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 西宮先輩が私を見つけられると、曇らせていた顔を一気に明るくさせた。急に消えて不安にさせたのだろう。申し訳ないと思う。

「どこ行ってたのもー」

「すみません。ちょっと話をしてて」

 一緒に戻ってきた木葉ちゃんの方へ視線をやる。

「どう? 仲直りできた?」

 私は言葉に詰まった。「……仲直りはちょっと……」

「そっか。困ったら私に頼るんだよ?」

 溢れんばかりの母性を私に注いできて、私はその優しさを取りこぼしそうになる。

「そだ、みんな海のほうで花火をしているよ? 花火しにいく?」

「是非!」

 夏の風物詩、花火。テレビで見たり人から夏休みの報告として聞いたりということは多かったけれど、実際やった経験はあまりない。

「ほら、早く!」

 私の手を引いて先輩が駆け出す。さっきまでゲロ吐いていた人とは思えない。

「待ってください」

 先輩の私より丸っとしていて細長くて、色白い手先が、力強く私の左手を握っている。安心感があった。

 ザーッと波打つのを聞いて、初めて海のある街に来たんだ、と実感した。波の押し寄せる音が、背後の雑木林に溶けていく。視界を覆うものはなにひとつない、真っ青な海。月明かりがぼやっと私たちを照らし、花火のオレンジが先に行った先輩たちを映し出していた。

「おい! 西宮! もう花火が少ない!」

 三園先輩が私たちを見つけ出し、そして「買ってきてくれ!」と叫んだ。

「はあ⁉︎ 私がそんなことするわけないでしょ。そっちが何本も使ってんじゃない。私はこれから雛ちゃんと投身自殺するの!」

「え?」

「あんまり西宮の冗談は間に受けない方がいいぞ」

「はい、わかりました」

 三園先輩とは、木葉ちゃんのこともあって上手く関われていない。ただ、木葉ちゃんが信頼を寄せている人だから相当の人なのだろうと思っている。

 そう言えば、木葉ちゃんは今何をしているだろう? 脳内に浮かぶのは、白いワンピースに着替えた木葉ちゃんが失ったものを思い出すために、じっと海を見つめている姿だった。

「ほら雛ちゃん」

 西宮先輩から線香花火を一本もらって、チャッカマンで火を付ける。

 火がついた先を一点に集中して、目を凝らしていた。儚い灯りに、弱々しく西宮先輩の額が赤く染めた。

「暑いね」

「顔が近いからですよ」

 ぱちっと火が跳ねた。ぱちぱちぱちぱち、焔はだんだん強くなっていく。

「今日一日でうちが何するか学んだでしょ」

「ええ。証明、美術、音楽、音響。それと演技を少し」

「雛ちゃんは、うちのサークルで何がしたい?」

 これ、前にも聞いた覚えがある。先輩は笑った。

「やっぱり脚本? 将来は作家になりたいんだもんね」

「私──、サークルやめようと思います」

「え? どうして。あ、やっぱり彼女?」

 一刻も早くなんとかした方がいいよ、先輩はそう助言してくれた。

「本当に、辞めちゃうの?」

 私が何も言わないでいたから、先輩は言葉を繋げた。

 正直、私はまだ悩んでいた。ここにいたら、私はどうにかなってしまうんじゃないか。目指していた場所へ到達できないんじゃないか。そして憧れは憧れではなくなっちゃうんじゃないか。様々な不安が絡みついて一つになって、そして一つの希望と結びついた。

 ──偶像がまだ生きているなら、私はまだ秋風諷真を見ていたい。知りたい。

 しかし私の口から言葉は漏れなかった。

「まだ迷っているんだね」

 先輩が私の表情を見て、言葉を補完してくれる。はい、と首肯した。

「まだ迷っているなら続けて見ようよ。まだ一日目だよ?」

 人間関係は私がなんとかするからさ──、先輩の優しさが今はとても身に染みた。

 やがて、線香花火は華々し散り、火を落とした。私は残ったゴミを落として先輩に抱きついた。

「ちょ、──雛ちゃん?」

「私居ていいんですか?」

「勿論だよ」

「小説を書けない私でも?」

「雛ちゃんは小説だけではないよ」

 私は、西宮先輩のその言葉を聴いた時、とても胸にくるものがあった。自分を否定されている気持ちにもなったし、自分を肯定してくれる感覚にもなった。心地いい熱さと刺々しい冷たさが同居して、苦しくて苦しくて。

 私は、自分のことを小説だけが取り柄の人間だと思っていた。小説しかないんだと。そう思っていた。

 でも今、私の手には小説という言葉すら掴めなくて、かつて書いた小説だけが私の体を形作っている。

 自分を削った過去の作品は、汚い垢のように見えて、私にはそれがたまらなく気に障った。

 しかし、西宮先輩宛に書いた作品だけは、今煌々ときらめいている。そこに、確かに、先輩の影があった。

 私は小説だけではないと先輩は言う。でも小説だけだった私に、一体他に何があると言うんだ。

 知りたい──私はとてもそれが知りたい。

「先輩には、私の何が見えているんですか」

「先輩には、いろんなことが見えているよ」

 私の両目から雫が溢れた。私は泣いていた。自分でもわかるほど泣いていた。熱い涙が、頬をだらだらと流れる。

「私の知っていることを一つ言うと」

 先輩は半笑いになった。これを言うなんて馬鹿馬鹿しいと思っている、ただの見栄だと言っているように私は捉えた。

「東京は何にでもなれる場所だよ」

 ふっ、と私は笑った。

「ここは東京じゃないけどね」

 そこで私は堪えきれなくなって、先輩の胸元に顔を沈めた。


 二日目からは雨が降らなかった。梅雨明けと報じられた。

「姫香先輩、ここの人物のアンニュイな表情はどう表現すればいいですか?」

 二年生の先輩が私の方へやってきて訊いた。一緒にいた先輩はなぜか面映ゆいようで、口元を変な風に曲げている。

「姫香?」

「私のことだよ」

「西宮──姫香?」

 先輩が頷く。

「ははっ……」

 笑うなよー、と先輩に言われる。質問をしに来た先輩は困った表情をしている。

 先輩は、強かった。他の誰かになりたがることなんてするまでもなく先輩は、先輩なのだった。

 そして私は、改めて思う。これが物語なのだとしたら──。私と秋風諷真の間に物語は生まれなかった。けれど、私は誓う──いつか必ず超えてみせると。

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原点 無為憂 @Pman

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