第2話 春驟雨の出会い
『本日の天気は晴れのち曇り。午前中は暖かい陽射しの春日和ですが、午後からは気温がグッと低下しますので、降水確率は低いですが大雨の警戒が必要でしょう』
翌日、夜更かしをしたせいで
次第に熱でじんわりとマーガリンが溶け、香ばしくも幸せな匂いが鼻孔を擽る。その日常の一つである多幸感に思わず小さく息が洩れた。
そしてトーストの表面を満遍なく塗り終え、いただきますと小さく唱えて口へ頬張るとキッチン側からこちらを呼び掛ける声が響いた。
「晴人ー、今日学校に傘持って行ったら? 午後から雨降るって」
「……いいよ別に。だいたいいつも折り畳み傘持ち歩いてるだろ?」
先程言った常に折り畳み傘を持ち歩いているという言葉は間違いではない。ただ正確には、強引に持たされたという方が正しいのだが。
四十を超えている割にはとても若く見える母親―――風宮
遠回しに傘を二本もいらないという意を込めるも、洗い物を終えて食器を拭いていた彼女は呆れたように眉を
「さっきテレビでも大雨の警戒が必要って言ってたじゃない。もし土砂降りだったらあんな小さいのじゃ間に合わないわよ」
「心配し過ぎだよ。こんなに晴れてるんだから折り畳み傘だけで十分だって。そう簡単に大雨なんて降らないよ」
「"備えあれば患いなし"っていうでしょ? いーからつべこべ言わず持って行きなさい。風邪引いたら困るのは貴方でしょう」
「……はーい」
幼い頃からたった一人で育ててきた息子を心配する母親の声に渋々折れた晴人は、その気恥ずかしさを隠す為に思い切りトーストにかぶり付いた。
それから晴人は母に言われた通り傘を持って高校へ登校。そして新学期と云えど変わらない高校生活を過ごしたのちあっという間に放課後になった。
「……帰るか」
しばらく教室に残っていたが、晴人はそう呟くと鞄を持って教室の扉を閉める。ふと廊下の窓から覗く灰色の空へ視線を向けると、土砂降りの雨が降っていた。透明な窓にはいくつもの水滴がびっしりと張り付いており、たらりと水滴同士がくっつくと重力に従い抵抗なく窓を伝う。
(傘、学校に持ってきておいて良かったな)
そう、少しでもこの豪雨の勢いが弱くならないかと外の様子を伺いながら一人になるまで教室に残っていたが、結果的に傘を持参しておいて正解だったのだ。きっと折り畳み傘では完全にはこの豪雨は防げなかっただろう。
雨や雨の打ち響く音、独特の匂いは嫌いではないが、流石に濡れるのは勘弁願いたい。世話を焼かれるのは初めてではないものの、心配という名の母のお節介に感謝しつつ舌を巻いた。
やがて視線を外すと廊下の荷物置き場にぶら下がっているダークグレーの紳士傘を手に取り、廊下、階段と一階の昇降口へ続く薄暗い道を進んでいく。
晴人の在籍する二年生の教室から昇降口玄関までは結構な距離が離れており、電力コスト削減の為か蛍光灯の明かりは点いていない。別にその事に不満を感じている訳ではないし、早く下校しろという無言の圧力……学校の意思は尊重したいが、この薄暗さは夜のような真っ暗な暗闇よりも心なしか不気味さが際立つ。
そしてようやく昇降口に到着。こちらも蛍光灯が点いていないのと悪天候のせいで薄暗いのは相変わらずだったが、ざぁざぁとした雨音がはっきりして先程と比べ暗雲とした気分が幾分か楽になった。
そのまま晴人は立ち並ぶ各学年の下駄箱の鍵付きロッカーの横をすり抜ける。今日履いてきたグレーの軽量ランニングシューズへと履き替える為に自らのロッカーの前に立ち、いざ取手に手を掛けて開けようと手を伸ばした。するとその瞬間、どこからか声が聞こえた。
正確には、くちゅんという可愛らしいくしゃみの音が。
(……? 気のせいか……?)
周囲をぐるりと見渡してみるも、自分以外の人物は見当たらない。それにホームルーム終了時から約二時間は経過しているのだ。おそらく用事の無いほぼすべての生徒は帰宅しているとみて良いだろう。
しかも耳を
晴人はやはり気のせいかと結論付けて靴を履き替える。そうしてロッカーを通り抜けて昇降口の入り口まで目指そうとするが、視界の端に何かの影が入り込んだ。つられるようにそちらへ視線を向けると、
「くちゅんっ」
「………………」
そこには『白雪姫』と呼ばれている彼女―――冬木由紀那がその端正な顔を歪めて可愛らしいくしゃみをしていた。辺りが薄暗いせいで晴人の姿が視認出来ていないのか、彼女はすぐに元の無表情へ直すと、薄暗く雨で視界が悪い外の景色へと再び視線を戻す。
自分の下駄箱からは死角になって見えなかったが、おそらくずっとそこに立っていたのだろう。
何故まだいるのか、そもそも彼女のくしゃみする姿を初めて見たと二重の意味で晴人が驚いて固まっていると、両手で自らの鞄の取手を握りながら佇んでいた彼女はようやくこちらに気が付いたのか、静かに晴人を
何を考えているのか読み取れない、相変わらずの綺麗な顔。
そうしてピンと背筋を伸ばした綺麗な姿勢のまま彼女はこちらに目で軽く会釈すると、興味を無くしたようにすぐさま外へと目を向けた。
(…………いつからここにいるんだ?)
何度か目を瞬かせると、ふと脳裏に浮かび上がる疑問。
ホームルームが終了して放課後になってからもう既に結構な時間が経過している。しかもこの激しい雨だ。この通り昇降口に
この果てしない豪雨の中、少しでも止まないかと長時間学校に残っている生徒など自分くらいかと思っていたが、どうやら彼女も考えは一緒らしい。
いや、別にだからといってそれがどうしたという話なのだが。
しかしまだ疑問が残る。雨の勢いが弱まらないのならば諦めて傘を差して早く帰ればいいのに、昇降口玄関前にぼうっと佇むその理由だ。
どうして、と思考を続けようとして彼女の姿を眺めていると、直ぐにその理由に思い当たることが出来た。同時に高校に残っていた理由が、晴人と彼女では全く違うことも。
「傘、ないのか?」
そう、彼女は傘を持っていなかった。この雨の勢いのまま傘を差さずに帰宅するとなると、次の日には風邪をひくことは必須。だからこそ、彼女は学校に残らざるを得なかったのだ。
心に浮かび上がった言葉が自然に口に出ると、彼女は濡れ羽色の長髪を揺らしながらこちらを向く。
よくよく観察してみればこの薄暗さを加味しても顔色が悪い。四月に突入したといえどまだまだ肌寒さが目立ち、しかも
元から色白ということもあるのだろうが、その乳白色の肌は寒さに晒されて青白く見えた。
彼女は良く分からない瞳でじっとこちらを射抜きながら、血色の悪い唇を動かしながら平淡な口調で言葉を紡ぐ。
「えぇ。午後から雨が降ると聞いて学校に傘を持って来ていたのだけれども、昇降口の傘入れの中を覗いたら一本も残って無かったわ」
彼女の視線につられて昇降口玄関の端に設置されている共有の傘入れを見てみると、確かにそこには傘が一本も見当たらない。この豪雨だ、きっとこの学校の生徒の誰かが勝手に持って行ってしまったのだろう。
不幸だったな、と同情しながらも仕方のないことだと納得する自分がいた。
晴人は過去の経験からこういったことが起こる可能性を考えて自分の教室の横、廊下の荷物置き場に置くようにしていた。なので今回のような不特定多数の目に触れる機会の多い傘入れに自身の傘を入れていたという彼女の失態は、彼女自身に非があると判断せざるを得ない。
「風宮くんは今帰りかしら?」
「あぁ、雨が落ち着くまで教室で待っていたけど、何時まで経ってもその気配が無いから諦めて帰ろうとしていた。……でも驚いた、隣のクラスなのに俺の名前が分かるのか」
「同級生なのだから当たり前じゃない」
同級生全員の名前を知っているわ、と暗に匂わせながらそれが当然かのように淡々と口にした彼女の心情は、残念ながら読み取れない。
だが学年が上がっても未だクラスメイトの名前を覚えられず人間関係に無頓着な晴人より、人付き合いに無関心そうな彼女の方が他の同級生の名前を把握していることに、意外だなという感想を抱いたのは確かだった。
ふうん、と何気ない返事を返しながら晴人はちらりと未だ降りしきる雨を見遣る。彼女もこちらと会話を続ける気はなかったのか、同じように外の景色へと視線を向けるとそのまま無言になった。
ざぁざぁと雨が掻き消す、二人だけの息遣い。
(まぁ、特に親しいわけじゃないからな)
冬木由紀那を高校で何度も見掛けることはあっても、会話をするのはこれが初めてだ。
彼女は『白雪姫』と呼ばれる学校のマドンナ的存在で人形のように可憐な容姿をしているクール美少女。一方晴人は学校はおろかどこにいても目立たないその他大勢一般生徒Aといった感じだ。
今回たまたま冬木由紀那と話す機会を得てしまったが、長々と雨が降り止むのを教室で待っていなければ一生会話することもなかっただろう。
この出来事を縁と考えるべきか、それともただの運と捉えるべきか。
どちらにしても今現在彼女は傘を持っておらず、晴人は持っている。初めて会話した上、よく感情が読み取れないと云えど、明らかにこの状況で困っているであろう冬木由紀那を放っておくのは些か良心に欠けた。
なので、
「ん、これどうぞ」
晴人は手に持つ紳士傘を冬木由紀那に差し出す。若干素っ気ない言い方になってしまったが、これも彼女に対して下心は抱いていないという意思表示の為だ。
こっちが愛想良くして逆に冬木由紀那から見返りを期待しているのかなんて邪推されたらたまったものではないし、それが原因で傘を受け取ってくれなければさらに晴人に罪悪感と後悔がのしかかる。
正直別に彼女が傘を受け取ろうが傘を受け取るまいが晴人には関わりないことだ。これまでも、そしてこれからもきっと晴人自身の変わり映えのしない日常は続いていくのだから。
だからこれは、ただの彼女に対する同情とほんの僅かな親切心。
「……貴方はどうするの?」
「折り畳み傘がある。だからそっちは気兼ねなく使ってくれて構わない。あと返さなくても良いから」
ごそごそと鞄に手を入れると彼女に見せつけるようにいつも持ち歩いている黒色の折り畳み傘を取り出す。それを見ていた冬木由紀那は瞳をパチリと動かすと受け取った傘にしばらく視線を落としていた。
傘を渡した以上、もう既に用事はないのに彼女の近くにいてもただ迷惑なだけだろう。
外の方へ身体を向き直すと手際よく収納袋を外す。折り畳み傘の骨組みを展開する動作をしながら、晴人は何も言わずにそそくさと足早に玄関の入口へと向かった。背後から何か冬木由紀那の声が聞こえたような気がしたがこの雨音だ、近くにいたのならまだしも距離が離れた以上、晴人の耳朶にその内容が届くことは無かった。
そのまま玄関の扉をくぐり外に出ると灰色の空を見上げる。今もなお激しい雨が降り続けており、ついでに寒かった。
(……仕方ない、走るか)
覚悟を決めながら軽く息を吐く。頭上に傘を掲げて一歩を踏み出すとざぁざぁと聞こえていた雨音がババババッという弾く音に変わった。
自宅に帰るまでに傘が壊れませんように、と祈りながら駆け出すと心なしか足取りが軽い。一瞬だけ不思議に思うも、思い当たるのは先程の出来事。
折角あの傘を渡したのだから風邪引かないように、同時にこの先もう二度と彼女と関わることはないだろうな、と考えながら晴人はびしょ濡れになりながらも帰路に着いたのだった。
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