第48話 朦朧

「ただいま」


 誰もいない家に挨拶する。


 すっかり明るくなった空の下、重い頭をぶら下げて足を引きずり、それでも自宅へ帰った自分に鞭を打ち、学校へ行くための準備をする。


 1限からの授業はない。しかし2限の授業はある。


 サボってしまっても構わなかった。それでも行こうとシャワーを浴びて、申し訳程度の身支度を整えているのは、何かしていないと寝てしまうと思ったから。


 本の知識かテレビの番組かネットのガセか、人は寝てる間に記憶の整理をするらしい。


 その時、不要な記憶は消されてしまうとか。


 1週間前に晩御飯を食べた筈なのに、そのメニューを覚えていないように、人の記憶には限界がある。


 忘れたくはない。


 でも覚えていられる自信がない。


 だから整理されないよう散らかしておこうと、まるで駄々をこねる子供のような、無駄な抵抗を続け、僕は新しいTシャツに袖を通す。


 ふと、手が止まる。


 美彩は大丈夫だろうか。


 いや、どう考えても大丈夫な状況では無いんだろうけど、そういう意味ではなくて。


 しっかり帰れているんだろうかという、誰もが考えるような事を、僕は心配した。


「……………………………………」


 帰ったところで。


「……………………………………」


 帰ったところで、なのだろう。


 彼女の本性を初めて観た時、あのエレベーターの中で、彼女が言っていた言葉の意味が、ようやく理解できた気がした。


 彼女にとっては、家よりもあのマンションの方が、あの胡散臭い謎組織の方が、よっぽど居心地良くて、心休まる空間なのだろう。


 そこに、僕みたいなイレギュラーが、面白い話なんて持ち合わせていない奴が、リーダーに気に入られたという理由だけで入ったら、警戒して当然だ。


 男性嫌悪症と言ったか、それを患う彼女なら尚更。


「………ッ!!」


 自分の両頬を力強く引っ叩く。眠気覚ましと記憶の定着を込めて。


 1時間も経たず、僕は自分の家を後にする。


 空いた電車の座席に座らず吊革にぶら下がり、大学まで着いたのはいいものの、優しい雨音がBGMとなり、授業開始の5分前に、僕は気絶するように寝てしまった。






「お願いしま〜す」

「商品お預かりします」

「お姉さん可愛っすね。高校生?」

「いや大学生っス」

「…………………………」


 動かない頭と勝手に動く腕で陳列作業を行いながら、五感が受けとるあらゆる情報が、まるで底が空いたバケツの様に垂れ流れ、何も考えず、あるがまま受け入れていた指先が、その時ピクリと止まった。


 僕より1時間ほど遅くシフト入りした璃穏がレジに立ち、接客をしている。


 それ自体に何の問題も無い。飲み込みが早い彼女は難なく仕事をこなしているから、僕が横に立つ必要はない。


 だから彼女に目線を向けたのは、ただ僕が上の空で仕事をしていただけで、客の容姿や会話に注視した訳では無い。そこが気になった訳では無い。


「……………………………」


 恐らく僕は疲れてる。


 今だって目の前の業務すら集中していなかった。そして後輩に気を配っていたり、他の仕事を探していたりもしていない。


 かと言って何かを考えてた訳でも無い。


 何も考えていない。


「……………今日は飯食わずに寝よう…」


 廃棄の弁当でもパンでも食って、風呂も入らず寝てしまおう。幸い明日の授業は午後からだ。


 陳列作業を終え、他に仕事はないかと店内を見回す。


 狭い視野を無理矢理広げて見つけ出したのは、仕事ではないがやらないといけない事で、


「お客様お困りですか?」


 困っていなさそうな客越しに、困っていそうな後輩へ声をかける。


「何?俺刀祢田ちゃんと喋ってるんだけど?」

「ですから、何かトラブルでしょうか?」


 レジ横から会話に割って入り、声がワントーン低くなった男性客に、貼り付けた営業スマイルで対応する。


 研修中のマークを貼られ、「刀祢田」の名札をつける少女に目配せをして、場所を開けてもらう。


「申し訳ありません。彼女まだ研修中なもので、代わりに自分が担当致します」

「だから、俺は彼女と話してんの」


 ここはキャバクラじゃねぇつの。


 心の声が顔に出て、笑顔が少ししかめっ面になる。


「お会計お済みの様ですけれど、何か追加でご購入なさいますか?」

「だーからさぁ…」


 目には目を。歯には歯を。話の通じないやつには、聞く気がない態度で。


「刀祢田さん。悪いんだけど、バックヤードから飲み物の補充お願いしてもいいかな?」

「え……あぁ…わかりました」


 茶番に付き合ってくれと合図し、とっくに済ませた補充業務を命じて、璃穏をバックヤードへ向かわせる。


「えっ、ちょっと刀祢田ちゃん!?」


 男性客の静止も虚しく、璃穏は視界から消えて、


「ご一緒にホットスナック如何ですか?」

「………………………チッ」


 夜もだいぶ更け、人が来ない時間帯に料理を作るバカが居ないように、ほぼ空っぽのホットスナックコーナーを掌で促す僕に、男性客は大きく舌打ちをして、


「名前覚えたかんな……」

「ありがとうございましたー!」


 やっとレジから離れ、自動ドアをくぐる。

 完全にドアが閉じたのを確認して、


「2度と来んな」


 と、笑顔のまま暴言を漏らす。


 やはりこの時間帯は嫌いだ。忙しくはないが変な客が多い。昼間が体力勝負なら、夜間は精神勝負だろう。メンタルが削れる。


「よし。おーい、もう帰ったぞ」

「飲み物の補充無くないっスか?」

「諦めさせる為のガセに決まってるだろ」


 間に受けんなよ。


「やっぱ変な客多いよなこの時間帯は」

「そっスね〜。自分もどちらかと言えば変な客側なんで、親近感湧きますけど」

「シフト入ってない時は来なくていいからな」

「また先輩に接客してもらいたいっスね〜」

「………………いつした?」

「忘れてていいっスよ」


 そう言って一瞬目を逸らし、璃穏は本来客が立つレジ前に来て、


「それより先輩、何かあったんスか?さっきからボーッとしてましたし」

「いや別に。……何もねぇよ」


 僕の瞳を覗き込むかのように問いかける。


 覗き込むかのように、見透かすように。


「何も無いわけないじゃないっスか。そんな言葉で誤魔化されるほど、自分は盲目じゃないっス」


 カラーコンタクトをつけた瞳の間に指を添え、エアメガネをクイっと上げる後輩。


「前だって遅くとも5分前には到着して、遅れるなら連絡、ちゃんとした言い訳まで揃えて来た先輩が、何も無いわけないじゃないっスか」

「ほんと大した理由じゃねぇんだよ」

「じゃあ小した理由なんすね」


 小した理由?


「………………寝坊だよ。レポートに手間取ったんだ」

「嘘っス。自分にはわかるっスよ。なんせ先輩の後輩なんスから」

「先輩の後輩なら、先輩の顔を立てて黙っておくもんだろ」

「それはそれ。これはこれっス」

「同じだろうがよ」


 捻り出した嘘もまんまと見抜かれ、それでも言いたくないし、言ってもしょうがないし、何より言わない約束だから、僕はどんなに聞かれても口を開く気はない。


「まぁ、そこまで言いたくないなら無理に聞かないっス。ただ、毒は飲み込む前に吐いた方がいいっスよ。血に乗って全身に回る前に」


 伊達に付き合いが長い後輩はその意図を汲み取ったらしく、素直に諦めてくれた。しかしその口ぶりからして、好奇心ではなく、心配しているようだった。


 吐き方は知ってる。口の中に指を突っ込んで、喉の奥を潰せば簡単に吐ける。


 ただ、吐いた方がいいのかわからないのだ。

 吐いていいのか、吐き出してしまって本当にいいのか。






 帰宅後、晩酌をした。


 普段から酒を飲む人間では無い。特別な事があっても、特別飲みたいとも思わない。好きでも嫌いでも無い。


 でもその日は、大した理由も無く、ただ飲みたいと思ったのだ。中毒ではない、と思いたい。


 缶ビール一本買うのに抵抗があるほど、お金に困ってはいない僕は、その理由の無い動機を原動力にして、深夜のコンビニに駆け込んで、一本だけの酒を買い、つまみも買わずに、アパートのベランダで酒を飲み始た。


 洗濯物を干す以外、使っていないベランダで、350mlの缶ビールを。


 プルタブを開けると、爽快感のあふれた音が鳴り響き、開いた口から泡がこぼれ出る。


 無意識のうちに振っていたのか、2番の粉を混ぜたねるねるねるねのように膨れ上がった泡は、ベランダの床に落ちる。急いで飲むようなことはしなかったから、あんまり冷えてないビールは、僕の指先を濡らす。


 なんでこんな事しているのだろう。自分でもわからない。梅雨の明けない澱んだ空を見上げて、格好をつけて酒を飲む趣味は無い。


 僕は気分で動く性格では無いと思っている。自分では。


 それでも気分を変えようと、酒に手を伸ばしたのは、きっとそういう事なのだろう。


 僕は、僕の無意識を肯定することにした。


「……………………………」


 昨日の事は正直、覚えていない。でも、あの時の記憶は、美彩に合った瞬間から、あの話の内容、自宅のベッドで意識が途切れるまでは、鮮明に覚えている。


 思い出すと吐き気がする。


 苦い炭酸水を飲んで、無理やり腹に戻す。喉元過ぎれば熱さを忘れる筈なのに、覚えているのは多分、まだ喉元を過ぎていないからだろう。


 手を差し出す事が、必ずしも正解とは限らない。救いを求めていない場合もある。力を貸す事が首を絞める事もある。


 僕は一体、彼女に何が出来るのだろう。

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