第5話 コンプレックス

 奇妙な夢を見た。

 夢現で、ふわっとしていて、起きてもう一度ベッドに伏せた。

 甘い香りがまとわりついて、ふと横を見ると、甘い顔をした男の子がいて。綺麗な顔が近づいてくる。魔法をかけられたように、僕は受け入れることも拒否もできなかった。

 そこで目が覚めた。夢はまったく経験のないものが現実のように現れたり、経験が夢として現れたり不思議なものだ。今日見た夢は後者で。今になってなぜあんな夢を見るのか。遠い記憶で曖昧になりつつあったのに。

 今日からアルバイトが始まる。人生初で、緊張した面持ちで向かうと、ちょうど店からこの前のインド人が出てきた。

 彼も僕に気づき、頬が緩まる。

「これ、あげる」

 癖のある日本語で、手のひらに何か乗せてきた。

 どうやらお菓子のようで、キャンディーかチョコレートか。

「ありがとうございます」

「バーイ」

 彼を見送った後、カフェの中に入った。

 店長がいない。代わりに。カウンター席へメモ書きが残されていた。

──野暮用でフロアを抜けます。

 僕はどうしたらいいんだろう。掃除をしようにも、きっちり片づけてあり、何もすることがない。

ドアベルが鳴り振り返った。てっきりアーサーさんだと思ったら、小柄な女性が挙動不審に立っていた。

「こちらで……占いをしていると聞いたんですが……」

「あ、はい」

「占ってほしくて……」

「今、店長が席を外していますので、こちらでお待ち下さい」

 表の看板を見たのだろうか。僕にとって、お客さん第一号だ。けれど接客についても学んでいないし、どうしたらいいのか。

「彼方さん、すみません。電話をしておりました」

「アーサーさん、こちらの方が占ってほしいと」

「左様でございましたか。今、準備を致します。彼方さんはそちらの扉から中に入り、控え室へ。エプロンがありますので」

「分かりました」

 カウンターの中にある扉から入り、左手の扉を開けた。

 控え室にはソファーとテーブル、ロッカーもある。ロッカーには僕の名前が書いてあり、中にはエプロンが入っていた。

 サイズが合わないのはエプロンが大きいせいだと暗示をかけつつ、フロアへ戻った。

 目に飛び込んできたのは、ハンサムが女性を泣かせるという、とんでもない光景だった。慌てふためいているのは僕だけで、アーサーさんは微笑んでカードをめくる。

「私がこんな性格で、可愛くないから……」

「なぜご自身を責めるのか、理解しかねます。ああ……やはりだ。別れて正解です。相性が非常に悪い」

「えっ……やり直すこともできないですか?」

 アーサーさんは彼女を一瞥して、はい、と声を漏らす。

「夢と女性を追い続けるタイプの男性と、一途に相手を思うあなたでは、合いません。しかし、ここから数年の間で、運命を共にする男性に出会います」

「本当ですか?」

「それと、あなたは思い込み激しいところがあります。一度決めたらその人しか見えなくなる。ほんの少しだけ、視野を広げてみるのもいいかもしれませんね」

 女性はぽっかり口を開けて、彼を凝視している。

「変な質問をしていいですか?」

「なんなりと」

 女性は唇を強く閉める。弱々しい雰囲気とは真逆で、意思の強さというか、譲れないものがある、といった顔に見えた。

「あなたは、恋愛で苦労したことがありますか?」

 空気が研ぎ澄まされた気がした。

 雪みたいに冷たくて、酸素がなくなったように息苦しい。斜め後ろにいるせいでアーサーさんの顔は見えないけれど、とても重苦しく、受け止められるほど僕には力がなかった。

「私は、誰ともお付き合いをしたことがありません」

「…………え? 嘘でしょう?」

「ふふ」

 冗談なのか本気なのか、アーサーさんは小さく笑う。

「こんなに綺麗な人なのに? 選び放題じゃないんですか?」

「先ほど、あなたは自身を可愛くないとおっしゃいましたね。それは容姿へのコンプレックスが心の最奥に根を張っているのでしょう。誰にも掘り起こせないほどに根強く。コンプレックスは人によって異なります。風貌一つにしても、あなたがコンプレックスと感じていることが他人にはどうでもいいように映る。逆に、あなたが他人へ羨ましいと感じていることでも、本人にとってはコンプレックスの場合もある」

「……………………」

 ああ、とすとんと心に落ちたものがある。

 彼は、容姿にコンプレックスを抱えている。彼女と同じように、なにか取り返しのつかないことがあり、誰にも触れてほしくないと鍵をかけている。

 容姿に関してコンプレックスを抱えているのは僕も同じ。彼とは違う意味で。

「恋愛の悩みというのは、時に刃物として襲ってきます。いつも幸せなわけではない。狂おしく愛しいと感じ、一緒にいるのに孤独を感じる。本当に厄介なものです。それでも求めてしまうのは、シンプルに相手が好きだからという理由です。愛する喜びを知り、相手を幸せにしたいと思える幸せを知ったから。ご自身の幸せのために、愛を分かち合える方に出会えるといいですね。応援しております」

 女性は顔を歪め、ごめんなさいと口にした。

 何に対して謝っているのか本人にしか分からない。

 営業時間でもないのに突然駆け込んできたこと、初対面なのに失礼なことを言ったこと、アーサーさんを求めすぎてしまったこと。それとも、誰に対してでもない何かへの謝罪。

 女性は顔を真っ赤に腫らし、頭を下げて出ていった。心なしか来たときよりもすっきりした顔立ちで、来てよかったと表情が物語っていた。

「本来なら、占いはカーテンで仕切って行います。本日は緊急でした。……いきなりで驚いたでしょう」

「ちょっとびっくりしました。こういう飛び込みってよくあるんですか?」

「たまに。人間は追いつめられると藁を掴んでしまう生き物です。たとえそれが地獄に繋がる藁であっても。相手を選ぶことなんてできない。彼女にとっては、恋愛が人生の大半を占めているのでしょうね」

「アーサーさんを占めているものは? やっぱりお仕事ですか?」

「そう見えますか?」

「仕事のために日本に来たんでしょう?」

 ふと思う。なぜ彼はこんなに日本語が上手で、日本という土地を選んだのか。

 今聞いても答えてくれそうにない。なぜなら、僕と彼は出会ってまだ数日の間柄だ。聞く勇気もないのは、まだ信頼関係で成り立っていないから。

「仕事はもちろん大事です。ですが、私は仕事以上に愛に生きる男なのですよ」

 さっきの付き合ったことがないというのは、冗談なのかもしれない。

 彼がどんなコンプレックスを持っていたとしても、綺麗なものは綺麗だ。女性が放っておくとは思えない。当然、言える勇気は僕にはない。

「彼方さんの仕事をお教えします。どうぞカウンターの中へ入って下さい」

「はい、本日からお願いします」

 頭を下げると、彼も同じように腰を曲げた。

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