第12話
午後五時半を過ぎると、退社していく人がちらほら見え始める。
それと逆流するように、憲太が外から駆け込んできた。
「ひゃー、まいったまいった。いきなり雨降ってくるなんて、聞いてないっすよ」
「おかえりなさい。秋雨前線真っ盛りだものね。随分びしょ濡れだけど大丈夫?」
「体力だけが取り柄なんで、平気っす」
憲太は持っているハンカチで体をぬぐっているが、そのハンカチもすでに濡れそぼっている。
手持ちのタオルハンカチを渡してやると、憲太は目を輝かせた。
「あ。茨木先生から原稿もらってきました。あの人今の時代でもまだ手書きなんすね。これを今から打ち込みかあ」
支障のない程度に体の水気を取った憲太は鞄を開くと、中から原稿用紙の束を取り出した。
これこそが本日待ちに待っていたメインディッシュだ。
忙しくなるのは大変だが、それ以上にライターの原稿を誰よりも早く読めるというのは編集としての醍醐味だ。
憲太も編集者の例に漏れず、大変だと言いながらもその目は活気に満ちている。
それもそのはずだ。憲太の担当しているライターは、業界屈指の大御所ライターなのだ。
その重厚で深みのある文章を読むだけでも、眼福というものだ。
とはいえ、手書きにこだわるし、連絡も電話ではなくメールのみ。直接家まで取りに来ることも頑なに拒否するという、癖のある作家でもあるわけだが。
「売れっ子の大御所さんだし、知識がとんでもなく豊富な方だもの。書いてもらえるだけありがたいと思わなきゃ」
「確かに。茨木先生の書く文章はいつも奥深さがあって、知見が広がるって人気ですしね」
「読者さんからもいい反響もらえてるし。私たちはその期待に応えて行かないとね」
「うっす」と腕まくりをして、憲太は席についた。
すると、続けて「いやあ、降ったねー」と言いながら香織が帰ってきた。
デスクに来るなり隣の席の憲太を見て、「げっ」と顔をひきつらせた。
「うわ。小西、びちょびちょじゃん」
「夕立にやられたっす。そういう先輩は綺麗なもんですね」
「当然。乙女の嗜みで、常日頃から、ちゃんと折り畳み傘は持ち歩いてるのよ」
その弁の通り、香織の衣服はどこも濡れていない。
(身だしなみに人一倍気を付けてる香織らしいわね)
特に今日は次号のために、京都で取材先との打ち合わせだったはずだ。念入りに準備したに違いない。
「おかえりなさい。アポの時間には間に合った?」
「ああ、うん。今日はごめんね。慌ただしくて。何とかこっちはぎりぎりだったけど間に合った」
「それでなんだけど」と香織は言葉を区切り、突然、葛葉に手を合わせた。
「ごめん! 私、ちょっと今日この後どうしても外せない用事があって、そろそろ帰らないと駄目なの」
「外せない用事?」
葛葉がきょとんとすると、香織は顔を寄せてきた。
「ここだけの話、ちょっと前から婚活してたんだけど、いい感じに進んでる人がいるのよ。今断ったら、また一からやり直しになっちゃうのよ」
ひそひそ声でそんなことを訴えかけてくる香織に、葛葉はわずかに眉を寄せた。
「それはわかるけど、でも、原稿はどうするの。入稿は伸ばしてもらえたけど、明日の朝一なのよ?」
「だから、一生分のお願いなのよ。明日の朝一には来るようにするから。とりあえず、私の分の写真のピックアップは終わってるから、あとは小西に任せてもらっていいし。でも、ちょっとわからないことがあったら教えてやって欲しいのよ。それぐらいだから。ね? ね?」
葛葉は一つため息をついた。
(随分とめかしこんでると思ったら、こっちが本当の理由か)
仕事もすればプライベートもある。おしゃれをする理由は人それぞれだ。
(まあ、みんな人生色々あるしね)
大事なものや譲れないものは、十人いれば十通りある。それを否定するつもりはない。
同僚が困っているなら助け合うのもまたチームだ。
「仕方ないわね。いいわよ」
「本当に!? ありがとう!」
香織は飛び上がって喜ぶと、手にした紙袋を突き出してきた。
「お詫びと言っちゃなんだけど、京都土産。よかったら食べて」
香織としては善意のつもりだったのだろう。
だけど、葛葉はそれを見た瞬間、内心で呻いた。
何しろ、その紙袋の中央には『虎月堂』と銘打たれていたのだから。
夜の八時を過ぎ、社員は軒並み退社していった。
そのため、今付近にいるのは葛葉と憲太の二人きりだ。
とはいえ、その憲太も数十分前から席を外している。
(小西君、大丈夫かしら? なんだか、顔色が良くない気がするけど)
なにしろ傘も持たずに、秋の冷え込みの中を歩いていたのだ。体調を崩した可能性もある。
ちらりと扉の付近を見やると、ちょうど憲太がお腹をさすりながら帰ってくるところだった。
「大丈夫?」
「あー、はい、大丈夫っす」
憲太はへらりと笑った。けれども、その表情には明らかに覇気がない。
それを見て葛葉は眉をひそめた。
「ごめんなさい。私の質問が悪かったわ。顔色が悪いし、目の周りも何となく赤いわよ? もしかして熱が出てるんじゃないの?」
葛葉は席についた憲太の額に手を当てた。
「と、虎月先輩!?」
憲太は驚いたように目を見開いた。
けれども葛葉はそんな彼の表情はお構いなしに、憲太の額の熱さに顔をしかめた。
「やっぱり熱い。今日はもう帰りなさい。これは先輩命令よ」
「い、いや、でも、これはもともと俺の仕事っすから。まだ残ってるのに帰れませんよ!」
心なしか憲太の声が上ずっている。
(やっぱり体調が悪いのね)
確かに憲太のミスで残業になっているのは事実だ。けれども、体調不良の後輩に無理をさせるわけにはいかない。
「仕事熱心なのはいいけれども、身体を壊しちゃったら元も子もないわよ。後は私がやっておくから」
「すみません。俺の仕事なのに……」
「いいのよ。今日はもう、さっさと帰って休みなさい」
葛葉はふわりと笑って憲太の肩を軽く叩いた。
憲太は申し訳なさそうにくしゃりと顔を歪めた。けれども、やはり体力が限界だったのだろう。荷物をまとめると、ふらふらとした足取りで会社を後にした。
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