第3話 邂逅 その3


 木造二階建ての古びた一戸建て、それが柚希の家だった。


 門扉を開けて中に入ると、少しばかりの庭がある。

 都会でマンション暮らしをしていた彼にとって、自分の家の中に庭があるのは新鮮だった。


 ここに越して来て真っ先に彼がしたことは、庭に菜園を作ることだった。

 三年ほど誰も住んでいなかったせいもあり、来た時には庭も雑草が生い茂っていて荒れ放題になっていた。

 越して来て一ヶ月、ようやく土も落ち着き、二十日大根やトマトの芽が出ていた。玄関の鍵を開けて土間に鞄を置くと、彼は菜園に水をまいた。



「おかえり柚希、遅かったね」


 彼の家の隣に、同じような造りをした一戸建てがある。

 その二階の窓から顔を出した早苗が、声をかけてきた。


「もうすぐご飯できるから。支度できたら手を洗って来るんだよ」


 そう言って早苗は大袈裟に手を振って笑った。

 柚希も手を振って答える。



 水をやり終えると家に入り、柚希は制服を脱いだ。

 傷はなくなったが、あちこちが土で汚れていた。

 このまま行けば、また早苗から質問攻めにあってしまう。

 クラス委員である早苗の面倒見のよさはありがたかったが、こればかりは早苗の力を持ってしても簡単に解決できる物ではない。

 早苗も薄々感じてはいて、事あるごとに聞いてくるのだが、安っぽい男のプライドが、女子に相談することにブレーキをかけていた。

 それに何より、早苗に心配をかけるのが嫌だった。



「こんばんは」


「おお、おかえり。丁度呼びに行こうとしてた所だ。早く入りなさい」


 早苗の父、小倉孝司が夕刊を片手に柚希を出迎えた。


「あ、はい……いつもすいません」


「そろそろそのかしこまったの、なんとかせんとな。うははははははっ」


 豪快に笑う孝司に続いて、柚希も居間に向かった。


「お兄ちゃん、いらっしゃい。巨人勝ってるよ」


 早苗の弟、昇が嬉しそうに柚希を迎える。


「そうか。それでおじさん、ご機嫌なんだね」


「何を言うか、野球の結果ぐらいで機嫌が変わってたまるか」


「負けてたら無口になる人が、何言ってるやら」


 意地悪そうに笑いながら早苗が突っ込む。


「柚希、遅かったね。さ、座って座って」


「柚希くんおかえり。いい天気だったから寄り道でもしてたの?」


「あ、おばさん、こんばんは。ちょっとだけ足を伸ばして、川の方に行ってみたんです」


「あんな所まで行ってたの。で、どうだった?いい写真撮れそうな所あった?」


「お母さん柚希の写真、好きだもんね」


 早苗の突っ込みに母、加奈子が大袈裟にうなずく。


「柚希くんの写真にはそう……なんて言うの、魂が入ってるって感じ?ここに住んでる私たちには撮れない写真が撮れるのよ」


「わしにはよく分からんがなあ」


「お父さんには分からないわよ。昔っからお父さん、絵とか写真とか、そんな物に全然興味なかったでしょ。私と美術館に行ってもいっつもつまらなさそうにして」


「加奈子、そんな昔のことを今言わんでも」


「ねえお姉ちゃん、話なら食べながらしようよ。お腹すいた」


「だね、じゃあみんな手を合わせて……いっただっきまーす」


「いただきまーす」


 早苗の号令で夕飯が始まった。



 テレビでは野球が流れている。

 動きがあると孝司と昇が身を乗り出して声をあげる。

 加奈子と早苗は一緒に作った料理の味を確かめ合い、次は何に挑戦しようか笑いながら話している。


 賑やかな賑やかな食卓だった。



 父と二人での生活をしてきた柚希にとって、この賑やかで温かい小倉家の食卓は別世界のようだった。



 柚希の父、誠治は仕事でいつも遅く、早くに母を亡くした柚希は、幼い頃から一人で食事をすることに慣れていた。

 学校でも、物静かで人見知りの激しい柚希と共に食事をする友人もいなかった。


 彼にとって食事の時間は「栄養を摂取する」為の時間でしかなかった。

「団欒」なんてものは、所詮映画やドラマの世界だけのフィクションだと思っていた。


 だから小倉家で、当たり前のように繰り広げられているこの団欒は、柚希にとって驚きであり、最初の頃はとまどいの連続だった。


 しかし共に過ごす時間を重ねるにつれ、その雰囲気にも少しずつ慣れていき、いつの間にか小倉家で過ごす時間が楽しみになっていった。



「柚希くん、誠治は相変わらず仕事、忙しいのか」


 CMが入ったところで、孝司が柚希に話を振ってきた。


「はい、相変わらず忙しいみたいです。昨日も電話で言ってたんですけど、家にもほとんど帰れてないみたいで」


「そうか……あいつ、クソ真面目な所は全然変わってないな。じゃあこっちの家にも、帰ってくる暇なんて中々ないだろうな」


「……ですね。こっちに引越しするって聞いた時から、分かってはいましたけど。向こうにいた時だって、週に一度ぐらいしか帰って来なかったですから」


「お父さんを信用してるんだよ、柚希のお父さんは」


 早苗が孝司に向かって言った。


「お父さんに頼めば大丈夫、柚希のお父さんも安心してるんだよ。いいよね、そう言う男の友情って」


「信用って意味じゃ早苗、それに柚希くん、お前たちもそうだぞ」


「え?」


「誠治は早苗に柚希くんのことを頼んだ。そしてお前は了承した。だけどお前がいくら『任せてください』と言った所で、やつがお前のことを信頼に足る人間だと思わなかったら、安心して任せられないだろう。

 お前を見て、お前と話して、お前のことを信頼出来ると思ったから、誠治も安心して仕事が出来る。柚希くんもだぞ。誠治はとにかく、君のことを信頼してる。

 確かに今まで、苦しいこともあっただろう。でもいくら環境を変えるとは言え、柚希くんを信頼してなかったら、自分の目の届かない所に一人でやる訳がない。だから二人共、誠治がした決断が正しかったと思えるよう、しっかり頑張るんだぞ」


「もちろん。柚希は私の大事な弟だしね」


「はい……ありがとうございます」


「まあ、柚希くんの次の課題は、わしと喋る時にそのかしこまった言葉使いをやめることだな、うははははははっ」


「急には無理ですよ。大体お父さん、巨人が負けた日は顔が怖いし」


「そうか?うははははははっ」


「お父さん、またそうやって笑ってごまかす」


「今日は勝ってるからいいけどね」


「うははははははっ」




 湯船につかりながら、柚希は紅音のことを考えていた。


 ここに越してきてから柚希は、食事と風呂を基本小倉家で済ませていた。

 初めの頃は、自分の家があり生活があるからと頑なに拒んでいたのだが、早苗の勢いに流される回数が徐々に増えていき、いつの間にかこれが日常になっていた。


「綺麗な人……だったな……紅音さん……」


 小さく笑う紅音を思い出すと、自然と口元が緩んだ。



 柚希はこれまで、女性を特に意識したことがなかった。

 清純で無垢、そして自分を温かく包み込んでくれる存在、それが柚希の求める女性像だった。

 それは幼い頃に事故で亡くした、大好きだった母親への想いに重ねられているとも言えた。


 どこにいても浮いた存在で、常にいじめの対象だった彼に興味を持つ女性もいなかったが、彼自身、劣等感を持つこともなかった。

 彼の理想の女性像を、同世代に求めることが出来ないと分かっていたからだ。


 しかし紅音は、その理想を求めるに足る初めての女性だった。

 勿論彼女のことを、まだ何も知らない。

 しかし目を閉じ、彼女の姿を思い描き、仕草を思い返すと、彼の胸は高鳴った。


 湯船から出た柚希は、椅子に座り体を洗い出した。

 毎日のように受ける暴力で、体のあちこちは傷ついていた。

 いつもは痛くならないように、慎重に慎重にタオルで洗っていた。

 しかし今日、本当に久しぶりに、彼は痛みを気にせずに体を洗うことが出来た。

 それが嬉しかった。



 その時、突然ドアが開いた。


「柚希―、湯加減どう?」


 短パンにTシャツ姿の早苗だった。


「うわっ!」


 柚希は反射的に湯船の中に飛び込んだ。


「早苗ちゃん、いつも言ってるだろ。いきなりドア開けないでくれって」


「あははははっ、いいじゃないの生娘じゃあるまいし。私にとっては柚希も昇と一緒で弟なんだからさ、裸見られたぐらいで騒がないの」


「いい訳ないだろ、僕だって男なんだから」


「おー、思春期思春期、あはははっ……でさ、柚希」


「……まず向こう向いてよ」


「うん……あのさぁ柚希、あんた放課後に山崎たちといたじゃない?今日も帰り遅かったし……ひょっとしてあんた、あいつらに何かされてない?」


「え?」


「私これでもクラス委員じゃない?クラスでの揉め事やトラブルには、きちんと手を打ちたいんだ。女子に聞いたらその……あんたが山崎たちに……手を出されてるとかって」


「……大丈夫だよ」


「ほんとに?」


「まだ転校してきたばかりだから馴染めてないけど、でもいじめられたりしてないから。今日は本当に小川に行ってたんだ。いい所だよね、あそこ。次の休みに、カメラ持ってまた行くつもりなんだ」


「本当?本当に?柚希、私は柚希のお父さんから、あんたのこと頼まれてるんだからね。私には隠さずに話してよ」


「ありがとう。でも本当に大丈夫だから。それに山崎くんたちには……ちょっとからかわれたりする時もあるけど、いじめられてるとかじゃないから。だから早苗ちゃん、心配してくれてありがとう。大丈夫だから」


「そう……うん分かった、じゃあもうこの話は終わり!それじゃあ柚希、背中流してあげよっか」


「あのその……早苗ちゃん、そっちの方が僕にとってはいじめと言うか何と言うか」


「失礼なこと言うね柚希。これでも私、男子からそこそこ人気あるんだからね。その私に背中流してもらうなんて、これ以上にないご褒美だよ」


「ははっ……かもね。でも遠慮しておくよ」


「そ?後悔しない?」


「しないしない」


「あははっ、じゃあ柚希、カルピス作っておくからね。上がったら飲むんだよ」


「うん、ありがとう」


 早苗が陽気に笑いながらドアを閉めていった。


 早苗の気配が消えたのを確認して、湯船から出ると柚希は再び体を洗い出した。


 この早苗の押しの強さにはかなり振り回されているが、彼女の自分に対する気配りには感謝していた。


 学校でもいつも気を使ってくれている。

 そのことで早苗に好意を持っている男子からは嫉妬の目で見られることもあったし、早苗がさっき口にした山崎たちにしても、いじめられるきっかけは嫉妬だったと柚希は理解していた。


 しかしそのことを早苗に言うつもりはなく、早苗に対して嫌な感情を持つことも勿論なかった。

 父、誠治との約束を守り、心細かった見知らぬ土地での生活を支えてくれる早苗は、柚希にとってかけがえのない存在だった。


 風呂からあがると、テーブルには早苗の作ってくれたカルピスが置いてあった。

 柚希の好み通り、氷が三つとストローが差してある。

 柚希は小さく「いただきます」とつぶやき、ストローを口にした。




 布団に寝転び天井をみつめる。


 今日は色々あった。

 また明日学校に行くと、山崎たちからの陰湿ないじめが待っている。

 そのことを考えると少し憂鬱になった。

 明日はどんな形のいやがらせが待ってるんだろう。

 いつもはそのことで頭がいっぱいになり、眠れぬ夜を過ごしていた。


 しかしこの日は違っていた。


 いつの間にか、柚希の頭の中は紅音でいっぱいになっていた。

 紅音の大きな瞳、透き通るような白い肌、美しい銀髪。

 間近で感じた甘い吐息、優しい声。柚希の胸がまた高鳴っていった。



「また明日……会えるんだ……紅音さん……」

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