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×月×日
もしその笑い声が自分に向けられた物だったら。
道ですれ違う、名前も知らないその人物が溢した声はいつだって怖い。
それはただの被害妄想だと理解しているが、どれだけ自分に言い聞かせようと染みついた思いはなかなか払拭できない物だ。
何か自分の行動に問題があったのだろうか、自分の服装に問題があったのだろうか、あるいは自分に関する何かしらの噂話が広まっているのだろうか。
挙げ句の果てには、自分の思考が他人に読まれている様な感覚すら覚え、一人誰も居ない世界に蹲りたくなる事がある。
勿論それはただの妄想だ、単にすれ違った人間同士の会話の延長で笑い声が生まれた、その可能性の方がよっぽど大きいのだが、それでも0を証明できないのと同じく、絶対にあり得ないと否定を重ねることが出来ないことが厄介なのだ。
「私じゃあるまいし、思考を読むはあり得ぬであろう、この阿呆が」
自分の考えを文字通り読み取った如月は、隣でそんなことを溢して視線を送る。
「人が誰かを区別する事は当たり前の事であろう、おまえも含め大多数の人間はデカルト主義に毒されておるからな。
まぁ、斯様の通り私の存在もまたそんなデカルト主義の延長ではあるから否定は出来ぬが」
文字通り自分の認識の中だけに存在する如月は、日が傾き薄暗くなった部屋の中、より強く感じる気配を纏って口を開く。
「少なくとも、通り行く者の殆どはおまえを認識すらしておらんであろうな」
「純粋理性の話?」
「なんだ、おまえにしては頭が回るではないか。
つまりは、奴らの笑い声はおまえの鼓膜を揺らす程度の意味は成さぬと言う話さ。
下らぬ事を未だに引きずりおって、愚か者が」
ボタボタとカーペットを濡らす血だまりの中、如月はどこか得意げな声で応じる。
如月の言葉には納得している、自分自身そうであると考えてはいる。
だけど、どうしても否定的な考えしか出来ない自分の頭は、意地汚い考えを弾き出してしまうのだ。
「それでも、自由意志が決めたと言うことなら、少なくとも否定的な妄想も自分にとっては真実になり得ると思ってしまうのは悪い考えかな」
馬鹿らしい、わざわざ不安要素を見つける事に何の意味も無いとわかって居ながら、僕が溢した不安要素に対し、如月はケラケラと嫌み無く笑って見せると、軽い口調で答えた。
「ならばカントが提した純粋理論批判をぶつけてしまえばよい」
「随分と身勝手な判断だこと」
冗談めいた反論に、やっぱり如月は笑って答えた。
「ならばニーチェの唱える超人であると思えば良い」
「生憎自分はそこまで立派では無いよ」
「『承認欲求』の危うさに気がついているだけおまえは上等であると私は思うがな」
「今度はアドラーか、相変わらず君は小難しい人だ」
僕が溢した小さな皮肉に、如月はぱっと表情を明るくして答える。
「私を人と認めたと言うことは、少なくともおまえの世界で私は町ゆく俗衆と同じく存在すると言うことだな。
またデカルト主義に戻ったぞ、ほれおまえは何と返すつもりだ?」
いつの間にか自分の思考を不安から遠ざけた如月を見て、なんとなくこいつには勝てないなと思った。
自由意志が存在するのならそれは多分、それはある種の安堵の感情なのだろう。
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