第13話 跡

「僕はさ、いわば暴力を振る毒親から生まれてきたんだよ。両親ともね」


 そんなことをあっさり言うものだから、想像なんて出来ずに、頭が追いつかない。いや、そもそも考えたくない。


 よく見ると、シャツの裾をまくる手にも、指の一本一本にも、包丁の怪我とは違う傷跡がある。


「厳密に言えば母親の方は暴力を振るうタイプじゃなかったらしいけど、悪酔いするタイプでね。よく酒瓶で殴られたんだ」


 ヘラヘラと、


「でも父親はパチンコで負けたとか、タバコが切れたとか、理由があるならまだしもさ」


 親が子供を殴っていい理由なんて、一つもないはずなのに、


「ただ何となくで、よく殴る親でさ」


 あまりに淡々とリズミカルに、語り慣れた落語のように語るから、


「殴られたり蹴られたりしている僕を、母は黙って見てるだけ。そりゃあまぁ、止めたら自分が殴られるもんね」


 僕は息を吸うことすら忘れて、


「結局は父は酒の飲み過ぎとタバコで、肺炎とガン。内臓も歯も脳みそも、全部腐って死んじゃって、母は精神を病んで、後を追うように自殺」


 息を吐くことすら忘れて、


「残った僕は親戚に引き取られて、今は自由に生きています」


 安堵したように笑う彼女のその笑顔に、僕は妙な恐ろしさ、悍ましさを感じて、訳の分からない吐き気がした。


「ご清聴ありがとうございました。何か質問はあるかい?」


 語り終えた針ケ谷は、あまりに無表情で、いや、少し笑っていて、笑顔で、に対する感情が読み取れず、僕は何も言えなくなる。


 確かに、聞きたいことは山ほどあるけれど、でも、その質問一つ一つが、彼女の過去を、痣を作った過去を、ほじくり返す行為だから、簡単に、おいそれとはできない。


「あぁ、補足だけど10歳の7月に僕は親戚に引き取られたんだ。流石に赤ん坊の記憶はないから勘弁してね」


 勘弁も何も、それはつまり、十年間にわたって虐待を受けたって事じゃないか。そんな人に、質問なんてできない。


 むしろ針ケ谷が今、笑っている事が凄かった。


 僕は考えただけでも吐き気がしたってのに、笑い話のように流せるのは、正気を疑うほどだった。


 いや、違う。


 多分、


 笑いたいのだ。


 今までの人生を、虐待で奪われた10年を。


 笑えなかった人生の分だけ、これからの人生で笑おうとしている。取り返そうとしてる。


 目を背けずに、乗り越えようとしている。


 自分より年下の少女に、僕じゃあ耐えられない、想像を絶する人生を歩んだ彼女に、共感することすら失礼に値する彼女に、許されるなら、僕は一つだけ質問したい。


「…………どうして、その痣を僕に見せたの?」


 最初に痣を見せられた時、驚愕した後に僕は「不幸自慢」だと思った。聞き終えた今じゃ、見当違いも甚だしいが。


 わからないし想像できない。だから、質問する。そんな苦しい過去を語る理由を。


「…………虐待談にはノータッチか。ほんとうに優しい人だな君は」


 そうかそうですか、と針ヶ谷はうなずいて、


「そうだね。一つは、『さっさと白状した方が、変な誤解を招かずに済むから』かな」

「……………誤解?」

「そう、誤解。………僕のは目に見えてわかるモノだから、僕の気づかないところでバレて、腫れ物扱いされるなら、自分の口から言った方が楽だからね」


 腫れ物扱い。


 腫れ物に触るように。


「もう一つは、お兄さんが呼ばれた理由が知りたい。………とは言っても、無いに越した事はないし、言いたくないなら強要はしないけど………」

「…………………それは一体……?」

「……………心当たりが無いならいいよ。あったら話してくれればとは思うけど」


 呼ばれた理由?


 それは僕にも腫れ物があると言うことか。


「あとは、そうだね…………『幻滅して欲しい』からかな」

「…………………?」

「僕を勝手に普通の女子中学生だと思ったはずだけど、思ってくれたと思うけど、それは間違いでさ、現実をはっきりと見て欲しい。ちゃんと知ってほしいんだ」

「…………痣を……?」

「それ以外も、だよ。…………ネタバレしちゃうとさ、僕だけじゃない。たしかに虐待談は僕だけ、だけど、みんなそれぞれ面白い話を持っているんだよ」

「…………………………」


 何も言えなかった。


 何も言えるはずなかった。


 だって、それが本当だとしたら、さ。


「…………………………」


 やめろ。やめよう。もう考えるな。


 幻滅が目的なら、悪い想像も、一つの幻だろう。ならしない方がいい。妙な期待も、半端な同情も、持って欲しくないと言ってるのだから。


 だから、期待も同情でもない、僕の感想を絞り出して、ポツンと呟いた。


「………………面白いとは思えないし、笑えるような話でもないと思う。…………針ヶ谷のは、少なくとも………」


 笑い話には、出来ない。本人ですらない僕には。


 ぐちゃぐちゃの頭を何とか整理して、何枚ものフィルターを通してから、言葉にする。


「……………僕は、針ケ谷の事を何も知らないし、これが傷付ける発言になるのかも知れないけど……」


 くだらない保険をかけてから、


「……………笑い物にする気も、笑い物にさせる気もないから………それが話を聞いて、思った事……かな………」


 苦し紛れのこの答えが、針ヶ谷には予想外だったらしく、目を開き驚くと、面白そうに微笑んだ。


「…………なるほど。君はそういうタイプか」

「…………?」

「お兄さんが僕を知らないのは当然の事だよ」


 知ってたら怖いよ、とクスクス笑って、


「長い付き合いになると思うから、ゆっくり知っていって欲しい。関わり方は、初期の方に正しておくべきだと、僕は思っているからね」


 そう言った針ケ谷の顔に、一瞬影が落ちた気がした。


「ただ、引き返すなら今、って言う事は知っといてね」

「……………………引き返すつもりは無いよ。僕はそこまで薄情じゃない……」


 カッコつけてる訳じゃないけど、僕は強く言い切った。


 脅されてる手前、勝手に抜けられないというのも確かだが、僕としては、ここで引き返すのは、彼女の勇気と信頼を踏み躙る行為だと、捉えたからだ。


 彼女の意思を尊重したい。それもカッコつけかも知れないけど。


「よし、………気に入った」


 マフラーで見えないけど、笑っている。声色と目の形で何となくわかった。


「そうだな。では特別に、僕の素顔を見せようじゃないか。どの道このあとの夕飯で、見られちゃうけど」


 そう言って針谷はマフラーに指を引っ掛けて、シュルシュルっと解く。


 ふわりと宙に舞うマフラーは、軽い布でできているのか、羽毛のようにひらりひらりと床に落ちて、日光を反射して長く艶やかな銀髪が輝く。


 その光景は幻想的かつ神秘的だった。


 そして針ヶ谷の素顔は、女子中学生にしては少し大人びた、しかし相当可愛らしい女の子の顔をしていた。可愛いと綺麗の中間みたいな、そんな顔。


 マフラーで隠していた頬や首にも痣はあるけれど、それを帳消しにできるほど、可愛らしいく美しい。


 ビー玉の様に大きく深い藍色の瞳が、幼さを強調しているが、顔全体のバランスが良く、透き通るような白い頬、小さな口と小さな鼻。


 彼女の素顔は、痣があってもなくても、誰がみても美少女である事に変わりはない。


 そんな針ヶ谷は、僕にそっと手を差し伸べる。


「じゃあ、改めてよろしくな。お兄さん」


 寂しげな笑顔を見つめて、僕は思った。


 いつかミンチにされるであろう。夕飯の挽き肉は僕かも知れない。

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