第7話

 何とか無心になるよう努めているうちに、気が付けば時計は十二時を指していた。

 そろそろ昼食の時間だが、社内で食事をとる必要はもちろんない。葛葉の部署では、比較的外出する人が多い。

 ちらほらと人が外に出かけていく中で、編集長の利佳子がやってきた。


「みんな。ちょっといいかしら?」


 デスクから立ち上がろうとしていた香織や健太がそちらを振り向いた。

 葛葉もまたパソコンから目を離すと、利佳子を見上げた。


「先週から休みを取ってた岡田さんだけど、介護休暇を取得されることになりました」

「ええ、本当ですか?」

「結構前にお母さんが認知症になったかもって聞いてましたけど、大変そうっすね」

「本人から了承を取ってるから伝えるけど、その認知症が進んでるみたいで、すぐにどこかに徘徊しちゃうから、今ちょっと目が離せないそうよ。そんなわけで、ちょっと長期のお休みになるから、みんなにも協力してもらえたらと思います」

「「ええー」」


 香織と憲太が一斉に声を上げた。


「編集長。俺、今の仕事で結構手一杯っす」

「私もすでに結構アポが埋まってて、短期ならまだしも、長期ってなると、これ以上ちょっと時間割けないっていうか。誰か助っ人とか無理なんですか?」

「他の部署も手いっぱいだしね。無理を言っているのはわかってるけど、困ったときはお互い様じゃない。虎月さんはどう?」

「え? 私ですか」


 葛葉は、一瞬口籠った。すると、利佳子はわずかに宙を見て唸った。


「あー。でも、虎月さんには今回、大きめの特集担当もお願いしてるからなあ」


 とはいえ、振り先もこれ以上はないのだろう。ちらりちらりと嘆願するように葛葉を見てくる。


(どうしよう……)


 一人分の仕事を請け負うとなると、正直なところきついのが本音だ。


(でも、香織も小西君もダメなら、他にできる人いないし)


 できるというわけではないが、やれる人がやるしかないのも事実だろう。


「調整すれば開けられるかもしれません」


 何とか笑顔を作ってそう答えた。


「本当に? 助かるわ! 虎月さんならいつも完璧に仕上げてくれるし、任せても大丈夫ね。私も協力するから、ちょっと岡田さんから引き継ぎ受けてくれるかしら?」


 心底助かったと言わんばかりの利佳子の顔を見て、もう断ることは出来なかった。


「わかりました。何とか対応してみます」


 微笑んで返すと、利佳子は連絡を取るべく、さっそく自らのデスクに帰っていった。

 利佳子が去っていくと、香織と憲太が走り寄ってきて、葛葉を拝み始めた。


「葛葉、マジで神」

「虎月先輩、流石です。女神様です」


 そんな二人に、葛葉は困ったような目を向けた。


「もう。調子いいんだから。私だって余裕があるわけじゃないのよ?」

「いや、でも、余裕が無くてもやろうと思えるのが、そもそもすごいわ」

「虎月先輩、仕事の効率いいですもんね。やっぱり頭のいい人は違うっすね」


 真顔で言う香織に同意するように、憲太も頷いた。


「そんなこともないんだけどね」


 目を伏せてぽつりと呟いた声は、二人には聞こえなかったようだ。

 今日の午前中にデザイナー、カメラマン、ライターとの打ち合わせが終わり、午後からは取材の日程調整を始めていこうと思った矢先にこの話だ。頭の中のスケジュールを少し組みなおそうとすると、徐々に余裕がなくなってきているのがわかる。


「それはそうと、お昼どうする?」


 頭の中のスケジュール帳と格闘していると、香織が声をかけてきた。

 お腹は空いているし、気分転換に外に出たい気持ちはある。

 けれども、やる事を残して出かけるのも、なんとなく気持ちが落ち着かない。


「うーん。結構やる事あるし、今日はここにするわ」

「そう? じゃあ、行ってくるわね」


 香織を笑顔で送り出していると、葛葉の周囲は気が付けば閑散としていた。

 けれど、静かなこの環境こそ、仕事しやすくもある。


(今のうちに岡田さんから引継ぎをしておこう。ああ、でもその前にこの間取材許可を取ったお店にも連絡しなきゃ)


 電話に手を伸ばそうとした葛葉に、馴染みのある声がかかってきた。


「葛葉ちゃん、お昼一緒に食べようよ」


 蔵王だ。

 ちらりと見遣ると、その表情は明るい笑顔だ。


(朝にあれだけ無視されて、どうして平然と来るのよ)


 葛葉は引きつりそうになる口元を何とか抑えながら、にこりと笑顔を張り付けた。


「私はもう少し仕事してからお昼休憩とりますので、お気になさらないでください」

「そうなの? じゃあ、待ってようかな」


 蔵王はちゃっかり近くの椅子に腰かけて、スマホを取り出そうとしている。


(いや、断ってるんですけど! ……って、だめだめ。平常心)


 すうっと息を吸い込んで、にこりと微笑んだ。


「郁島さん。職場で私との関係は他言無用と、昨日約束しましたよね?」


 昨日のあの場は、とりあえず他人のふりをしてその場をやり過ごし、後で二人きりになる機会を見計らって忠告した。

 実家の七光りと思われることを避け、職場に虎月堂の縁者であることを伝えていない以上、京都へ帰る話はタブーにも近い。

 それなのに、こんなにも正面からアプローチをかけてくるなど、約束を反故にしているようなものだ。

 けれども、当の蔵王はきょとんとしたように小首を傾げている。


「もちろん。葛葉ちゃんのプライベートに関わるようなことを、人に言うつもりはないよ」

「それであれば、放っておいてくれませんか? あなたがどういう形で来ようとも、私は京都に帰るつもりはありません」


 ぴしゃりと跳ねのけたつもりだったが、蔵王は相変わらず飄々とした態度を崩さない。


「それはそれ、これはこれ。今は仕事仲間として親睦を深めることができたら嬉しいなあと思って、誘ってるんだけどね」

「そういうことであれば、お断りさせていただきます。私、こう見えて忙しいので」

「だよね。葛葉ちゃん、随分と頼られてるみたいだし」


 どうやら、先ほどの利佳子らとのやり取りを遠目で見ていたらしい。

 葛葉は言葉をぐっと詰まらせて、一瞬押し黙った。


「状況をわかっていただけているのであれば、もう構わないでもらえませんか?」


 事実、やる事は山積みだ。取材する店との日程調整、ホテルやチケットの手配、経費の計上、お礼状の作成。自分のものだけならまだしも、今度は他の人が請け負っていた仕事のサポート案件まで圧し掛かってきている。

 葛葉は前髪をくしゃりとかきあげ、蔵王を正面から見上げた。

 蔵王は葛葉をじっと見て、少し瞑目すると、いつもの軽い笑みを消した。


「ああ。確かに忙しそうだ。それで、忙しい君だけに仕事を押し付けた忙しいはずの同僚はどこに行ったんだろうね?」


 一瞬、言葉に詰まった。頭によぎらなかったわけではない。

 昼食を外で取る余裕があることを、羨ましく思わなかったわけではない。でも、


「嫌な言い方をしますね。彼女たちはちゃんと自分の仕事をしています。休みを取ることはその人の権利です。私は私の請け負った仕事をしているだけですから」


 はっきりと、蔵王の目を見てそう答えた。

 すると、蔵王は時折見せる、少し困ったような微笑みで葛葉を見つめてきた。


「そうだね。さっき、君は状況がわかるかって聞いたね」


 葛葉は訝しげに目を細めて「ええ」と頷いた。


「わかるよ。みんなは周りの人は君なら当然できるだろうって期待してることも、困っている人の頼みを断れない優しい君が、その裏で人一倍頑張ってるだろうこともね」

「……」


 葛葉はきゅっと唇を噛んだ。


(どうして、今、あなたがそれを言うのよ)


 内心、わかってもらえて嬉しいと思ってしまった自分が悔しい。


(そういえば、蔵王は小さい頃からずっとそうだった)


 葛葉は別に特別な才覚があったわけでもなく、能力はいたって平凡だ。それでも、自分が頑張れば虎月堂のためになると、寝る間を削って必死になって勉強したり、練習してきた。

 だけど、虎月家の長女だから。雅世社長の孫だから。一流の先生の指導を受けているから。うまく出来て当然。多くの人にはそう思われていたようだ。

 一方で、テストで満点を取ったり、特別なものの代表に選ばれると、先生が贔屓をしたのだろうと陰口を叩かれたこともあった。

 その中で、蔵王だけは今みたいに葛葉の日々の努力を見守り、認め、励ましてくれていた。


(私は、蔵王のそういうところに、いつも癒されてた)


 でも、だからこそ、今こうして彼が祖母の手先としてここに居ることが残念でならない。

 思いを振り切るように、内心で首を横に振った。


「とにかく、私は今、次の下準備をしなくちゃいけないんです。やっとのことで取材を取り付けて、あとは今日のお昼までに日取りの連絡を入れることになってて……」


 そこまで言いかけて、ふと手帳のスケジュール表に目を落とし、はたと固まった。

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