第30話 悪いことなんかしてないのに

「なんで俺は助けられた」


 玄関から外に出た俺は、ドアに背中を預けた。


「ふざけんなよ!」


 叫んで、走りだす。


 とにかく走る。


 前方から歩いてきたサラリーマンの肩にぶつかっても、女子高生二人組から指をさされて笑われても。犬の散歩をしていた貴婦人とすれ違った時は、その犬を蹴飛ばしたくてたまらなかった。


「無理じゃないか!」


 あてもなく彷徨い続けて、ビルの裏側にあるコインパーキングの中でようやく立ち止まる。気がつけば辺りはもう真っ暗だ。いつの間に、こんな時間がたったのだろう。


「なんで俺は助けられた!」


 叫んで、太ももを拳で思い切り殴った。コンクリートの裂け目から生えていた健気な雑草を何度も踏みつけた。


「俺なんか、やっぱり……」


 今度は後ろのコンクリート塀を殴る。拳がしびれた。骨にひびが入ったかもしれない。そんなのもうどうでもいい。俺がこうやって叫ぼうが、自己嫌悪しようが、手を骨折しようが、世界にはなんの影響も与えない。


 だって俺は、どこにでもいるような平凡な人間なのだから。


 そんな存在が、誰かの人生の邪魔をしていいわけがない。


 愛実の人生の邪魔をしていいわけがない。


 俺とかかわり続けると、愛実は母親に嫌われ続ける。家族が壊れる辛さは、俺がこの身を持って体験している。修復できるなら、俺がいなくなることで修復できるなら、その方がいい。


 と、その時ポケットの中のスマホが震え始めた。


「誰だよこんな時に」


 舌打ちをしつつ、スマホを取り出す。届いたメッセージを読んで――俺はまた走りだした。


 メッセージは愛実からだった。


《いきなりごめん。智仁に見せたいものがあるから、駅東公園のベンチに来て》


 見せたいものってなんだよ?


 そんなことよりも先にお前にはやることがあるだろ?


 今、愛実に対して抱いている感情が怒りなのか心配なのかわからない。


 かかわらないと決めたのに、呼び出されただけで会いにいこうとしている。


 この矛盾を誰か説明してくれ。


 俺の心は愛実にしか癒せないんだよ!


 向こうから会うチャンスを作ってくれたなら、会いにいったってかまわないだろ?

 

 俺は公園まで全速力で駆け抜けた。


 一度も足をとめなかった。


「愛実っ!」


 公園内に足を踏み入れた時、無意識に名前を呼んでいた。


 ここまで走ったことによる疲労感が一気に襲いかかってきて、膝に手をつく。


 そんなことより愛実どこだ!


 芝生エリアにアスレチックスペース、テニスコートやバスケットコートもある駅東公園は、休日になると多くの人でごった返す。


 しかし今は誰ひとりいない。


 暗闇と静寂だけが蔓延した不気味な場所に成り下がっている。


「ってか、ベンチって」


 どこのベンチだよ!


 愛実のメッセージに返信して居場所を尋ねたが、既読にすらならない。鉛のように重い足に鞭打って広い公園内を歩き回る。ベンチというベンチをしらみつぶしに探す。


「……いた」


 アスレチックスペースにある砂場の向こう側、ブランコのそばのベンチに愛実が座っているのを見つけるまでに、十分以上かかった。


「おい! つぐっ、み……」


 俺の声は途中でその勢いを失った。


 背中に悪寒が走り、胸の内側が謎の痛みを発している。


「……つぐ、み?」


 何度も目を瞬かせるが、目の前の光景は変わらない。


 金髪の愛実が、愛実の通う高校の制服を着た男子と二人でベンチに座って、抱き合っていた。 


 ――私、お父さんみたいな医者になる。


 その言葉が、当時の情景や声質そのままによみがえる。


 ――あの時離しちゃったこの手を、またつなぐことはできないかな?


 お前、たしか俺にそう言ったよな?


 ――私も、智仁とゆちあといる時が一番楽しい。ありがとう。


 その全部が嘘だったって言うのかよ!


 俺よりゆちあより、この男と会う時間の方が大事だって言うのかよ!


 俺は地面に崩れ落ち、声にならない声で呻いていた。


「……と、智仁」


 俺の存在に気がついた愛実が、顔を歪めながらこちらに近づいてくる。


「ごめんなさい。私は」


「黙れ! もういい」


 わざわざ俺に見せつけやがって、どんだけひねくれてんだよ!


 気持ちわりぃ趣味してんな!


 お前だって、父親を殺した俺を恨んでたのかよ!


「智仁、これはね」


「おい!」


 さっきまで愛美と抱き合っていた男の声だろう。他人を心の底から見下しているかのような醜い笑い声も聞こえてきた。今の最低な愛実にお似合いの男だ。


「お前、俺の女に手出すなよ」


「……こんな女、手を出す価値もねぇ」


 俺は、二人に背を向ける。


 ふざけんな。


 もう限界だ。


「お前の父さんが俺を助けるから悪いんだ! 俺がいつ助けろって頼んだかよ! ムカつくんだよ! 金輪際俺の前に現れるな!」


「……ごめん、なさい」


「俺はなんにも悪いことしてないのに、なんでこんなに、こんなにも俺は!」


 その言葉を捨て台詞にして、俺は逃げ出した。

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