12 「それだけ?」


「ごめんなさいね。私が出たの大分前だし、私首都にも居だから言っで良いのかなっで。それに別れ際でしだし、ムソヒの事こっぢで話すと、絶対良い印象持たれねがら……つい……あーあの臭いとこね、って皆さん言うのよ」

「ああ……分かります。ヴェルニコの臭いの事、私もウェズリー様さ言われまじた」


 以前のウェズリーとの会話を思い出して溜め息をつく。地魚を発酵させた保存食ヴェルニコの臭いは場所によっては開封前に届け出が必要なくらい強烈で、ムソヒと言えばヴェルニコを連想する者がとにかく多い。思えばデヴィッドと出会った切っ掛けも、ヴェルニコが絡んでいた。


「ヴェルニコのペースト私好きなんですけんど、流石にあれをルミリエさ持ってくる勇気はありませんでした……」

「へ~ヴェルニコ好きなの? じゃあ今度あげるわっ! 未開封の物が一づ、うちにあるの!」


 気付けば口調からよそよそしさが消えたジェシカが、名案だと持ち掛けて来る。こちらを覗き込んで来る茶色い瞳が宝石のように輝いていた。


「え? 良いんですか!?」

「勿論っ! どうやって消費しよか迷っでたぐらい……。週末のゲネプロ、リタさんも来るけ? その時に渡ずね!」

「わっ、嬉し! ジェシカ様、有り難う御座います! ゲネプロ、楽しみにしておりま――」


 す、と続けようとした時。ドタドタ、と強すぎる足音が耳に入ってきた。


「あっ!」


 何の音だろう、と不思議に思う時間もなく、空のバッグを勢いよく引っ手繰られてしまった。その勢いでよろめき、リタは白いタイルで舗装された道に膝を突く。


「リタさんっ! あいづ……っ!!」


 自分が急によろめいた事で異変に気付いたジェシカは、きっと表情を険しくしてどんどん遠ざかっていく男性の背中を睨み付ける。


「リタさん、そこで待っでてっ!」

「ジェシカ様、待っ――」


 走り出したジェシカの背中を呼び止めるよりも早く、パンツスタイルの女性はバッグを持って走る男性を追い掛けていってしまった。一連の引ったくり騒動に気が付いた人達が、どう対応していいものか困りあぐねているように自分を遠巻きに眺めていた。警察もまだまだ機能していないルミリエでは、首都の事件のようにいかない。この反応が当然だ。


「そこの引ったくり、待ちなさーいっ!!」

「っ、ジェシカ様待ってっ!」


 引ったくりに遭った動揺と居た堪れなさを感じ、立ち上がってスカートに付いた砂埃を払う事もせず、ひったくり犯とジェシカの後を追い掛けた。




「はあ……はぁ……っ!」


 息を切らしながら高架下を逃げる犯人の後を追い掛ける。あの中にはウェズリーから預かった食費が入っているのだ。はいそうですか、と諦める訳にはいかない。

 高原地帯の雄大な自然に育まれたおかげで、足の早さにはそれなりに自信がある。が、ジェシカは抜かせても深々と帽子を被った男性を捕まえるには、後もう一歩が足りなかった。街中を全力疾走しているせいで、全方向から視線を感じる。


「きゃっ!」

「っ、リタさんっ!」


 髪が乱れるのも構わず走っていると、地面に足を取られ勢い良く倒れ込んでしまった。すぐに後ろを走っていたジェシカに自分の名前を叫ばれる。


「リタさんだいじぶっ!?」


 頭から転んでしまったからか、心配しきったジェシカの声が耳を突いた。ガッ、と音を立てて走るのを止め、慌てた様子で駆け寄ってくる。


「だいじ、申し訳ありませ……いたっ!」


 首を縦に振り、すぐに犯人を追い掛け直そうと立ち上がるが――無視出来ない程足首に痛みが走り、眉間に皴を寄せジェシカの服を掴みバランスを保つ。異変に気付いたジェシカの視線がこちらに向けられた。


「どうしたのっ!? 足? 足を挫いだっ?」


 犯人を追う事を完全に止めたジェシカが、自分の体に手を添えバランスを保つのを手伝いながら聞いてきてくれた。遠ざかっていく足音、ほんの少しの周囲のざわめきを耳にし、ズキズキと痛む足も相俟って視界が滲みそうになる。


「ごめんなさいっ、そうみだいです……ごめんなさいっ!」

「良いの、私こそ捕まえれねぐてごめんなさい! それより足、見ぜてっ!」


 添えられた手に誘導されるように近くにあった数段の階段に座らされ、熱を持って腫れている足首を曝け出された。二人分の荒い呼吸が周囲に響き渡っている中、犯人を取り逃してしまった事、ジェシカやウェズリーに迷惑を掛けてしまった事が、途端に悔しくて堪らなく思えてきた。


「ジェシカ様、ごめんなさいっ……私、私っ」


 熱い物を瞼に感じる。次の瞬間涙が瞳から溢れて、ポタポタとスカートに染みを作っていく。だいじ、だいじ、と声を掛けてくれるジェシカが背中を擦ってくれ、体よりも心に温もりが沁みた。


「う……」


 まだ涙は止まらなかったが、そこでようやく現状を把握する事が出来た。人の往来が多いここは、ルミリエの中央近くに位置する王立劇場の前の通りだ。青果店のある位置からここに至るまでの道は、駅にも近く人通りも多い。

 声だって出していたしあれだけ盛大に走り回っていたのに警察は駆け付ける素振りも見せない。何らかの事件に関わっていただろうデヴィッドが、警察に頼らず自分達を頼ったのも頷ける話だ。


「リタさん、あの鞄には何が入っでたけ?」

「……っ、ウェズリー様から預がった食費を入れだ財布だけです。まだ食材を買う前でしたので……」


 何時までも泣いてはいられない、と鼻を啜ってから顔を上げ、まだ息を切らしている女性の顔を見上げた。


「それだけ?」


 走り終わったばかりだと、陽気なジェシカの表情も流石に険しくなる。こちらを映す茶色の瞳も何時も以上に真剣だ。その問いに首を縦に振って頷く。


「はい、ウェズリー様に何て言えばいいが……」

「お金より問題は挫いだその足。そっだら足で帰れるけ?」


 ジェシカの問いに、改めて腫れた己の足首に視線を落とす。意識すると今までの数倍ズキズキと足首が痛み、眉間に皺が寄った。情けないが、この足では海岸通りに辿り着くのは難しいだろう。目を伏せ、そっと首を横に振る。


「そうよね。……待ってで、今辻馬車を呼んでぐるわ。あっ、お金の事なら気にじねで!」


 ジェシカが立ち上がって辻馬車を探そうときょろきょろと辺りを見渡した――その時。


「リタちゃん? やっぱりリタちゃんじゃないっ!」


 ふと後方から、高めの男性の声が聞こえてきた。聞き覚えのあるその声に、夜道にガス灯が点いた時のような安心感を覚え、ハッと顔を上げた。赤いロングヘアーが特徴的な綺麗な男性、ゲール・アップルソンがそこには居た。何があったんだ、と驚いたように目を見張り、劇場の入口からこちらを見下ろしている。

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