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 ×月×日


 それは古い物語だ。

 狐と鶴が共に、二度ご馳走を食べたという。

 一度目は狐の家に鶴が招かれた際、皿に盛られたスープを。

 それは大変おいしい物ではあったが、長いくちばしを持つ鶴には浅い皿に盛られたスープを飲むことはできなかった。

 二度目、今度は鶴の家へ狐が招かれ、壺に入った肉を差し出されたという。

 長いくちばしを持つ鶴にとってそれはなんてことの無い食事だったが、くちばしを持たぬ狐は途方に暮れ、壺の中に詰まった肉を食べることを諦めたという。

 そのやりとりに悪意があったのかは不明だ。

 仮に良かれと思っての行動であったとしても、結局は配慮が足りなければ相手を傷つける、そんな事を謳った物語だ。

 確かに配慮があれば良かったのかもしれない、だけど、配慮と云う物には限界がある。

 どれだけ相手のことを考えていようと、他人の気持ちを理解するなど皆無にも等しい事なのだ。

 鬱病患者への『頑張れ』は致死性の猛毒で、諦めることで前に進もうとしている人間に対しての『希望』は、生半可な絶望よりも厄介だ、故にパンドラの箱の最後は『希望』が詰まっていたのだから。

 兎にも、配慮や理解と言う物には絶対的な限界が存在する。

 故に向けられた言葉に悪意が無いことはわかっていても、悪意が無いからこそ余計に鋭い棘を持ち、針が小さいからこそ、いつの間にか傷口が化膿し、吐き気を覚える臭いを放つ場合だってあり得るのだ。

 「幾許か気分は良くなったか?」

 如月の声はいつもより少しだけ暗い。

 「わかっておる、大して変わらないのであろう? だからそれ以上はやめておけ」

 如月が自分の手を掴み、そっと引っ張る。

 白磁の様に白い如月の指がつかむ自分のそれは、親指の根元から赤いしずくを伸ばしていた。

 「自ら血を流すは私の専売特許だ。

 お前にくれてやる義理は無いぞ、この阿呆が」

 「それが目的じゃ無い」

 「わかっておる、全部お前の事なら知っておるのだからな。

 お前があまり肉を食いたがらぬ理由も、お前が何かを作ろうとする理由も、お前が偶像を好む理由も、全部知っておる。

 だが他人はそうはいかぬからな、だからお前の気持ちなど知らずに平気で傷つけるのだ。

 いいや、無意識に傷つけてしまう、この方が正しいな」

 噛み跡が未だにズキズキと痛む。

 だけど、結局この程度なのがある意味腹立たしく、同時に安心を覚える。

 「一人称が『自分』それはお前なりに悩んだ結果の答えなのだろ?

 それがわからぬ人間がお前を傷つけるのは当然の事だ、そうであろう?」

 不意打ちで気道に入る水滴の如く、マイクロアグレッションの類いには強い毒性がある。

 「他人と支え合ってこその人だと誰かは云ったが、支えを奪う人間もまた他人であると私は思うさ。

 故に傷つくのが嫌なら一人で居るほか無いのだよ、まぁ私はそんな未来は薦めたくは無いが……それでも尚孤独を望むと云うのなら――」

 そこまで口にし、如月は不意に手を伸ばすと、自分の口の中に指を差し込んでから口を開いた。

 「私を人質にすれば良い。

 生憎私にはお前を傷つける力など無いが、お前は私を傷つける力を有しておる。

 もしお前が自分を傷つけると云うのなら、先に私を傷つけてみろ」

 それ以上何を口にするでも無い、ただ如月は、そう脅迫めいた言葉を口にしたのに、どこかばつが悪そうにそっぽを向くのだった。

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