第四章

第49話 境

 我が妹である露草つゆくさの露は、あらわが語源であり、気持ちや思った事を包み隠さず表すという意味と、小さな水滴の儚さを込めた名前であり、決して梅雨の時期に生まれたからとかいう、適当につけた名前ではない。実際、妹の誕生日は10月だ。


 誰かに対する優しさも大切だが、自分の気持ちの方が大事にして欲しい、そんな願いを込めた名前らしい。


「懲りねぇなお前も」

「だってぇ……」


 露骨という言葉にもつゆという文字が使われているように、妹もとい露草もとい露は露骨に顔を顰める。


 洗濯物が乾きづらい今の季節、湿度がただでさえ高いのに部屋干しの上乗せ、さらに浮かない表情をした妹の倍プッシュをくらい、部屋は泳げるのではないかというぐらい、これほど無いまでに湿度が高い。


 梅雨が明けるまで、露が帰るまで、もう少しの辛抱だ。


「それ食ったら帰れよ」

「私が作ったんだけどこれ」

「僕の部屋なんだけどここ」

「…………へいへい」


 人の気も知らずにいきなり押しかけて、ドア開けた第一声「宿貸せ」は、呆れを通り越して安心までする。いつもと変わらぬ妹だ。


 味噌汁を啜る。


 顆粒出汁ではない本物の昆布と鰹節から取った出汁の主張は強く、まるで授業参観の小学一年生のごとく、他の具材を押し退けて手を挙げる。


「味噌汁ひとつにこだわり過ぎだろ」

「仕方ないでしょ。夕飯コンビニパスタなんて知らないし」

「急に来たらそうなるだろ」


 廃棄を哀れんで連れてきた明太パスタが泣いている。まぁ、味噌汁と食べ合わされたら泣きたくもなるが、こんな事誰が予想できよう。僕に罪はない事を信じよう。


「…………何があったか聞かないの?」

「聞いて欲しいのか?」

「なら言わない」

「どーせ親父関係だろうけどさ」


 中々に美味しくない組み合わせだな。


「まーそう思うよねー」

「違うんか?」

「今回は別件です。クソ親父は関係ありません」

「珍し」


 食べ合わせが良くないなら、一つずつ食べていったほうが美味しいのではないだろうか。括弧撃破だ。


 味噌汁を飲み干す。


「てか、用事なきゃ来ちゃいけない?」

「住み着かれると困る」

「何で?女連れ込めないから?」

「……僕が家賃払ってんだ。露が肩代わりするなら住めばいいんじゃねぇの?」

「妹に、女子高校生に、未成年にたかりますかクソ兄貴」

「じゃあ変な冗談言うな」


 パスタをよそって食べる。美味しいと感じるまで、二口ぐらい犠牲にしなくてはいけない。なんて罪深い事を。


「それはそうと、兄貴彼女でも出来た?」

「は?」

「ちょっと行動っていうか態度っていうか、………色々変わったから」

「……………そんな事ないだろ。てか彼女いねぇし」

「ふーん」


 自覚はある。そして心当たりもある。


 性格とまでは言わなくても、考え方とか価値観が、とても変化している。自分でもわかるぐらいに。


 ここ最近の出来事はあまりに刺激的すぎて、あまりに衝撃的で、きっと無意識のうちに顔や態度に出てしまっているのだろう。


 今日だって……。


「とにかく、それ食ったら帰れよ」

「はーん。やっぱ長居させたくないんだ」

「始発で帰って学校間に合うならいいよ」

「………………今日はいつにも増して冷たい」

「いつもこんなもんだろ」


 わかってる。わかっていても、僕には上手く受け流す事が出来ない。中途半端に受け止めて、呑み込む事も消化する事も出来ず、未だに腹に居座っている。


 解決策は思い付かない。そもそも解決するべきかどうかも疑わしい。解決していいのだろうか。


「ご馳走様でした」


 問題ない訳がない。でも解決しょうがないし、それが彼女達に必ずしも「良い影響」があるとは限らない。


 腫れ物に触れるのなら、その傷を癒せる様に。


 けれど差し伸べた手で、首を絞めたくはない。


 本能に身を委ねる危険は、先日痛い程知った。


「お粗末様でした」


 頻繁に模様替えをしていない筈なのに、入る度に景色が変わるあの部屋で、僕は一体何を見ているのだろう。


 これまでも。


 これからも。


「…………チョコと抹茶、どっちがいい?」

「………え?」

「選ばんと無いぞー」

「じゃあ……………抹茶」


 僕は食べ終えた食器を流しに連れて行き、頭を冷やすように上から冷水を浴びせ、自分達も頭を冷やす為に冷凍庫を漁った。


 もう少し暑くなったら食べようかと思ったが、八つ当たった反省の意を込めて、


「それ洗ったら食おうぜ」

「………やるやん」


 キンキンに冷えたカップアイスを2つ、今を乗り切る為に食べる事にした。





 期末試験が刻一刻とにじり寄ってくる事実を、淡々と報告する期末試験内容説明の授業に、後で見返せばいいやの精神で対抗し、惰眠を貪る雨上がりの昼下がり。


 慣れ親しんだ音楽を垂れ流し、何か言ってる教授のろくろ回しに目線を送りながら、音楽でも試験でもないモノに、思いを馳せる。


 無論、今日のシフトである。


 神宮寺とのバイトだ。


 嫌ではないと言えば嘘になる。中々に長い付き合いで、それなりに慣れてきた。慣れない訳がない。


 しかし、その、………嫌なのだ。前言撤回する。嫌だ。めちゃくちゃ嫌だ。


 あの何しでかすかわからない思考回路が、数ヶ月も続いているバイトでも、サービス残業にも等しい謎組織に入団しても、未だに理解できない。


 犬も歩けば棒に当たるように、神宮寺とバイトをすると何かトラブルを起こす。そんな奴と一緒に働いて、気分が良くなる人間など皆無だと思う。まぁ、ルックスは整ってるから、外見が評価の最重要項目な人なら話は違うかもしれないけど。


 兎に角。


 嫌だ。


 しかしながら、聞かないわけにもいくまい。


 彼女2人の関係性を。距離感を。何があったのかを。


「……………はぁ………」


 一昨日から体調不良が続く。原因は明白で曖昧だ。


 美彩の一件である。


 どうも体に出やすい体質なのか、決まって不調になる。


 体が重い。頭はさらに重い。心はもっとだ。


 重い物ほど地球に引っ張られ、地に伏せるのが世の摂理。いや、地球に引っ張られているから重いのか?まあどうでもいい。とりあえず体は椅子に根を生やし、頭は机に埋まり、心は下の階まで引っ張られている。


 まだ半分以上も、授業が残っていると思うとさらに体が重い。


 この歳で整体に行くのは気が引けるが、それを検討するぐらいには僕の体は疲れ果て、休息を求めている。


「……………………………」


 何となく、慣れ親しんだ音楽すら邪魔に思えてしまい、僕はイヤホンを取り外す。


 ケースに仕舞い、音楽を止める。


 ふと周りを見れば、一足早く夢の世界に旅立った先駆者が、似たような姿勢で額を机に置いている。


 既に授業レポートを書いてしまったから(感想を授業開始と同時に埋めてしまった)、本格的にやることが無いし、僕も彼らを見習って、目を閉じる。


 人間の感覚のおおよそ8割を占めると言われる視覚情報を遮断すると、余計な刺激を遮ることができて、意識はさらに遠のく。


 寝て忘れられるような悩み事では無いが、寝て先延ばしというより、むしろ縮めている昼寝に手を伸ばし、重力に従って瞼を下ろすと、


「マジっ!?」


 睡魔を追い払うには最適な、予想外の音刺激は、僕の右後ろの座席から聞こえ、意識が覚醒する。そして声の主は注目の的になる。


「………そこ。私語するなら外でやって」

「スンマセン……」


 大声を上げた青年はばつが悪そうに何度か会釈をし、姿勢を正し座り直した。周りの友人は口を抑え、笑いを堪えている様だ。


「何やってんのお前」

「しゃーねぇだろマジでビビったんだから」

「何があったん?」


 雑談に花を咲かせる男子グループ。


 それを横目にもう一度、睡魔に襲われようと腕を枕に突っ伏して、目を閉じようとした時、


「ミサキがガキ堕ろしたんだとよ」


 瞼が上がる。


 鼓膜を一本の矢で貫かれた様に、イヤホンから大音量で音楽が流れた様に、意識が鮮明になる。


「そらウケるな」

「相手誰なん?」

「わかるわけねぇだろ」

「だろうな」


 下品、とは言い難いが、少なくとも学校の授業中に、勉学に勤しむ場で聞く内容ではない話に、


「………………………………」


 僕は、ギュッと歯を噛み締める。


 そして拳を握り、二の腕を掴み、唇を噛む。


 いくら目を閉じても耳は閉じれず、聞きたく無いことも聞こえてしまう。どうして耳には蓋が無いのだろうか。


「そんでさ」

「ウソ」

「ヤバくね」

「だからさ」

「なにそれ」


 教授には聞こえないコソコソした声で、僕には聞こえる不快な言葉を、ジャグリングをする様に鮮やかに紡ぎ、喉の奥に糸が絡まる。


「……………………………」


 何かが煮える。


「……………………………」


 何かが浮き上がる。


「……………………………」


 ぼんやり見えてたそれが、


「……………………………」


 輪郭を帯びて、


「……………………………」


 くっきりと。


「そこ」


 授業態度に過剰な教授は僕を指差し、


「勝手に立つな」


 自分のことを棚に上げ指摘する。


「………………………あの……」


 僕は、



「体調が優れないんで……」


 青白い肌をしているであろう額に手を当て、片目を覆い、


「失礼します……」


 荷物を持って退室する。


 少しふらついて、教授が何か言っていたのを無視して、扉を閉め、歩き出す。


 冷房の効いた部屋から廊下に出ると、その温度差で息が更にしにくくなる。


 でも、そんな事を気にしてる余裕は無い。


 足早になって、廊下を走って、ドアに体当たりをして、僕はトイレに駆け込む。


 吐いた。


 こんな経験は初めてだ。

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