父の失態ー②



 使用人の女性に案内され、紫乃は2階にある部屋の前まで辿り着いた。部屋の扉は屋敷の中で最も大きく立派な扉だった。

 女性はその扉に近づき、ぶっきらぼうに扉へ向かって声をかけた。


「旦那様、お連れいたしました」


 中からの返事はないまま、女性はその立派なドアをひらいた。

 どうぞの声をなく、黙ったまま開かれた扉を前に紫乃は少したじろいだが、ごくりと息を呑み中へ入った。

 部屋の中に入ると、正面に大きな窓があり、そこから光が差し込んでいた。そしてその大きな窓の前に洋装の細身の男性がこちらに背を向け立っていた。


「あの、お初にお目にかかります。八雲源治の娘、紫乃と申します」


 紫乃は恐る恐る、目の前の人物に声をかける。すると、ゆっくりと彼は紫乃を振り向いた。


「お噂は聞いておりますよ。八雲殿の娘さんは、天女のようにお美しいとね。どうやらお噂通りのようだ」


 整えられた髭に、嫌な笑顔を浮かべた顔。紫乃は思わず、その顔に寒気が走った。


「ところで、こんな所まで何か御用ですかな?」

「この壺をお返しに来ました」


 紫乃は震える手で、持っていた壺を長谷川に見せる。長谷川はわざとらしく驚いた表情で壺を見て言った。


「おやぁこれはこれは。その壺は八雲殿に差し上げた物ですから、返していただかなくて結構ですよ」

「そういう訳にはいきません。私は」

「そうそう、それと残念ながらあの翡翠はお返しできませんな」


 とぼけたような顔をした後、長谷川はいやらしい笑みを浮かべた。

 はじめから、この男は分かっていたのだ。紫乃の目的が、こんな壺なんかではなく、翡翠だということに。


「どうしてでしょうか」


 紫乃は震える声で問う。すると長谷川は、大袈裟に眉を下げて言った。


「…先日、あなたの父上が出した負債をご存知ですかな」

「負債?」

「実は、翡翠と引き換えにその負債を私が肩代わりして差し上げたのですよ」


 紫乃は驚きで言葉が出なかった。たしかに八雲家は豪勢な暮らしぶりと言えないが、それでも負債などなく過ごしていた。なぜなら源治がいくらお人好しでも、間抜けではない。人のためやお家のためにならないことには、決して手を出さない人物だった。

 それなのに翡翠を渡してしまっただけでなく、負債まであったなんで。紫乃は崩れ落ちそうな気持ちになりながら、長谷川に問う。


「負債なんて、何かの間違いじゃ」

「いいえ間違いではありませんよ」


 ほらここに証書も、と長谷川は紙を一枚取り出して紫乃に見せた。紫乃はその紙に飛びつくように、持っていた壺を床に置き近付くと、見落としがないよう目を凝らす。

 どうか間違いであって欲しい、と端から端まで見たがたしかにそこには、父・源治の負債の証明と、それを肩代わりしてもらった事が書かれていた。


「…父は、不幸が訪れるからと、翡翠を手放すよう言われたと」

「ええ確かに言いましたな。負債も、こんなに美しい娘さんが嫁にいけないのも、その翡翠のせいではありませんか、と」


 上から下まで、紫乃を見定めするかのように舐め回して見る長谷川の視線に、紫乃は吐き気がして慌てて離れる。


「そう言いましたら、喜んでこの翡翠を譲ってくださいましたよ。お父上は余程あなたが大切なようですな」


 長谷川は懐から翡翠を取り出した。光が当たり、美しく輝くそれを、紫乃は奪い取りたい衝動に駆られたが、長谷川がすぐに懐へ戻してしまったため、それは叶わなかった。

 紫乃はどうしていいか分からず、その場で俯いてしまった。あの翡翠は手放してはいけない。先祖代々の言い伝えもあるが、紫乃は直感で翡翠は八雲家にないとなにか良くないことが起こる気がしていた。


「ひとつだけ、条件をのんでいただけるのであれば、翡翠をお返しいたします」

「本当ですか」

「ええ。あなたが、私の息子と結婚してくださるなら考えましょう」


 なんて卑劣な男なのだろうか。もしかすると、初めからそれが狙いだったのか。

 長谷川の息子といえば、女子供にすぐ手をあげ、金使いは荒く、何やら良くないことに手を出していると噂がある男だ。誰もが関わり合いたくないと思うほど、長谷川の息子の素行の悪さは有名だった。

 紫乃の身体は震え、今にも吐きそうなほど気分が悪くなっていた。


「それは」

「出来ませんか?では残念ですが、これは渡せませんな」


 にたぁ、と笑う長谷川の顔は、醜悪で、まるで妖魔のたぐいのようだと紫乃は思った。

 断りたい。だが、断れば大切な翡翠はこの最低な男の手の元から永遠に戻ってくる事はないだろう。

 紫乃は考え、精一杯に声を絞り出し答えた。


「少し、考える時間をくださいませんか」


 長谷川は消えるような紫乃の声に、またしても不気味な笑みを浮かべ言う。


「いいでしょう。だが私はせっかちでね。長くは待てませんよ」


 紫乃は返事ができず、頭を軽く下げ、壺をそのままにして長谷川の部屋を後にした。


(こんな石に興味はないが、あの娘が手に入るなら安い物だ)


 その醜悪で下品な笑みは、邪気すら孕んでいるようで。部屋を出た後も紫乃の背に悪寒を覚えさせるほどだった。





*****




 長谷川の部屋を出た後、紫乃は一目散に玄関へ向かった。来客中だと言うのに、この大きな屋敷で相変わらず使用人の姿一つ見えない。


(不気味だ)


 紫乃は震える身体で、玄関の大きな扉を開けて、慌てて外に出た。息を大きく吸い吐く。身体の中が浄化されていくようだった。

 紫乃は思わず涙が溢れそうになるがなんとか堪えた。どうしてこんな事になったのか。壺を返しに来ただけなのに、こんな家の嫁になれだなんて。

 あまりに理不尽な出来事に、紫乃は人様の玄関先で立ち尽くす。

 けれどいつまでもこうしていられない。早くこの嫌な場所から離れなくては、と紫乃はようやく震える足を一歩踏み出した。その時だった。


「女、邪魔だ。そこを早くどけ」


 俯く紫乃の頭上から、不機嫌な声が響く。

 慌てて顔をあげると、顔をしかめた男性が立っていた。

 まるで人形のように美しい顔、濡羽色の髪、この真っ昼間にはふさわしくないような血の気のない肌、そして射抜くような琥珀の瞳。立派な洋装を纏い、やけに威圧的な目をした男は、紫乃を苛ついた様子で睨んでいた。


「聞こえなかったのか、そこをどけ」


 思わずその男に目を奪われた紫乃は、慌てて玄関からどいた。すると男の後ろをついていた男が、困ったように注意する。


さく様、そんな怖い口調だめですよ!申し訳ありません。怖がらせてしまいましたね」


 後ろから現れた男は、珍しい栗色の柔らかな髪に、同じく琥珀の瞳、そして前の男とは反対に、人懐っこい笑顔だった。


「いえ、私こそ、こんなところで申し訳ありません」


 俯く紫乃に、栗色の髪の男が心配そうに声をかけた。


「お嬢さん、顔色が悪いですよ。どこか具合でも悪いんですか」

「いえ、大丈夫です」

「でも」


 慌ててその場を去ろうとする紫乃の顔を、心配そうに覗き込む。紫乃の顔は真っ青で今にも倒れそうだった。


「もしよければ、用事が済んだら家まで送りますよ」

「いいえとんでもない!見ず知らずの方に、そんな」

「遠慮なさらずに、馬車ですから。こんなに顔色が悪いのに心配で帰せませんよ」


 柔らかな笑顔で、強引に男は話を進めていく。

 さすがにそんなわけにはいかないと、紫乃も断るが、長谷川の事もあり、紫乃はうまく頭が働かなかった。


「ね、朔様。いいでしょう」


 朔様と声をかけられた不機嫌な男は、相変わらず睨みを解く事なく、冷たく、勝手にしろと言い放った。


「よかった。ではお嬢さん、後でお迎えに参りますので、この近くにある七星ななほしという店で待っていてください。通りにある店ですから、すぐわかりますよ」

「あの、私」

「いいから遠慮なさらずに!それとお嬢さん、お名前は」

「えと」


 遠慮したいが、どうやら断れる雰囲気ではないらしい。朔様と呼ばれる男からの冷たい睨みと、目の前の男のまるで犬のような勢いと笑顔に負け、紫乃は息を吐いた。




「…八雲紫乃と申します」




 名乗った瞬間、目の前の男から笑顔が消え、もう一人の男は一瞬目を見開いた。

 驚いた顔を見せた後、男は再び満面の笑みで言う。


「紫乃様。絶対に、店でお待ちくださいね。必ずお迎えに参ります」


 男は紫乃の白く華奢な手を、両手で乱暴に握り、強い口調で言った。

 紫乃はそんな彼にたじろぎ、思わず控えめに返事をする。

 

「…わかりました」


 紫乃の返事を聞くと、満足げに頷き、二人は屋敷の中へと入って行った。

 二人の姿が見えなくなり、紫乃は帰ってしまおうかと一瞬考える。だが、あの冷たい視線はともかく、柔らかな笑顔も思い出すと、不思議と警戒心がつい薄れてしまう。


(親切で言ってくださったのに、勝手に帰ったら失礼よね。それにお父様に会う前に、頭を冷やすのもいいかも)


 教えられた店で二人を待つべく、紫乃は長谷川邸をあとにした。


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