19 幻

 19 幻


 パレットの上で、アワレのドレスの色を作る。その色が、あの日に熊坂が塗った空の色と重なる。

 まだ平和だった頃の思い出が、言葉として紡ぐ事によって、鮮やかに蘇る。あの日肌に感じた寒さや、熊坂の息遣いを鮮明に思い出す。

 頭痛は、先程よりも少しだけ痛みを増していた。

 思い出す事を拒否しているのか、これ以上先に進むと危険だと信号を送っているのか、頭蓋骨の奥で奏でられるビートは、先程よりも微かに音量を上げた。

「熊坂とは、それから暫く距離を置いていた。人間関係を煩わしいと感じる性分が当時の俺の心根にはあった。その所為か、次に美術室に顔を覗かせたのは一週間後、2学期の終業式の前日だった」

 アワレのドレスとパレットを見比べて、色を確かめる。もう少しだけ、白を多めにしよう。

「熊坂さんとは、どのような方だったんですか?」

 アワレの問いかけに、一瞬言葉が詰まった。

「……一言では言えない」

「いくつでも言葉を紡いで下さい。アワレは全て聞かせていただきます」

 にこやかなその笑顔に、不思議な芯の強さを感じた。俺は暫し思考を巡らしながら、慎重に言葉を選んだ。

「そうだな……。あいつは、俺も最初は明るくて陽気なやつだと思ってた。いつ顔見てもへらへらしてて、真面目に絵を描いてるのかと思えば、絵に向かって話しかけるばかりで、ちっとも筆が進まない。少し塗っては止め、少し塗っては止めの繰り返しで、なかなか絵は完成しなかった。だから、俺は熊坂を堪え性の無い人間だと思っていた……。質問の答えになってるか?」

「はい、勿論で御座います。続けて下さいませ」

「ああ……、あいつは、いつも昼食にバナナを持ってきていたんだ。昼休みは毎日バナナを3本くらい齧りながら、美術室で描きかけの絵を眺めていた。だから、俺はいつもあいつを、楽しく明るく、悩みなんて無いような人間として認識していた。だけど、あいつは本当は、誰よりも沢山の事で傷ついていたんだ。

ボロボロの心を、自分からも隠すように、道化を演じていたんだ。……いや、むしろ、そんなピエロのような明るい自分になりたいと、願い続けていたのかもしれない……」

 アワレに向けたその言葉を自分の中にも向ける。

 そう、俺はあの時、熊坂の事を、何も理解してはいなかったんだ。


 冬休みが終わり、三学期も半ばに差し掛かっていた。それでも、あいつの絵は後少しではあったが、未だに完成してはいなかった。

 美術室は少しずつ温もりを取り戻し始めたが、他の部員達が戻って来る様子は無かった。

 熊坂は相変わらず、一筆塗ってはまた明日、一筆同じ場所に絵の具を重ねてはまた明日と、よく言えば丁寧に、悪く言えば遅々として進まない、そんな絵の描き方をしていた。

 このまま春を迎えるのでは無いかと言う時に、熊坂は俺に提案をした。

「今日はさ、皆藤君も一緒に描かない?」

 進行度合いが気になっていたためほぼ週一で美術室通いを続けていた。部員よりも勤勉な俺が熊坂にそう声を掛けられたのは、終業式が一週間後に迫った日の事だった。

 校舎の隅では、気の早い梅の花が桜に負けじと花びらや香りを誇っている。

「俺も?」

「たまには一緒に描いてよ。いっつも見られてるのもなんだしさ」

 美術室も随分と暖かくなった為、俺は渋々ながら熊坂の提案を応諾した。数人居る部員が顔を出さないんだ。今日くらい俺が厄介になっても、罰は当たらないだろう。

「やっぱり水彩?」

 準備室に向かう俺に、熊坂は尋ねた。少しだけ逡巡した後、首肯する。

 熊坂の横に陣取り、窓の外の景色、校庭の隅の梅の花を描くことにした。この時期見事に咲き誇っている梅の花は、俺の静物画欲を満たさせる十分なモデルだった。

 薄い鉛筆で縁をなぞり、少しずつ画用紙に花を咲かせる。二階の窓からは丁度、見やすい高さに花びらが咲いていた。その高貴な姿を目に焼きつけ、それをそのまま写し取る。

 瞬く間に一時間が過ぎ、輪郭が出来上がった頃、熊坂が俺の後ろに立っていた。

「綺麗な絵を描くね」

「ん? そうか?」

「そうだよ……。皆藤君は、いいね……。こんな絵が描けるんだもん……」

 熊坂の言葉の真意を読み取れず、俺はただ曖昧に頷きを返した。

「お前の方は、今日はどこまで進んだんだ?」

「ああ、さっき完成したよ」

 笑顔で答える熊坂の顔に、少しだけ違和感を感じた。

「本当か? 見せてくれよ」

 その違和感の正体を認識することが出来ないまま、俺は熊坂の絵を眺めた。

 一つ一つの色合いが丁寧に折り重なって、とてもとても柔らかな雰囲気の絵だった。子供の幸せそうな表情、そして家族の暖かさが伝わってくる、素敵な絵だった。

「時間かけた甲斐はあったみたいだなぁ。タイトルは?」

 何の気無しに聞いたその言葉に、熊坂は笑顔で答えた。

「……幻」

 その穏やかな笑顔から零れたとは思えない程の、冷たく呟くような声に、俺は先程までの違和感の正体を見た。

 どうしてこいつは、絵が完成したのに、顔は笑顔なのに、何だろう、嬉しそうじゃないんだ……?

「じゃあ、僕はこれで帰るね。皆藤君は、ゆっくり描いていきなよ」

 そう言って、絵を抱えたままそそくさと帰っていった熊坂の背中を暫時目で追ってから、俺は自分の描いた梅に軽く色をつけた。がくの部分くらいにしか目立つ色は乗せられなかったが、それなりに綺麗な絵になったなと感じた。

 その絵を美術室の片隅に立てかけて、その日は俺も美術室を後にした。

 この日が、俺が熊坂と一緒に絵を描いた、最初で最後の時間だった。


 一週間後の終業式の日、美術室に熊坂の姿は無かった。

 そして、俺が描いた梅の花もまた、美術室から消えていた。

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