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 ×月×日


 もしこの世界に、フィクションと呼ばれる物が存在しなければ自分は存在しなかったかもしれない。

 それは『今の自分は』といった意味合いでは無く、文字通り自分という人間がこの時代この時まで存在しなかった、生きて居なかったかもしれない、という意味である。

 今更掘り返しても何の意味も無いが、少なくとも子供の頃の自分にとって、学校という閉鎖的な環境は決して楽しめる物では無く、勉強が嫌とか体育が嫌いとかそういう事以前に辛い思い出が多かった。

 それこそ、あの頃の自分にとっては自殺なんて野暮な考えが今よりもずっと身近に存在したし、少しでも良いことがあればその倍辛いことが待っていると、些細な喜びを見つけるたびに怯える日常を送っていた。

 今思えば本当に些細な事だし、大人の自分に言わせればそれこそ子供の頃の嫌な思い出で片付けれる事ではあるが、今よりもずっと稚拙な思考回路を持つ当時の自分にとってそれらは耐えがたい事実だったとも言える。

 だけど、そんな自分を救ってくれたのがフィクションだった。

 紙面やブラウン管を通してでしか感じ取ることが出来ない、実際には存在しない世界の日常は何よりも輝いていた。

 だからこそ自分はフィクションの世界に耽溺した、今思えばそれは子供ながらの現実逃避だったとは思うが、それ程までに好きな世界がフィクションには存在したからこそ、自分は生きてこれたし、今の様な生き方が出来ているとも思う。

 ただ、そんな過去の出来事が無ければ、少なくとも今の自分はもっと現実に目を向け、現実を楽しみ、そして普通の人間の様に家庭を持ち安穏な日常を送れたのでは無いかとも思う。

 多分、自分が出来損ないである一つの理由がレゾンデートルそのものにあるのだ。

 「辛い事があった分優しくなれる、などと適当な事を抜かす阿呆は存外多い物だ」

 どうにも抜けない頭痛故に、椅子に腰掛け項垂れたまま本を読んでいた自分に対し、如月はそんな声を投げた。

 「悲しみの分強くなれるなどと言うのも、莫迦の考えだ。

 所詮は見てるだけで何もせぬ傍観者の言い訳に過ぎん。

ああ、ついでにだが、悲劇を神の試練と呼ぶのも阿呆だな、馬糞をありがたく口に運ぶ様な行動だ、何の意味も無い」

自分の返答などはじめから待っていなかったのか、如月はフローリングに落ちた己の血を弄りながら言葉を続ける。

「だが、乾きを覚えた舌ほど水の甘みを知り、飢えこそが最高の調味料と呼ぶのなら、それに関しては同意であるな。

 少なくとも、現実を嫌った者程虚構の旨みを知る人間はおるまい。

 その旨みを知るからこそ、虚構を生み出す事が出来る、違うか?」

 こんな自分にアイデンティティが存在するのなら、如月が口にした言葉がまさにそれと言える。

 だけど、そんな考えを楽観的に受け入れて良い物かとも思えてしまう。

 何故なら――

 「少なくともこの世界には必要とされているのは、虚構を生み出さない人間だよ。

 少なくともまともな人間は、空想の友達と会話なんてしないさ」

 口に出してみてつくづく自分は嫌みな人間だと思う、それ以外には成れない癖に、唯一の足場すら切り崩しにかかるのだから。

 この答えに流石の如月も口を噤むと思っていたのだけど、帰ってきたのは沈黙では無く鋭い罵声だった。

 「黙れ!! その物言いは流石に鶏冠に来たぞ。

 一度しか言わぬからよく聞け、少なくとも私はお前の作る物が好きだ、少なくとも私はお前の力を信頼している。

 お前の想像力があるからこそ私は存在する、だからこそ私はお前の作る物全てに敬意を払っている、私自身がお前の作り出した虚構だからな。

 故にお前が私を否定する事は、お前が生み出した物全てを否定する事と同義なのだ。

 ふざけるのも大概にしろよ、このど阿呆!!」

 そう、ひとしきり罵声を吐いた如月は、思わず謝る自分を見て鼻を鳴らすと、長い髪を揺らしてから小さな声で呟く。

 「自分で自分を肯定できぬとしても、私だけはお前を肯定する。

 だからこそお前には私を否定する権利など無いのだ阿呆。

 私は虚構だ、故に認めろとは言わぬ、だがせめて……否定だけはするな」

 その声に自分は、ただ謝る事しかできないでいた。

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