第3話

 昨夜、あんなことがあったというのに、私の馬の仕事は何も変わらなかった。

「なあ、お前はのんびりしているけどさ、戦になんて出て戦えるの?」

 馬は長い鼻を横に揺らして、そんなこと知らんと言っているようだった。

「いや、お前がはりきって敵を踏んづけたりしてくれないと勝てないんだよ。しっかりしてよ」

 そこにテオシベが馬の口を引いてやってきた。

 私ははっとしたが、私のほうがびくびくするのもおかしいと考えなおした。

「もうすぐオサになるのに、馬の面倒を見るの?」

「まだわたしはオサになってないからな。ツドイがあるまではオサの孫の一人だ。オサの孫なんて何人もいるし、オサの孫というだけで怠けていたら、里が回らなくなる」

 テオシベは何も変わった様子を見せなかった。昨夜のことはすべて夢だったのではという気すらした。

 でも、そんなわけはないのだ。

「テオシベ、カミにオサに選ばれるっていうのは、つまり、どういうことなの?」

 悩むのは得意ではないから、私はすぐに尋ねた。

「難しいな。わたしだってこの目で見たことはないんだ。わたしが生まれた時には、もう今のオサが里を仕切っていたんだから」

 それもそうだ。私の年の倍より長くオサはオサをやっているのだ。それじゃ、お婆さんにだってなる。

 テオシベは口数が多いほうじゃない。なので、話もそこで途切れてしまう。馬もちゃんと仕事をしろというふうに体をこちらにくっつけてくる。私ももう大人の側なんだし、休むわけにはいかない。話もできないままになってしまった。

「クルヒ、一つ聞いていいかな?」

 テオシベが馬の体を洗いながら言った。

「テオシベが私に尋ねるなんて珍しいね」

 テオシベのほうがずっと物知りだから、私が尋ねるばかりなのに。

「クルヒはこのオオムロの里が好きか?」

「うん。この里はのんびりしてるし」

「のんびり?」とテオシベが聞き返してきた。

「私の家は交易の仕事をしてるでしょ。おとうについていって、遠くまで歩いたことだって何度もあるんだよ。クビキとかオミとかいった近場だけじゃないよ。ミノチだとかオタリだとか、コシの国が近いあたりまで歩いたことだってある」

 そういえば、この馬だって百年かそれより昔にコシのほうからやってきたらしい。海の向こうの里から来た連中が馬と一緒にここまで歩いてきたのだ。

「途中、いくつも里を通っていったよ。いろんな里があった。市に美しい石をいくつも並べているところも、今でも黒曜石(こくようせき)を掘り出してるところも、ヤマトに従ってるオサが大きな墓を作らせてるところも。でも、オオムロの里が一番のんびりしてた。ほかはどこも忙しそうなんだよ」

 交易の仕事でついていったぐらいだし、通った里はどこも人が行ったり来たりするところにあったのかもしれない。でも、あんなに人に通られたらくたびれてしまいそうだ。話で聞いただけだけど、病気をもらってきた奴がいて、半数が死んでしまった里まであるらしいし。

 それに比べるとオオムロの里はあくびが似合う。案外、海を渡ってオオムロに居ついた連中も、移動で疲れ果てて、一番のんびりしているところを選んだんじゃないかな。

「そうだな。まったく、そのとおりだ」

 くすくすとテオシベは笑った。そんなおかしそうにテオシベも笑うのだと思った。

「何度かオサに尋ねたことがあるんだ。この里は馬という鉄器などよりずっと優れた兵器を持ちながら、どうして土地を拡げていかなかったのかって。その時も言葉は違えど、クルヒと似たことを言っていた」

「それでいいの……? オサが私と同じようだと、私でも心配するけど」

「さすがにオサの使った言葉はもっと難しいさ。征服は途中までは上手くいくものなんだ。でも、立ち止まってしまった時がとても恐ろしい。いくつもの恨みと呪いがやってくる。それに巻き込まれたら終わりなんだ。うかつな力でやってはいけない。自分は追われた者の気持ちがわかる――そう言っていたよ」

 それからテオシベはオサの昔話だと言って、いくつもの遠い里の話をした。

 イタチのような獣の皮をかぶって凍てついた土地をめぐっては戦った里。

 馬に箱のようなものを引っ張らせて戦った里。

 馬なんかより何倍もずっと大きな獣に乗って戦った里。

 数えきれない船に乗って戦った里。

 一年のうち数えるほどしか雨の降ることのない土地で幾度も戦った里。

「テオシベ、待ってよ! いくらなんでも、それは作り話でしょ……」

 途中で私は話を止めた。

「オサが馬を連れてきた連中の話を伝え聞いたってことはあると思うよ。でも、それにしたって話が大きすぎる! どこまで離れた土地の話なの?」

「だろうな。わたしもそう思う。でも、作り話だとも信じられないんだ。わたしはこんなに詳しく作り話をできるようになれる気がしない」

「オサはすごいんだね。今はお婆さんだけど、特別な力があったのかな」

「わたしもそんなすごいオサになれたらと思う」

 そう言うと、テオシベは私の背中に腕を回した。それから、ぐっと力を入れた。

 テオシベの肌からは、交易で手に入れただろう品物のへんてこな香りがした。

「どうしたの、テオシベ。そんなにオサになるのが怖いの?」

 テオシベは寂しそうに笑って、「やっぱり、クルヒはわかってしまうんだな。長い付き合いだものな」と言った。

 どうしてか、テオシベの泣く声が耳に響いた。テオシベはずっと私よりお姉ちゃんなのに、その泣き声は私が泣いた時と、ほとんど違いがないと思った。

 涙を手でぬぐって、テオシベはこう言った。

「オサを決めるツドイに、クルヒ、お前も来てくれ」

「けど……それってオサの一族しか来られないんじゃないの?」

「オサの許しは得る。一人増えるぐらいなら、かまわない。それにわたしは次のオサになる女だ。それに」

 最後にテオシベはこう付け加えた。

「カミも反対はしないさ」

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