第12話

「やっぱ、なんかありましたよね? 久慈さん」と松下君が目を見開くように聞いてきた。


 バイトが始まってそうそうに彼が声を掛けてきた。なんでそんなことを聞くんだ、と聞き返すと、「そんな健康そうな顔見るの、初めてだからです」とさも当然といった感じで答えた。


「このまえ、休みの日に高尾山に登った」割りばしを補充し、松下君にも手渡す。隣のレジにも補充するように促す。


「趣味ですか」松下君は割りばしを受け取り、しぶしぶと隣のレジに向かっていく背中に、


「健康のためにだ」と僕は投げつけた。


「健康のためを思うならコンビニの深夜バイトを辞めたらどうっすか。夜食にコンビニ弁当食べたり、食生活だって乱れてるじゃないっすか」


「そ、そうだな」と僕は言いよどみ、濁った言葉を吐きだした。


「分かってんならやめた方がいいですって。俺は期間限定のバイトって割り切ってるから、いつ足洗ってもいいんですよ」松下君の言ったことは、麻薬常習者が口にしそうな陳腐な言葉だった。辞めるにやめられないことと分かっていながら、僕を諭すにはあまりに酷だろう。


「僕には生活が掛かっているし、それが辞められない一番の理由だよ。だったら両立できるように仕事していないときには身体を気遣って健康的な休日を過ごす、ってのは良い事なんじゃないか?」こうして偏重な生活をしている人は一定の割合でいる。むしろそういった人たちがいるからこそ、コンビニエンスストアというのは成り立っている。需要がないなら商売は続かない。と感じつつも最近では深夜営業を取りやめるコンビニもあるらしいので僕の考えも世間一般とは少しずれているのかもしれない。


「昼間の仕事の方が夜は遊べるし、飲みに行けるし、彼女とデートもできますよ。お得感半端ないじゃないっすか」松下君はレジ台に両手をついて寄りかかった。深夜の一時を過ぎて客足はピタリとなくなっていた。品出しするにも在庫もなく、次の納品は三時を過ぎた頃にやってくる。その間、僕たちは適当に話し、適当に時間を潰し、適当に人生を過ごしていた。


「松下君が、それが良いって言うならそうすればいいし、他人に勧めるべきことじゃないよ」


「彼女さん居ないんすか?」


「いないよ」僕は嘘をついた。


「じゃあなんでそんなに明るい表情になれるんすか。絶対におかしいでしょ」なかば半ギレのような状態で、松下君はレジ台を叩いた。彼の中では、暗い表情をしている人は不幸であると、研究結果でもあるんだろうか。僕が研究の結果にそぐわないことが腹立たしいと、研究熱心な彼は憤っているのだ。


 確かに、僕は嘘をついた。もし、かなえちゃんという存在がいなかったら、それはそれは悲痛な、苦悶に満ちた表情でこのレジの前に立っていたに違いない。父のことはもちろん、その父を看病している母のことや、小説家を目指していまだになれず、無駄な十年間を過ごした息子を、両親の立場から想像すると、心持ち、僕の胸に冷たい風が吹く。


 僕は頭を振った。「日が伸びると、人間は元気になるらしいからその関係かもしれない」と自分のことなのに、良くも分からない仮説のせいにした。


「本当に嘘がへたくそっすね。たまに来る眼鏡の女の子が彼女さんですよね」ため息がもれ、たいした仕事もしていないのに疲れたようすを松下君は見せた。


「はっ?」すっとぼけるには、反応は素早く、語尾が短くなってしまった。一拍おいて、「はぁ?」と言葉を残してから頭に想像を膨らませるのがセオリーだ。僕は松下君の言葉に瞬時に反応して眼鏡のかなえちゃんを直ぐに想像した。地味だなと思っていた彼女のことが、今では可愛らしいとさえ思えている。


「なんすかその否定っぽい、とぼけかた。ずいぶん前に何か手渡されてるの、見てましたから。大切そうに財布にしまってんのみて連絡先でも交換したんだなっての分かりますよ」


「そっ、かぁ」体の芯に熱した鉄の棒が通ったように、かぁっと熱くなってきた。


「彼女出来たのが、そんなに恥ずかしいことっすか」


「別に、そういうわけじゃないんだ」


「ま、彼女ができて浮かれてる奴を嫌っていうほど何人も見てきましたけど、久慈さんはそいつらとは一線を画してるっつーか、それとは別に顔が明るくなってるんすよ。もう深夜のコンビニには似つかわしくない希望に満ちた顔が」


「人の顔にクレームをつけるなよ」


「こっちのやる気が削がれるんすよ」


「元からやる気はないじゃないか」




 仕事が終わると、僕は廃棄されて弁当を袋に詰めて家に持ち帰った。シャワーを浴び、洗濯した洋服に着替え、弁当を食べ、歯磨きをする。全てを終えて時計を確認すれば時刻は午前七時半を過ぎた頃だった。いつもであれば脳細胞を休ませ布団でゴロゴロと始める時間だったのに今日はいつもと違い、まだ寝間着にはなっていない。これから僕は、外に出かけなければならない。そのとき、スマホが鳴った。LINEの通知だ。


『あと三十分もしたら出るね』とかなえちゃんから連絡が入った。すこしの緊張感と高揚感が僕を包んだ。足の裏がこそばゆくなり、ソワソワとしながら部屋の中をうろついた。これからデート、というわけでもなく僕ももう少ししたら家を出てかなえちゃんに会いに行く。二人がデートだと思えばこれはデートなのかもしれない。


 僕が、「出勤のときに歩きながらスマホを打つのは危ないよ」と注意したことがあった。


「ならどうして分かっててLINEを送ってくるの?」と、かなえちゃんは怒った顔文字を送りつけてきた。私の身を案じているなら送るべきじゃない、と正論をぶつけてきた。そのあと言うまでもなく僕は、「じゃあ、周りに気を付けて返事をください」と返していた。


 恋愛の駆け引き、主導権を握る争いには、僕は参加しない。主導権という見えない手綱は、自分が持つよりも相手に委ねることの方がメリットはあるとおもう。


 かなえちゃんを女性として本気で好きになっていた。恋愛の経験が豊富ともいえず、フリーターというものを十年も続けていると社会の輪からはじき出された人間として見られる。そのせいか僕と付き合いたいという女性は多くなかった。経済的に不安定な人は、遊びにもお金をかけることができずつまらない付き合いを強いられる、と考えるのは至極当然と言ったところだ。


 だから、その判断を相手に委ね、僕はリードに繋がれた犬となって、シッポをふりながら相手になつく素振りを見せる。鬱陶しがられてリードを手放されたことに気付けば、悲しそうな顔をしてとぼとぼとその人の傍から離れていく。それくらいがちょうど良かった。だから今日も、それを覚悟してかなえちゃんにLINEで訊ねてみた。


『家も近いし僕もまだ起きてられるくらいなら、かなえちゃんと一緒に図書館まで歩こうかな』と。直ぐに既読がついて、不安と恐怖が入り交じった数十秒間だった。


『そうしたらスマホいじりながら歩かなくても済むね』


『え? 良いの?』


『広斗くんの悪いクセだよ。そうやって初めから否定を想定した問いを投げかけるの』


『ごめん』


『罰として、朝、中華まんを買ってくること』


『ゴマあんまん、買っていきます』


 僕は途中、コンビニに立ちよった。あらどうしたの? と深夜の僕と入れ替わりで入ったパートのおばさんに言われた。「ちょっと小腹がすいたもので」と適当にゴマカシといた。


 熱々の中華まんを携えて僕は路地を進んだ。人通りも少ない、ひんやりとした空気は自然が豊富な証拠だ。僕たちの住んでいた地域が緑区と命名されているだけあり、手つかずの自然がのこった珍しい地域なのかもしれない。ちょっと奥まった場所にはいればそこには森が広がり、人間の進入を拒んでいるような雰囲気すらあり、薄気味わるくもあった。


 こんな場所を普段から歩いているのだから、かなえちゃんは物怖じしない女の子なんだと改めて感じた。一人で歩く慣れない道に、恋人の想いを重ね合わせる。同じ目線でものを見ているのか、それとも僕の気付けない目線で物を見ているのか、今では彼女のいろんな面を知りたいと思いはじめていた。


 彼女が笑うときはどんな時か、彼女が泣くときはどんな時か、心が痛むときや和むとき、叫びたくなる時や駆けだしたくなる時もあるのだろうか、何も知らなくせに恋人と名乗ることは無責任だ、と誰も非難することはない。けれど僕自身がかなえちゃんのことを知りたいと思うからには、知らなくてはいけないと自責の念に駆られる。


『そろそろ着く頃だよ』と連絡が入ると、僕はまたそわそわと心がざわついた。恋人らしい事をしていると思うと、緊張感が全身を駆け巡り、失敗は許されないと気が引き締まる。イベントごとの成功を願う気持ちと似ているのは、きっと未来を願う気持ちの表れなのだ。


『コンビニの袋を持ってるのが僕だよ』と冗談めかした返信をする。


『わたしは』と文字が続き今日の服装が書き込まれた。文字を頭の中で変換し、かなえちゃんを着せ替え人形のようにコーディネートし、ワクワクする。


「広斗くん、おはよう」かなえちゃんは小走りに駆け寄ってきて、僕に飛びついた。遠慮のない体当たりで、不意打ちをくらった僕は大きくよろめいた。「ご、ごめんなさい」


「朝からテンションが高いね」体勢を立て直し、僕はかなえちゃんをかるく抱きしめた。衣服の上からでも彼女の温もりが感じられ、僕は無意識のうちに腕の力を強くしていた。


「誰かにみられちゃうよ」


「じゃあ離れる?」


 その前に、とかなえちゃんは周囲を見渡し、人気がない事を確認した。無論、住宅は点在していて家の中に人がいることが十二分に考えられた。外に姿をあらわしていないだけで、家の中から僕らのようすを窺っているのかもしれない。だとしても、だ。それがなんだというのだろうか、誰にみられていようが迷惑になる事でもない、と僕たちは認識していたのかもしれない。かなえちゃんは僕の首に腕を回した。ぐっと顔が近づき、お互いに見つめ合い、逸らさず、口づけを交わした。


 かなえちゃんは逃れるように、顔を僕の胸元に埋めた、かと思えばいっきに身体を離し、「もうおしまいです」と照れながら笑みを浮かべた。「あんまりくっついてたら仕事に行きたくなくなっちゃう」


「行かなければいい」と無責任な思いが脳裏をかすめた。口をついて出そうになったが何とか呑み込んで、「それはまずいね」と思ってもない感想を僕は口にしていた。


「今日が休みだったら良かったのになぁ」


「僕は休みだけど」


「だからわたしも休みたい」しぶしぶと僕から離れ、かなえちゃんは不満そうなため息をついた。分かり易くて、それがとても愛らしい。相手を喜ばせようと思った、能動的な行いじゃなく、自分の欲求に素直に従った感情的なふるまいだった。


「仕事終わってから、僕の家に、来る?」


「いいの?」目を丸くしたかなえちゃんの瞳に、何故だか輝きが宿ったように見えた。「行く行く!」

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