外伝:寄り添う賢者(林先生視線)
私は、渡辺輝人という生徒を知らない。
私がこの中学に赴任したのは、彼が失踪した翌年だった。
同じ市に属する教員として、事件については知らされていた。大変なことが起こったとは思っていたが、当初はそれだけの認識だった。しかし当校に来て、初めて大矢先生を見るまでは、当事者がどれだけの苦しみを被るのか、全く分かっていなかった。
当時の大矢先生は、今よりかなり痩せていた。
休みの日は一人で輝人の捜索をしたり、街頭でビラを配ったりと、とり憑かれたように動き続けていた。職員室で何もない空間をぼんやりと見ていたり、突然びくっと体を強張らせたりと、病的な反応も起こしていた。
心配になって、声をかけた事がある。
「大丈夫ですか。家族が心配してはいませんか」
彼は充血した目で、笑顔とは呼べぬ顔を私に向けた。
「私には、家族なんていないんで」
私が国語の教師だからだろうか。その言葉のニュアンスに、とても不穏なものを感じた。
私は彼の力になろうと、渡辺輝人についての資料を読み返した。捜索にも同行した。そうやって半年ほどした頃、大矢先生がやっと己の懺悔を私に吐露してくれた。
それは、誰一人として救えない後悔だった。
私なんかの柔な親切心なんかでは、どうにも救えぬ事実だった。
だけど大矢先生は、苦しみを吐きだした後から徐々に回復を始めた。やる気のブレーキが効かないような、危なっかしい時期も乗り越えた。
――とはいえ。輝人の妹である双葉が現れて、再び暴走しかけたのだが。
登校日2日目、生徒が倒れたあの日。
私は、怖い顔になっていた大矢先生を空き教室に呼んだ。
「まず、安心してください。双葉は何もされていません」
顔を強張らせていた大矢先生は、露骨に安堵し脱力した。私は呆れてため息をついた。
「気持ちは分かりますが、そう何度も何度も双葉の心配をする必要はありませんよ。それに現状、我々にできることはわずかです」
「それは承知しているつもりです。ですが」
大矢先生は、額を抑えてうつむいた。うつむいても彼の方が背が高いから、苦悶の表情は丸見えなのだが。
「守れなかったときの後悔が、怖いのです。本当ならば、あの子は東さんとも両親とも離すべきです。それが分かっているのに、何もできない状況が辛すぎる」
――担任から外して正解だったな。
私は暴走しかけている、いや、暴走しないための我慢が切れかけている大矢先生を見てそう思った。
一年生が入学する直前、大矢先生を一年の担任にする案があったのだ。しかし双葉に肩入れしすぎる可能性を考慮して、私が彼を担任から外した。だからこそ余計に熱くなるのだろうが、これではいけない。
「守りすぎるのも、子供のためにはなりませんよ」
「ですが、虐待の証拠もあるんです。夏休みという教師の目が届かない間に、もっと酷い目に合っていたら」
――こりゃ恋だな。
私は、大矢先生の一方的な想いにそう命名した。男と女の不埒なアレではないが、この執着に相応しい言葉はこの一文字だ。
そうなると、これは中学生女子への片想いとなるわけか。ああ、この大男が急にいじらしく見えてしまった。正直笑いを禁じ得ない。
「私の見た限り、その心配はなさそうでしたよ。どうせ図書室で会うんですから、自分で確認できますよ」
言いながら、更に笑いがこみ上げてくる。そんな私を見ていた大矢先生は、少しだけ不安が抜けたようだった。気まずそうに頭を掻いて、「すみません」と呟いた。
落ち着いた大矢先生を見て、私はまず一息をついた。
これからもう一人、話を聞くべき相手が残っている。
「申し訳ありませんでした」
次いで私と対面したのは、東先生だった。
場所は応接室である。きつく結った髪はほつれており、スーツの上着は脇から汗が染み出てシワがよっている。今日の暑さで化粧も崩れたのか、青白い顔が隠せていない。
「やっと、反省の言葉が出ましたね」
私は穏やかに言ったつもりだったのだが、東先生は顔を強張らせた。疑心暗鬼に陥っているなあと、私は痛々しく彼女を眺めた。
「東先生。変な言い方かも知れませんが、私は今のあなたが好ましい」
彼女はぼんやりしたまま、わずかに目を左右に揺らした。
「あなたは、やっと責任を自覚しました。それはそれで大切なことです」
私は前に身を乗り出し、彼女に少し近づいた。
「もう一つ大切なのは、起こったことを私に話してくれたことです。おかげで、今回のことはあなた一人が背負う必要はなくなりました。学校全体で責任を背負えるのです」
「あの、それはどういう――」
首をひねる東先生に、私はゆっくりと諭した。
「責任を背負う覚悟は大切です。しかし、あなた一人を罰したところで、誰の得にもなりません。責任を感じたのなら、失敗したのなら、そんなことが起こらないよう対策をしていけばいいのです」
きっと、東先生は罰を覚悟していたのだろう。想像していなかった話に、虚を突かれた顔になった。
「あなたのように、一人で全部背負おうという人間は多いと思います。しかし背負いきれなくて、投げやりになる人もいます。あの副主任も、そういう人だと思います。正義感が強くて、ヒーローのように振舞う人でした」
自分一人で解決できると、突っ走る人だった。そういう意味では大矢先生にも似ていたように思う。違うのは、暴力を肯定するかしないかだけだ。
「しかしね。学校だけじゃなく、どこの職場でも責任は分散され、一人で抱えられる量まで軽く小さくされるものなのです。むしろ一人で背負われては、共有できるはずの問題点が隠されてしまいますし、我々もあなたの力になれない。あなたの力になれる人間は、たくさんいるんです」
東先生は宙を見たまま、震える声で呟いた。
「でも、頼っていい領域を超えてしまうのが、怖いので」
「東先生。違いますよ」
私は、自分の娘ほどの歳の彼女に静かに諭した。
「生徒は、子供は、たった一人が育てるんじゃありません。領域があってはならないんです」
東先生の目から、ぼろぼろと涙がこぼれだした。彼女はそれを流れるがままにして、何度も何度もしゃくり上げた。
「さっき、佐野先生からも、似たようなことを言われてっ」
おや。彼は自力でこの答えに行きついたのか。やはり賢い人だ。
「すいませっ、私、大人なのにっ、こんな、みっともなっ」
私は彼女の頭を撫でようとして、途中で思いとどまった。応接セットのテーブルに手を滑らせて、なるべく彼女の近くに寄り添うように置いた。
「東先生。大人と子供に違いはないのですよ。人はずっと成長していくんです。反省することは、その一歩目なんです」
泣きじゃくる東先生は、まるで子供のようであった。
しかしそういう泣き方は、子供時代を失っている証であるようにも見えた。
今日と言う日が、彼女にとって成長の糧となりますように。私はそう願わずにいられなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます