなってしまうと。

 調べてみると、確かについこの間まで宿舎にいたはずの子どもたちが行方をくらませていた。

 それが本当に何かの事件のせいなのかは判然としなかったが、子どもたちは日々不安に怯えるようになった。

 このままでは教育にも差し障りが出るとの懸念が生まれ、ディルアローハの父たちは、本格的に調査に乗り出すことにした。しかしどうやら大国への留学を装って消えているらしいという点までは突き止めたが、その先はわからなかった。

 ならば直接乗り込んで突き止めるしかない。だが大国に探りを入れるのはほぼ不可能だ。故に、まずは周囲の小国から調べることにした。

「それがそもそも無謀だったのよね」

 身を縮めつつ、彼女は苦笑をこぼす。

 医術国家などと呼ばれているが、シリンタレアは小さな国だ。大国ジブルとナイダートの間で、両者の援助を受けることで生き残っている弱小国だ。そんな国の人間にできることなど限られている。 

『私たちは中立であることで生かされている』

 母がことあるごとに口にしていた言葉を、今になって思い出す。その通りだと思う。どちらにもよい顔をし、どちらにも治療場を提供する。そういう風にして生き残ってきた。

 その代わり、その他の国との繋がりは希薄だった。大概は大国を通したやりとりしか行われていない。

 そのことをよく思われていないのも知っていた。それでも何事も起こらないのは、どの国も大国を恐れているからだ。

 だから子どもの件を聞いた時、誰しもの脳裏に一つの可能性がよぎった。他国の者にさらわれたのではないか? 大国へ向かう途中を狙われたのではないか? いずれ人質として利用し、医術の提供を求めてくるつもりではないか?

 誰かが言い出したのを、否定することはできなかった。

 その中でまず疑われた国の一つが、このところ忽然と大国から重宝されるようになったニーミナだ。大国に怯えずに動く可能性がある国は、さほど多くはない。

 ディルアローハがニーミナ訪問者に選ばれたのは、ちょうど仕事の区切りがよい時期だったせいだ。

 ニーミナを訪れるためには長い旅路を乗り越えなければならない。そのため時間に融通の利く者である必要があった。既に別の国の訪問も始まっていた頃であり、ディルアローハはたまたま選ばれただけだ。

「どうしよう」

 布袋を抱えこみながら、彼女は背を丸めた。風に吹かれた髪が頬をかすめる。このまま眠ってしまえば楽になれるだろうか。そんな思いすらよぎったが、抱きしめた袋のことを思い出して頭を振った。

 彼女は何も掴めなかった。しかし医術書を手渡されたことで確信できた点もある。あの悪魔と呼ばれた少年が彼女との密な繋がりを所望したことは、その他の方法でシリンタレアに手が出せなかったという事実を示している。

 つまり子どもの誘拐事件に関与している可能性は低い。もし関与しているなら、わざわざ危険を冒して彼女を逃がそうとはしないだろう。

 ナイダートが警告を出してきても、不可抗力だったとばかりに彼女をニーミナに滞在させていればいいだけだ。

 そう考えれば、最後の最後で重要な手がかりを掴んだとも言える。この本は、その証拠だ。故に手放すわけにはいかない。

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