28 お節介

 28 お節介


 筆を握る手を一度止め、全体を見渡す。現実の後ろの壁は白いが、それではアワレのドレスが映えなくなる。少し考え、黄色とレモン色とをパレットの上で混ぜる。それを軽く添えるようにアワレの後ろに広げると、全体の印象が随分と明るくなった。

「気を失った後は、随分嫌な夢を見ていた。夢の事なのに随分リアルで、今でもはっきりと思い出せてしまう……」

 熊坂との誓いを違えてしまったと言う罪悪感の所為か、そんな悪夢を何度も何度も、繰り返し見ていた気がする。

「気がつくと、俺は病院のベッドの上に居た。目覚めた瞬間は、さっきまで見ていた夢がリアル過ぎて、随分と現実感が無かった。太陽がとても眩しくて、爽やかで、むしろこっちの方が夢なんじゃないかと勘違いしそうになるくらいに……」

 絵筆を洗い、水をつけて風景の輪郭をぼかす。一度に大量に水をつけても効果はない。寧ろ、紙がふやけてしまい、全体のバランスがおかしくなる。少しずつ少しずつ、グラデーションの隙間を埋めていく。

「2日位だっただろうか。倒れたあの日から、随分と時間が経ってしまっていた。だけど、時間よりももっと素早く、事態は急速に進んでいたんだ……。看護士さんが連絡をしたんだろう、その日の夕方に父さんが見舞いに来た。お前は何も心配しなくていいと言うだけで、父さんは何も語らなかった。今は疲れているからゆっくり休めってな」

「旦那様は、武文様の事をとても愛していらっしゃるのですね」

「……まぁ、そうなんだろう。だけど、大事に思うためなら何をしてもいいのかと言えば、絶対にそんな事は無い。俺は未だにあの時の父さんの行動は許せない。だけど、俺の為だと言われてしまえば、確かにその通りだと納得せざるを得ない……」

「何があったのですか?」

「父さんは俺の行動を監視させてたんだよ。証拠になるように録音までさせて……。それを武器に学校に、俺が受けていた行為に対して、それを行っていたクラスメートの処罰と、更にはそれを黙認していた教師、つまりは小杉先生以外の教師達の責任を追及したんだ。父さんの力も相まって、結局話は教育委員会の上層部にまで届いた。テープに声が残っていた、大半のクラスメートは停学処分。内申書にも、クラスメートへの行為により停学なんて経歴が、深く爪を立てる事になったろう。しばらくして家に戻った後に残っていた留守電には、聞いたことのある沢山の声が、悲痛な叫びを上げていた。お前のせいでこうなった。どうしてこんな事が出来るんだってな。恨みがましい呪いの言葉が、電話機には大量に入っていたよ。可哀想になるくらいに……」

「武文様は、自分がお受けになられた仕打ちより、その方々のその後をお気に掛けられるのですか?」

 アワレが柔らかな目線をこちらに向ける。

「いや、正直そいつらのことは、もうその時はどうでもよかったんだ。だって俺が家に帰ってきたのは、全部終わってからだったからな」


「皆藤君」

「先生?」

 病院に軟禁されて一週間程経った頃、小杉先生が顔を見せに来てくれた。

 一週間ぶりの先生の顔は、とても疲れているように見えた。

「少し痩せたわね、調子はどう?」

 小杉先生は、そう言って俺を気遣ってくれた。

「いえ、入院と言っても大したものじゃなく……、心配要りません」

「そう、それならよかったわ……」

 俺は先生にお茶を勧めたが、先生はそれを丁重に断った。

「今日はね、皆藤君にどうしても伝えなきゃいけない事があって、それで来たの……」

 先生はそこで言葉を濁した。目線は下を向き、随分と言い難そうにしている。

「皆藤君、熊坂君とは仲がよかったって聞いたんだけど……。間違いないわよね?」

「ああ……、はい」

 熊坂の名前が出た時、俺は妙な胸騒ぎを感じた。

「あのね、落ち着いて聞いて欲しいの。今、学校があなたのことがとても大きな問題になっててね、それで、とてもドタバタしてるのだけどね、それでね、他にも色々聞きたい事はあったんだけど、今日はね、その……」

 先生の話が宙を彷徨う。本題を言うか言うまいか迷っている内に、色々な話題を散らかしているように感じた。

「先生、熊坂が、どうしたんですか?」

 胸騒ぎを抑えられなかった。たまらず聞くと、先生が唾を飲み込む音が、微かだが確かに聞こえた。そしてゆっくりと、唇に鉛でも練りこまれたように、先生はとても重そうに口を開いた。

「……熊坂君、自殺したの」

 その言葉が一瞬、俺には聞きなれない異国の言葉に聞こえた。遅れて身体に入ってきた言葉が、全身の熱を奪っていく。

 俺は、震えていた。

 嫌な汗が吹き出て、全身の血管が脈を打つ。

「昨日、熊坂君、美術室から飛び降りたの……」

 先生は俯いたまま、目の奥を潤ませている。

「……どうして?」

 俺がそう呟いたのを聞いて、先生は首を横に振った。

「理由は、よく分からないの……。担任として、その……。事件が明るみに出てからだから、いじめが原因なのか、他の事なのか、先生もよく分からなくて……。皆藤君なら何か分かるんじゃないかと思ったんだけど……」

 先生の声は、その時はもうすっかり別次元の言葉だった。

 俺がどうしてと呟いたのは、理由が知りたかったからじゃない。そんなものは、簡単に想像がついていた。だけど……。

 ――どうして、あいつが死ななきゃならなかったんだ……。

 おこがましくもあったが、あいつを救えなかった自分の無力さが、全身を打ちのめした。

 刺すような痛みが脳天を突き抜けて、そこから頭痛が激しくなる……。

 頭の中で血管が爆ぜていく……。

「皆藤君? どうしたの? 大丈夫?」

 先生が慌てた声を出す。頭を押さえて身体を丸める俺を見かね、先生はすぐさまナースコールのボタンを押してくれた。


「医者や看護士に先生は追い出されて、俺はそのまま鎮痛剤を打たれて眠った。だから、熊坂の葬儀には出ることは出来なかったんだ。いや、本当は翌朝目覚めた時、多少頭は痛むものの、無理をすれば行けなくもなかったんだけど、俺は行かなかった……。父さんに止められたのもあったが、俺自身、そこに行くのが怖かったんだ……。あいつが死んだって事を、認めるのが怖かったんだ……。その時からだ、俺が人間の顔を見る度に、頭痛が起こるようになったのは……。熊坂の呪いだとか思うつもりは勿論無い。ただ、やはり精神的な問題らしく、精密検査でも原因は不明のままだった。だけど、やっぱり、あいつが原因だろうと理解して、随分苦しんだ……」

 削られていった精神が、自分でも気づかない内に細くなっていたのだろう。それが熊坂の死によって、心の奥深くの大切な部分が、音を立てて折れてしまったのかもしれない。はっきりとした理由が分からない以上推測の域を出ないが、人と顔を合わせる事が恐怖の対象になる人生なんて、薄暗いものしか想像が出来なかった。

「学校に通い続ける事は無理だと判断した俺は、せめて退学届けだけは自分で出したいと父さんに申し出て、最後に一度学校を訪れた。頭痛はガンガンと響いたが、俺なりのけじめだった……。平日の昼休みなのに、職員室には先生の姿がほとんど無かった。小杉先生は幸い登校していて、俺の退学届けを哀しそうに受け取ってくれた」

『もっと、早く、力になってあげられたら、よかったのにね……』

 小杉先生は俺の顔を見ながら、誰の為にかは分からないが、力無く泣いた。

 先生は、とてもいい先生だ。

 だけど、彼女が父さんに電話を掛けたと言う行動によって、教え子や同僚の運命をこうまで変えてしまった。先生の人柄故に、その辛さは、耐えられないものかも知れないと感じた。

「俺は小杉先生に、先生は教師を辞めないで下さいねと言い残して、職員室を後にした。帰る途中の廊下で、宮内とすれ違った。あいつはバツが悪そうな顔をしながら、通り過ぎる時に言いやがった。俺の勝ちだな、ってな。俺はあいつの後ろから襟首を引っつかみ、振り向かせてその顔を思いっきりぶん殴った。ガンガンと響く頭痛を押し殺しながら、お前の勝ちだなって言ってやったよ。もう、どうでもよかったんだ……」

 背景の黄色が、淡く白と馴染む。全体を見渡し、バランスを確かめるが、崩れたところは無い。絵筆をコップに放り、ソファの背もたれにもたれかかった。

「出来たぞ」

 天井を向きながら、そう声を出す。

「お疲れ様です。拝見させて頂いても宜しいですか?」

「ああ、出来はそれなりだがな」

 アワレはベッドから立ち上がり、こちらへと歩いてくる。自分の描かれた絵を眺め、ほぅと一つ息を吐く様は、人間と何も変わらない。

 ――何も変わらないのに……。不思議なもんだ……。

「熊坂の自殺は、やっぱり両親の離婚が原因だった。父さんは、俺と熊坂のコーヒー屋での会話まで盗んでいた。それで、元は熊坂がいじめられていたって事まで掘り返しちまったんだ。共に闘いましょうと父さんが熊坂の両親に訴えたことで、熊坂がいじめられていた事が向こうに伝わっちまった……。まぁ、後は……、どうでもいいか」

 きっと周りの人間が見たら、そんな事位で自殺をするなんてと思う奴もいるのだろう。だけど、あいつにとって両親と一緒にいる事が、この世の全てと言ってもいいほど、大きな問題だったのだろう。どちらかだけを選ぶことなんて出来ない。熊坂はまだ子供だったんだ……

 その価値観を馬鹿にする事は出来ない。だけど、それでも思う。自殺する事は無かった。死ぬことは無かった。

 死ぬほどのショックを受けたのかもしれない。だけど、死ぬことは無かったんだ……。

「長々とすまなかったな。アワレのお陰で、随分すっきりした気がするよ」

 人と向き合う事が出来ない俺が、ずっと抱えていたものを解き放つ事が出来た。頭痛は止まらないが、心の中は随分とスッキリした気がする。

 しかし、アワレから返って来た答えは、俺の想像の斜め上を行っていた。

「それはようございました。ですが、先程からお話をお聞きしておりまして分かりました。武文様は、まだ熊坂様に縛られていらっしゃるのですね……」

 アワレは先程までのにこやかな笑顔とは打って変わって、神妙な面持ちでこちらを向いていた。

「僭越ながら、ご提案させていただきます。一度、熊坂様のお家へ行かれませんか?」

 その提案は、俺にとって信じられないものだった。

「熊坂の家に?」

「はい、出来ましたら、今すぐにでも」

「い、今から?」

 時計を見ると、今は8時40分。出かけるには随分と遅い。それに……。

「行くのはいいとして、何をしに行くんだ? 第一、まだ熊坂の家があるとは限らないだろ?」

「重々承知しております。ですが、武文様は、まだ熊坂様の死を、受止めきれてはおられないのでは無いでしょうか? 武文様はまだ熊坂様に、お別れの挨拶がお済みでは無いのではないでしょうか? どうなるかは分かりません。ですが、今日この日に、アワレめにこの話をお話し頂きましたのも、何かの縁でございましょう。差し出がましいとは思いますが、精一杯お節介を焼かせて頂きたく思います」

 アワレはそう言って、その場でいつものように、裾をつまんでこちらに傅いた。いつもと違うのは、それがメイド服では無く、ダンスに誘われているような雰囲気を出す、綺麗なドレスに身を包んでいると言う事だった。

「微力ながら、このアワレめもお供させていただきます。いかがで御座いましょう?」

 その清楚な立ち居振る舞いに、二の句が上手く継げなかった。

「武文様」

「……分かった。準備をしてくれ」

 渋々そう返した俺の言葉に、アワレは嬉しそうに微笑んだ。

「畏まりました。早急に出立の準備を致します」

 嬉しそうに飛び出していくアワレの背中を眺めながら、少しも後悔をしていない自分が、何だか不思議だった。

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