第33話 飲む

「………バイトみたいに、時間経過だけで終わる課題が、あればいいのにな………」


 あくびを噛み殺し、死んだ魚の目をさらに腐らせながら、大学の廊下を歩く。


 ここはC棟の二階。講義室やゼミ室、研究室が主にある棟で、下の階は何やらごちゃごちゃとあるが、詳しくは知らない。


 僕はこれから授業があるわけでもないし、課題提出は先ほど終わらせた。ではなぜ出口と反対方向へ足を進めているかと言うと。


「………返すの面倒くさいけど、資料探す方が面倒くさいもんな」


 図書館より確実で的確なんすよね、教授の本は。


 僕の受けている(半強制的に受けさせられている)その授業は研修のくせに、課題をバンバン出す先生が担当しているので、毎度毎度レポートが出されては調べて写して感想どーんみたいな、そんな課題ばかりこなしている。最近では単位がつくか不安になるほど雑になっているが、まぁあれだけ次々と出されたら、雑にならない方が不思議だ。


 その先生が課題を出すたびに図書館に直行する生徒が存在するため、御目当ての資料が無かったり、ひどい時はピックアップされていたオススメ本がまるまる消えていた時もあった。


 そんな時に、よくお世話になっているのが僕のゼミ担当の古清水こしみず教授。


 あの先生と同じ分野で、似た本をいくつもあるから、よく借りに来るのだ。検索サイトのように「人種差別」とかのワードを先生に言うと、関連の本を次々と出してくれる。あまりに頼り甲斐があるせいで一部では「ドラ○もん先生」なんてあだ名が付くほど。教授、たまに青白い顔してるけど、細いから違う気もするが。


 課題が終わったので、僕は教授に借りた本を返す為に、ドアをノックしようとして、


「…………ねぇ………先生……………………?」


 部屋の中から話し声が聞こえた。


 今更だが教授は男性で、高年齢でありながら年齢を感じさせない若々しさを持つ、おじいちゃん先生だが、中から聞こえてきたのは明らかに違う、若い女性の声。


「………今度の試験、合格にしてもらえませんか………?そしたら私、なんでもしますよ……?」

「………………………なんでも………?」

「えぇ………なんでも…………」


『カチャカチャ』と、まるでベルトを外したような音と、『しゅるり』と、布と布が擦り落ちた音がした。


 空気を読まず「ちわーっす」と、ズカズカ入り込む状況でない事は一瞬で把握したが、かと言って本を返さないわけにはいかない。そこら辺で時間を潰すべきかな。あまり聞き耳を立てるべきじゃないだろうし。


「本当になんでも?」

「本当に、なんでもしますよ………」


 ギシッと椅子が軋む音が聞こえる。もういい加減離れた方が良さそうだ。


 僕は来た道を引き返そうとして、


「じゃあ………して貰いましょうか……………。……」


「ブッ……………!!」


 笑っちまった。


 声は耐えたのに、息までは耐えられなかった。口を完全に閉じても、鼻から空気が抜けて、鼻をかんだような音が廊下に響き渡る。


 その音は扉を貫通して中の人にも聞こえたらしく、中の物音がパタリと消えた。


「………………………………………………失礼しました………………………」


 細々と聞こえたのは女性の声。


 ドアノブを捻ってドアが開く頃には、僕は近場のトイレへ逃げ込み、事なきを得るまで息を潜めた。


 トイレの出入り口からチラッと覗いて、例の研究室から出て来たのは、僕と同い年ぐらいの女子大生。顔を真っ赤にして階段を降りて行く。


「…………………………………」


 全員被害者で加害者。いや、教授だけは違うか。


 周りに誰もいない事を確認し、嫌でも中の音が聞こえてしまう薄い扉の前に立ち、妙な緊張感を拳に込めて、『コンコン』とノックをする。


 教授の「どうぞ」を聞いてから、「失礼します」と言ってドアノブを捻る。もう十分失礼した上に、さらに失礼するのか。


「盗み聞きとはいただけないですね。並河くん」

「盗み聞きたくて聞いたわけじゃないですよ。これ返しに来ただけです」

「そんな事だと思いましたよ」


 まるで何事も無かったように、先生はコーヒーを煽って、パソコンのマウスをクリックする。


 年配の先生はパソコンの操作が上手くいかず、自分たちが慣れてる手書きを好む中、教授は老眼鏡を用途によって切り替えながら、明朝体のワードファイルを読んでくれる。そこも生徒から親しまれるポイントだろう。


「さっきの人って誰ですか?」

「それ聞きます?」

「いや興味ないですけど」

「相変わらずマイペースですね、貴方は」


 僕の周りにはもっと個性豊かで、マイペースな方々がいらっしゃいますので、その方々に比べたらまだまだですよ。恐縮、恐ろしくて縮むね。


「私のゼミ生徒で、貴方と同じ授業を受けている生徒です。面識ありませんか?」

「ないっすね」

「そうでしたか。結構人気者みたいですよ」

「みたいですね」


 自分のスタイルに自信が無ければ、色仕掛けなんてしないし、ネイルも吸血鬼みたいに長くはしない。


 ああいうイケイケ女子が好みの人も居るらしいから一概に否定しないけど、僕個人としてはあまり関わりたく無い部類の人間だ。何されるかわかったものじゃ無い。


「あぁ、そうだ。時に並河くんは成人していますか?」

「大学3年生なら全員成人していると思いますけど」

「それもそうでしたね」


 「失敬失敬」と呟く先生。失敬なんて久しぶりに聞いた。最近の人は使わないからな。


「なんでそんな事を?」

「いやいや、大した話ではないのですが。先週大学の近くに、新しい居酒屋がオープンしましたでしょ?恐らくここの大学生が狙いのメイン層とは思いますが、私も興味がありまして」


 このクシャっとした笑みが非常に好印象で、無害で、優しそうで、一部の生徒から舐められてる原因なわけだが。


「今日は週末ですし、天気も良かったので歩きで来まして、お伺いするなら今日かと思い。……もし入店されてましたら、オススメをお聞きしたいと思いましてね」

「……なるほど」


 てっきり晩酌に付き合わされるのかと思ったが、違うらしい。


 だが生憎、僕もその店は入った事がなく、そもそも初耳だ。


「あんまり僕居酒屋行かないんですよね……店が出来たのも知りませんでしたし」


 居酒屋のバイトは大変ぞ。経験者は語ると言うやつだ。


「そうだったのですか。それは申し訳ない事をしましたね」

「いえいえ。普段あまりお酒飲まないですけど、機会があれば行ってみます」

「じゃあ今度の授業でオススメできるよう、私も飲み過ぎないようにしないとね」


 嬉しそうにパソコンを見つめ直す古清水教授。察するに、生徒の課題レポートの採点中か。似たようなバイトをしたことがあるから、その苦しさがよくわかる。


「では、僕はこれで……失礼しました」

「うん。お疲れ様」


 一旦手を止めて、僕の方を向いて挨拶する。本当に出来た人だ。


 尊敬し、嫉妬する。


 妙な感情を抱く前にドアノブを捻り、扉の外へ立つ。そのまま来た道を折り返し、階段を下る。


「酒なぁ………」


 飲めない体質ではないし、弱くはない。かと言って強い訳ではない。飲めなくは無いと言った感じだ。


 成人して1年も経つけれど、自分の限界というのがいまいち掴めない。それもそうだ、一人暮らしだから家族とは飲まないし、友人とベロベロになるまで飲むような、そんな恥ずかしい真似はしない。


 信頼出来る人。酔い潰れても、自分の本性を出しても、恥ずかしいと思わない人。


「…………………………まさかね………」


 無意識のうちに出そうになった言葉を、場所を、人を、何とか飲み込んで、誤魔化し建物を出る。


 外はまだ明るい。


 この歳になって限界を知らないのは、いささかリスキーではある。帰りのスーパーで、手頃なお酒をいくつか買ってみようか。


 居酒屋でバイトをしていた時の先輩が、何かの拍子につぶやいた「酒は理性を外してるだけだ。酒を飲んで豹変するんじゃなくて、それが本心なんだよ」という言葉。当時の僕は特に響かない言葉ではあったけど。


 酔った僕はどんな人間だろうか。


 真っ暗になったスマートフォンに反射する僕の顔は、何とも言い難い顔をしていた。

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