第13話

 誰もいなくなった部屋に残り、一人でパソコンを叩く。

 外を見ると真っ暗で、どこか物寂しさを感じるところはある。

 けれども、この静けさは逆に物事に集中することができることもあって、嫌いではない。

 夕方のうちに憲太がもらってきた原稿は、誤字脱字などの最終チェックの最中だったようだ。原稿が仕上がれば、それをデザイナーさんに送る。明日の朝までに確認してもらい、送り返されたデータを朝一番で編集長に最終チェックをしてもらい次第、入稿予定だ。

 徐々にページが出来上がっていくのは、達成感があってとても楽しい。

 けれども、それは順調に進んでいてこそだ。

 突如、画面がぴくりとも動かなくなった。


「えっ? うそ! もしかしてフリーズした!?」


 マウスをカチカチとクリックするけれども、画面はうんともすんとも動かない。


「ちょっと! ほぼ完成してたのに、冗談はやめてよね。明日の朝一で入稿なのに!」


 さっと顔から血の気が引いていく。

 このまま動かない状態で右往左往していても仕方ない。

 再起動した方がいいのか悩むところだ。でも、データが消えてしまったらここまでの苦労が水の泡になる。


(ああもう! どうしたらいいの?)


 食い入るように画面を見つめていると、突然、背後から声がかかった。


「葛葉ちゃん。まだ残ってたの?」


 振り向くとそこには、鞄と書類を手にした蔵王が目を丸くして立っていた。


「ざ、蔵王? ……蔵王こそ、こんな遅くまでどうしたの?」

「僕は忘れ物を取りに来ただけだけど、何かあった?」

「それは……」


 葛葉はパソコンと蔵王を見比べながら、わずかに言いよどんだ。


(蔵王はウェブデザイナーだし、私よりパソコンの扱いは慣れてるかもしれない)


 ただ、蔵王も仕事で疲れているだろうに、迷惑をかけるのも申し訳ない。

 けれども、時計を見るとすでに九時を過ぎている。


(一から作り直してたんじゃ、朝に間に合わないかもしれない)


 四の五の考えている場合ではない。

 葛葉は蔵王を見上げて口を開いた。


「編集作業が完了間近だったんだけど、パソコンがフリーズしちゃったのよ。データが飛んでしまわないか怖くて、おちおち再起動も出来なくて」

「どれ?」


 蔵王はさっと手をこちらに伸ばしてきた。

 葛葉の肩越しに画面を見ながらキーボードを操作する蔵王の髪が揺れる。ふわりと爽やかなシャンプーの香りが、葛葉の鼻腔をくすぐった。


(顔、近いんですけど!)


 妙に気恥ずかしくて、葛葉はわずかに蔵王から顔をそらして画面を見つめた。

けれども変な胸の高鳴りはなぜか収まらない。


(何だろう。変に緊張してきちゃった)


 落ち着かない気持ちで、やや挙動不審になっていると、突然、お腹の虫がきゅうと鳴いた。


(ひいいい! なんて時になってくれるのよ!)


 葛葉は口元をひきつらせて蔵王をちらりと見る。すると、案の定、蔵王は手を止めて葛葉を見ていた。


「ご飯、食べてないの?」

「う、うん。ちょっと仕事に熱中してたから」

「何か軽く食べられるものとかは?」

「ええっと、今のところ切らしてて、何もないのよね」


 なんてことを、あらぬところを見ながら答えた。


(嘘よ。嘘だなんてこと、自分が一番知ってる。でも……)


 きょろきょろと近くを見渡した蔵王を、そろりと目で追う。

 そして、ぴたりと止まったところを見て、葛葉は内心で天を仰いだ。

 蔵王が見ているのは、香織がお詫びとして置いて行ったおもたせだ。

『虎月堂』と書かれたパッケージを見て、蔵王は何を思っているのだろうか。

 ドキドキしながら蔵王を見上げた。


「何もない……ね。それじゃ、さっさと作業を終わらせてしまおうか」


 パッケージから目をそらした蔵王の表情からは、何も読み取ることは出来なかった。


 しばらくすると、パソコンは正常に動き始めた。

 蔵王がしばらく作業を進めると、やがてパソコンは正常に動き始めた。


「はい、これで多分大丈夫だと思うよ。念のためにデータチェックして」


 蔵王に促されて、パソコンを操作する。

 すると、先程まで作っていたデータはまったく破損なく再現されていた。

 ほっと胸を撫で下ろし、蔵王を見ると葛葉は微笑んだ。


「助かったわ。ありがとう。お昼のことといい、また何かお礼させてもらうわ」

「別にそんなのいいのに」


 蔵王はそう言って苦笑する。

 けれども、葛葉はそれに対して首を横に振った。


「前も来店アポの件でお世話になっちゃったし、これ以上あなたに借りを作ったら、何を要求されるかわからないもの」


 ふっと口角を上げて笑うと、蔵王は「随分信用がないね」と困ったように笑った。

 それでもころりと表情を変えて、身を乗り出してきた。


「それなら、この後、時間ある?」

「まあ、こんな時間まで残業してるぐらいだし、特に予定はないけど」


 蔵王から視線をそらし、作業を進めながら答える。すると――


「だったら、夕飯でも一緒にどう?」

「えっ?」


 思わず蔵王の方を見ると、不意打ち的にとろりと甘い眼差しを向けられ、葛葉は一瞬硬直した。


「ああ、別に他意はないよ。京都に帰れって説得するつもりもないし」


 葛葉の内心を察したのか、あはは、と蔵王が朗らかに笑う。


「ただ、お腹も空いてるだろうし、息抜きに一杯どうかなって思ってね。仕事の取引相手の人と夕飯一緒に食べることって、そんなに珍しいことでもないでしょ?」

「そ、そうね」


(言われてみれば確かに、おかしなことじゃないわよね)


 また意識し過ぎてしまうところだった、と反省する。


「それならむしろ、お礼に奢らせてもらうわよ。もう少しでひと段落するから、待っててもらわないとだめだけど」


 何とか持ち直して、こほんと咳払いをする。


「それはありがたいね。僕も少し作業して時間潰すから、待つのは問題ないよ。どこかおすすめの店とかある? 気楽な感じの店でいいんだけど」

「それなら、錦糸町の駅前にある居酒屋はどう? 広くはないけど食事が美味しくて、よく友達と飲みに行くのよ」

「いいね。是非お願いするよ」


 弾んだ声でそう言った蔵王の表情は、どことなくいつもより嬉しそうに見えた。

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