波止場①

 月明かり差す港には穏やかな波が打ち寄せて、ただその音だけが響いていた。

 帆を畳んでいる蒸気船は走っていれば勇ましいのに眠りにつくと頼りなく、押しては返すさざ波にゆらりゆらりと揺さぶられ、いかりがなければ遥か遠くへ流されてしまいそうである。


 初仕事にはしゃぐコンコの後ろを、冷ややかな顔でリュウが着いていった。

 リュウにとっては、気の進まない仕事なのだ。


 今日の昼間、小屋のようなリュウの家での出来事である。

 コンコは正座をして真剣な顔で訴えるのだが、リュウは眉をひそめて聞いている。

「蒸気船の荷崩れ?」

「そうなんだ。夜までに積み込んだ荷物が、朝になったらメチャクチャになっているんだって」

「どうせ、いい加減に積んだのだろう」

 初仕事で異国を助けるとは気に食わぬ。

 ため息とともに吐き捨てられた言葉を聞いて、すがるようにコンコが続けた。

「でもね、甲板がびしょ濡れになっているんだ。蒸気機関が壊れちゃうかも知れないし、下手をすれば船が沈んじゃうかも知れないよ」

「異国の船がどうなろうと知らぬことだ」

 そう言いつつも、何だそれはと気になって仕方ないリュウである。


「高島さんも、お礼は弾むって言っているよ」

「金で動くなど武士ではない」

 そう言いつつも、これの他に仕事がない。

 用心棒は元力士や元船乗りに奪われてしまい、刀を奪われた侍に務まるような仕事の口がない。

 高島嘉右衛門とは、あやかし退治に行ってはじめて金がもらえる約束なので、やらなければ生活はままならない。


 祠を失ったコンコを迎えて、食い扶持ぶちが増えた。稲荷狐らしくおいなりさんが大好物で、ニコニコしながら嬉しそうに食べるのだが、1日1回は食べさせないとねてしまう。

 高いものではないにしろ、仕事がなければ逼迫するのは遅かれ早かれ同じことだ。


 高楊枝など、いらぬ武士の誇りなのだが10年近く経っても捨てられず、自身の首が締まっている。

 コンコのため息に胸が痛むが、動く理由がなければ動けない武士の悲しいさがである。

「積荷の生糸がダメになっちゃうなぁ。おかいこさんが一所懸命に作ったのに」

 積荷とは生糸だったか。

 外貨をせしめる重要な品ではないか。

 もったいぶるように、ううんと唸ってから仕方なさそうに引き受けた。

 よかった、これで食いつなげる……。


 船を横目に港をぶらぶらしているが、怪しい雰囲気は微塵もない。

 荷崩れと甲板の浸水という状況から高潮のせいと思えるが、横浜港にそんな高い波は来ない。

「ところでコンコ」

 踊るように海辺を歩いていたコンコはピタリと止まり、なぁに? と尋ねた。

「女なのに水兵セーラーの格好なのか?」

 リュウの疑問に、やだなぁ〜と言ってからキャハハッと笑っていた。何が変なのか、リュウにはさっぱりわからない。

「お稲荷様に男も女もないんだよ。僕は可愛い服が着たいだけ」

 そうだったのかと言いつつ、男に見えないことはないものの、コンコはかなり女寄りだと思っている。


 普段は耳を隠すハンチングにシャツとズボンという格好だが、その場そのときに合う服を着たいと思えば、瞬時に霊力で変えてしまう。

「へへっ可愛いでしょう。似合う? こんなに可愛い服だったら、女の子も着ればいいのに。そう思わない? リュウ」

 そう。その基準が、いつも可愛いなのだ。

 楽しそうなのは結構だ。しかし霊力の無駄遣いは控えてもらいたい、と思うリュウであった。


「それにこれ、便利なんだよ。襟をこうして立てると音が……」

 肩に垂れていた襟をつまんで後頭部にピッタリつけると途端に真面目な顔になり、港の左右をゆっくりと見渡しはじめた。

 しばらくして真ん中でピタリと止まり、クワッと目を見開いた。

「来る!」


 海面が盛り上がったかと思うと、大仏ほどはあろうかという巨大な人影が姿を現した。腰から下は海の中なので、背丈はもっと大きいはずだ。

 立ち上がった勢いで港に激しい波が立ち、波止場の岸壁はザバザバと洗われて、係留された蒸気船はぐらぐらと大きく揺さぶられていた。

「海坊主……?」


 真っ黒な人の形の水塊は見下ろす船に手を伸ばし、船のマストをがっしりと掴んだ。

 積荷荒らしは、こいつの仕業か。

「コンコ! 祝詞を!」

 リュウが刀を抜き、コンコが祝詞を唱えると、光の粒が集まって刀が輝きを放った。

 柄から伝わる感触に、手が腕が震えそうになり力を込めた。

 これが稲荷狐の霊力かと、リュウは恐怖した。


 問題は、どう斬るかだ。

 掴まれた蒸気船に乗り移るにははしけが要る。

 しかし木の葉のような艀では、さっきのような波が起これば軽々とひっくり返されるだろうし、巨大な手の平に襲われれば息つく間もなく沈む。

 こちらから近寄れないなら、煽って引き寄せてから斬るしかないだろう。しかし岸壁に来るまでに、いくつかの船が押しのけられる。

 錨が抜けて流されるか、転覆してしまうかも知れない。

 そして何より、相手がデカ過ぎる。稲荷の霊力が籠もっているとは言え、こんな小さな刀で果たして斬れるのだろうか。


 水塊の頭、口のあたりがぽっかりと開いた。

 俺たちを呑み込むつもりか。

 覚悟を決めたリュウは、ギュッと奥歯を噛んで海坊主を睨みつけた。

 脇を締めて刃を向けて、受けの構えになった。

 さぁ、来るならいつでも来い!


『あぷぅ』

「…はっ?…」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る