第2章 幼なじみはとんだ食わせ者のようです

第6話

 それは、勇気を振り絞って告げた言葉だった。


『おばあさま。私、東京に行く』


 心臓は今までにないほどに大きな音を立てて鳴り、手足は凍り付くように固く強張っていた。返事を待つ時間は無限にも感じられ、周りの音は何も聞こえなかった。

 けれど、ゆっくりと振り返った祖母の目はとても冷たいものだった。


『そんなん、許すわけないやろ。あんたは見合いをするんや』

『せやけど、東京の大学にかて合格したんよ。ほら見て。これが合格通知で……』

『相手さんが欲しがったはるのは、学歴やない。教養ある虎月堂の娘や。余計なことをしようとするんやない!』


 葛葉は頭にカッと血が上るのを感じた。


『何それ。私の人生なんやし、私に決めさせてよ!』

『あんたは一人の人間である前に、虎月の人間や。うちかて、そうやって生きて来たんや』

『おばあさまと私を一緒にせんといて!』


 絞り出すように叫んだ。

 大学を受けようとした理由や自分の夢、自分なりに考えてきたことを祖母に告げた。

 でも、祖母の堅い表情は、厳めしさを増すばかりだった。


『何言うたかて無駄や。しばらくの間、頭冷やし』


 祖母は振り向くことなく、部屋を出ていった。

 すぐさま追いかけて、扉を叩いた。だけど、どんなに叩いても、押しても引いても、扉はびくともしない。


『おばあさま! 開けて! 出して!』


 どんなに大きな声で祖母を呼んでも、反応はない。

 それならいっそ――


『家出したる!』


 本当は理解を得たかった。でも、こうなることを、全く予想していなかったわけではない。だから、ある程度の準備はすでに整っていた。動きやすい服に着替えて、詰め込めるだけ詰め込んだ大きなリュックを背負う。ベッドの下から靴を取り出し、窓の方を振り返る。

 ここは日本家屋の二階だ。屋根伝いに行けば、何とか出られるに違いない。

 危険であることは承知している。育ちの良いお嬢さんがやることではない、ということも、重々理解している。


『でも、私はあきらめへん』


 窓をガラッと開けて踏み出すその一歩が、新しい生活への第一歩となった――。




――朝、葛葉は自室の鏡の前でじっと自分の顔を見つめていた。


「ああ、もう。化粧ノリ最悪」


 昨日に続き、目にはくっきりとクマができ、肌も乾燥気味だ。

 何とか誤魔化すべく十分保湿をして、クマを隠すようにコンシーラーを塗る。

 それでも疲労感は隠し切れない。それもこれも、幼馴染の蔵王が突如として職場に現れたという、昨日の衝撃の出来事からくる睡眠不足のせいだ。


「しかも、やっと寝れたと思ったら、微妙な夢とか見ちゃったし」


 あれは京都の家を飛び出した、十年近く前の記憶だ。

 東京に来てしばらくの間は、何度か繰り返しこの夢を見た。でも、社会人になって忙しい日々を送るうちに、もう見なくなっていた――はずだったのに。

 それもこれも、ここ数日の実家からの突然のアプローチのせいに他ならない。

 思わず大きなため息が出てしまった。


(これから出社したら、また蔵王と鉢合わせするのね)


 考えるだけで気持ちが滅入ってくる。

 こんな再会の仕方でなければ、もっと幼馴染との旧交を温めることができたのかもしれない。でも、そんなはずもなく、これから四六時中、京都に帰ることを促されるかと思うとうんざりした。

 とはいえ、蔵王に会いたくないなんていう理由で、仕事をさぼるわけにもいかない。

 なかなか整わない肌の整備に仕方なくピリオドを打って、化粧道具を片付けた。

 ふと時計を見ると、出社時間が迫っている。慌ててかばんを引っ掴むと、部屋を後にした。

 エレベーターのボタンを押すと、十階に停まっていたエレベーターがゆっくりと下りてくる。三階に停まったところで扉が開き、葛葉はエレベーターに乗り込んだ。

 上から下りてきたのはたった一人。普段なら気にも留めない同じマンションの住人のはずだった。

だが、後ろで扉が閉まろうとしたその瞬間、葛葉は目を見開いた。


「えっ!?」


 目の前で目を丸くして壁に寄りかかっていたのは、睡眠不足の原因を作った張本人――蔵王だった。


(な。なんであなたが、ここにいるの!?)


 口をパクパクさせるばかりで、声すら出ない。表情を固まらせたまま回れ右で、後ろを向いた。

 思わず、開くボタンを連打したくなる。

 けれども、そんな暇もなく、エレベーターは降下を始めた。

 とはいえ所詮、葛葉の部屋は三階だ。一瞬にして一階に到達し、開くと同時に足早にエレベーターから飛び出した。


「待って。葛葉ちゃん!」


 蔵王が慌てたように追いかけてくる。

 けれども、聞こえぬふりをして、駆け去るように駅へと向かった。


 駅で人混みに紛れながらも走ったこともあって、普段より一台早い電車に滑り込んだ。

 蔵王の姿は見えないあたり、おそらく、後の電車になったのだろう。


(まさか、同じマンションに住んでるだなんて)


 葛葉は息を整えると、扉付近の壁に寄りかかり、大きなため息をついた。

 正直、ここまで徹底してくるとは思わなかった。

 けれども、雅世はやるときはやる。決めた時はがんとして譲らない人間だ。

 葛葉と接触できる機会をできるだけ増やそうと、あらかじめ計画されたものだったのだろう。


(マンションを引っ越す?)


 ふと、そんなことが頭をよぎる。でも、その考えはすぐに打ち消した。

 せっかく自分の城と定めて借りた場所なのだ。どうしてこんなことのために、葛葉が移動しなければならないのだ。

 おまけに、この仕事で忙しい中、転居をする時間の余裕なんてない。


(でも、それじゃあ、これから毎日蔵王と顔を合わせることになるかもしれないってこと?)


 考えるだけで頭が痛くなる。

 現実的な線としては、通勤時間をずらすということぐらいしか、対策が思い浮かばない。

 あまり朝は得意な方じゃないだけに、今から気持ちが憂鬱になってくる。

 生活圏が同じになってしまった以上、買い物一つにも気を遣わなければならない。


(……)


 徐々に眉間に皺が寄り、腹の底からふつふつと怒りが湧いてくる。


(ああもう! やってられない。なんで私がいちいち気を遣わなきゃならないのよ! おばあさまが何? 蔵王が何だっていうの?)


 葛葉は自分の力で、自分の生活を作って来たのだ。誰が来ようとも、邪魔をさせるつもりはない。どんなアプローチがあろうとも、平常心を保ってビジネスライクにお付き合いをすればいいだけだ。


(相手のペースに飲まれるべからず!)


 ぐっと固めた決意を胸に、葛葉は飯田橋で電車を降りた。



――そのはずだったのだが。


「郁島さん、おはようございます! 今日のスーツもお洒落ですね!」

「おはよう。褒めてくれてどうもありがとう」


 飛び込んでくる声に、ぴくりと耳が反応してしまう。

 編集部の入り口付近で女性社員と談笑しているのは、葛葉の一本後の電車で出勤してきた蔵王だ。


(だめ。平常心よ。平常心!)


 いちいち気にしていては、仕事に集中できなくなってしまう。

 とはいえ、沸き立つ苛立ちを打ち消すのは思ったよりも至難の業だ。


(とりあえず、大きく息を吸って……深呼吸!)


 深呼吸のつもりが、実際に口から出たものは「はあああ」という大きなため息だった。


「虎月先輩、大丈夫っすか? 朝からため息なんかついて」


 向かい側のデスクに座る憲太から声をかけられ、慌てて笑顔を作る。


「あ、ああ、別になんでもないのよ。ちょっと、ほら。今回の取材はなかなか大変そうだから、気合を入れなくちゃなって思って」

「なるほど、そういうことだったんすね。でも、確かにそうっすね。先輩の担当してる『なかなか予約がとれない隠れた名店』特集って、店探しが大変そうっすよね」

「そうそう。まだ他誌に載っていない未開の店を何とか見つけても、取材拒否だったりね」

「あ、でも、今回は虎月先輩、取材拒否の店に許可取り付けたんすよね?」


 尊敬の眼差しを向けて来る憲太に、葛葉はふっと微笑を浮かべた。


「まあね」

「さすがは虎月先輩! 交渉上手! 難しい交渉は虎月先輩に任せろって、皆言ってますよ」


 そういえば確かに、気難しい相手との交渉を任されることが多い気がしていた。でも、そんな風に言われていたとは、思いもよらなかった。


(厄介な案件ばかり投げられるのは大変ではあるけど)


「評価されるのは素直に嬉しいわ。ありがとう」

「交渉といえば、虎月先輩の用意する手土産もセンスいいと評判だって、森井先輩も言ってました。俺、いつも有名店の定番土産で間に合わせちゃうんすけど、やっぱりそういう掴みのセンスがまず大事なんですかねえ」

「うーん、おもたせだけで何とかなるものじゃないけど。でも、同じ持って行くなら相手に喜んでもらえることが何よりよね」


 こんな処世術が知らず知らずのうちに身についていた。

 小さい頃から多くの業界人に接してきた。まだ幼く、遊びたい盛りだった頃は、そういった行事が苦痛で仕方なかった。

 けれど、どうやらこんなところでも、経験が生きていたらしい。


(そういえば、蔵王は昔から、そういうのが得意そうだったわよね。いつも積極的に色んな人と喋ってたし)


 今だって先程とはまた違った若いセミロングの黒髪美女な受付嬢と、親し気に話している。


「次から次へとよくやるわ」


 思わず胡乱気な目になって、ぽつりと呟いた。すると、


「ホント、うちの女の子、今みんな郁島さん狙いよね」


 缶コーヒーを飲みながらぬっと首を突っ込んできた香織に、葛葉はハッと我に返った。


「か、香織!?」

「もしかして、葛葉も郁島さん狙いだったり?」


 にやにやとしながらこちらを見てくる香織に、葛葉は赤面した。


「ば、ばか。そんなわけないじゃない!」

「そうなの? さっきからじっと郁島さん見てたから、てっきり」

「だから、違うってば! そんなことよりさっさと仕事仕事。香織も今から外回りでしょう!」

「そうだけど、まだ時間はあるんですけど!?」


 抵抗する香織を押し出すように、鞄を持たせて外へと押しやった。

 ちらりと先ほど蔵王がいた場所を見ると、すでに姿はない。


(はあ。まったくそんなつもりないのに。それもこれも蔵王のせいよ!)


「さ、忘れましょ。集中集中!」


 葛葉はぶるぶると頭を振るうと、パソコンに向かった。

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