第41話 強く咲く夏の花(夏・終話)

 私は階段を駆け上がり、3階と4階の間の踊り場にたどり着いた。弾む息のまま周囲に気を配りつつ、角に置かれた三角バケツを手前にずらす。

「あった!」

 私が朝隠したものが、そのままの状態で残っていた。朝起きてすぐ摘んだ、紫の濃い桔梗が一枝。枯れないように、切り口に濡れたティッシュを巻いてある。同じ場所に隠しておいた手紙は、父の仕事机にあった縦書きの便せんだ。

「風雅――かなぁ」

 私は濡れティッシュを外し、茎に手紙を結びつつ、まるで平安時代のようなスタイルに不安を感じていた。



 桔梗は、父からの誕生日プレゼントだ。

 祖母の家から帰る途中、立ち寄った道の駅で押し付けるように渡された。

「え、何」

「お前、誕生日だろうが。あと、それで大矢先生に残暑見舞いを渡せ」

 私は返事も忘れ、父の言葉の意味を探りあぐねていた。残暑お見舞いを出そうにも住所は知らない、鉢植えがどう関連するのかも分からない。

 考えすぎて固まった私を見て、父は苛立ったように声を荒げた。

「風雅には風雅で返さにゃいくまいが!」

 突然戻ってきた父の方言に、私ははたと合点がいった。

 ――おばあちゃんが、お父さんにそう教えたのか。

 祖母はなかなか粋な人である。きっと『古人のように匂いで語る文を貰ったのならば、こちらも古人に倣うべし』みたいなことを言ったのだろう。

「別に、普通に絵葉書でいいよ」

 私が鉢植えを返そうとすると、父がまた怒ったように言った。

「それじゃあ、お前へのプレゼントになるまいが!」

「あ、ああ。うん。ありがとうございます」

 腑に落ちないまま受け取った小ぶりな鉢植えだったが、育てるうちに愛着が沸いた。この一枝を切り取るのだって、10分以上ためらった。

 大切な人に花を贈る本当の意味が、なんとなく分かった気がした。



 私は桔梗を右手に持ち、階段を上って図書室へと進んだ。靴棚には大矢先生のスリッパだけが入れられていて、他に誰もいないことが分かる。花を渡すところを見られないことには安心したが、だだっ広い部屋に二人っきりなのだと気づいて緊張した。


 どうしよう、変じゃないかな。

 いや変だよね。普通は花って、男が女に贈るものじゃん。

 それに『風雅には風雅で返せ』って言われても、一体なんて言って渡せばいいんだよ!


 ――がらり。

 頭を抱えて悶々と悩む私の目の前で、図書室の戸が開いた。

 突然の出来事に息が止まって動けない私の耳に、大矢先生の低い声が響いた。

「やっぱり双葉か」

 そろそろと目を動かすと、妙に硬い表情の大矢先生がいた。

「どうした。何かあったのか? 何かされたとか、何か言われたりしたのか?」

 ぎこちない口調と落ち着きのない目線。わたしはピンときた。

「持ち物検査のことですか」

 返事はない。しかし、表情がちょっと苦々しそうに歪んだ。どう見ても知っている様子だ。

「何もなかったですよ。女子が倒れたおかげで、私のところまで東先生来なかったし。それに、見つかって困るものは隠しておいたし」

「困るもの?」

「あ。校則に違反するものではなくて――」

 そうだ。この勢いで渡してしまおう。

 私には、風雅も粋も欠片もないもの。

 私は右手をまっすぐに伸ばして、大矢先生の方に突き出した。

「残暑お見舞いです。お手紙ありがとうございました」

 大矢先生は一瞬目を丸くして、それから照れくさそうにニヤついた。

「ありがとう。これはまた風流だな」

 私に向けられた笑顔に、私は慌てて首を振った。

「これ、お祖母ちゃんのアイデアですから!風雅なお手紙を貰ったのなら、風雅で返すのが流儀だろって」

「風雅って?――ああ、匂いのことか」

 大矢先生が、きまり悪そうに頬をひっかいた。

「あれは、俺の名前を書きたくなかったからだよ。俺、お前の親父には『二度と目の前に現れるな』って言われてるしな」

「それは」

 私の脳裏には、反省して項垂れる父の姿があった。だけどそれを説明する前に、大矢先生は私に笑顔で手招きをした。

「とにかく入れよ。そういやお前、『人間失格』読んでたよな。どうだった?」

「面白かったです!」

 私の頭は、繰り返し読んだ名作のことでいっぱいになった。

「あの小説、めちゃくちゃ深いですよね。一生懸命好かれようって生きてるのに苦しくて、だけど周りの人にはそれが伝わらなくて」

「そうだなあ」

 大矢先生は考え込むようなそぶりをしながら、図書室の中に戻っていく。私は上履きを脱いで靴棚にしまい、小走りにその背中を追いかけた。

「でも、ちゃんとハッピーエンドだからよかったです」

「ハッピーエンドか?」

 大矢先生が、驚いた様子で振り返った。私は間違ったのかと焦りながらも、自分の考えを必死で紡いだ。

「手記の最後で、葉蔵が初めて笑ったから。恨み言とか、泣き言とかも、ラストにはないし。なんだか、穏やかな顔しか想像できなかったから――そう思ったけど、違うんですか」

 上目遣いで伺うと、大矢先生は私ではなく遠くを見ていた。小さく、ゆっくりと頷いて、それからぼんやりと呟いた。

「違わないと思う」

「そう、なんですか?」

「人間失格は複雑な物語だからな。人によって解釈が違ってもおかしくない。俺はただ――」

 私は大矢先生の言葉の続きを待った。が、先生は自分の世界に沈むように黙ってしまった。

 しばらくの沈黙のあと、大矢先生は手紙付きの桔梗を自分の目の高さに持ち上げて眺めた。

「これ、萎れるのが惜しいな。なんとか残せないかな」

「無理じゃないですか? 捨てちゃっても結構ですよ」

「女から貰った初めての花なんだよ。そういや、手紙は何を書いてんだ?」

「え?いや、特別な事は書いてないですから。なんだか恥ずかしいんで、陰で読んで下さいっ」

「なーんで照れるんだよ。お前、やっぱ俺に惚れてんな?」

「惚れてない!てか、そういうのとは違うから!」



 ――残暑お見舞い申し上げます。

 私はもう一人ではありません。

 友達もいます。弟もいます。

 そして、先生もいます。

 だから私は消えません。

 兄に似たいと思う事も、もうやめます。――


 ラブレターでもない、余白だらけの手紙だ。だけど目の前で読まれるのは耐えられなくて、いやだいやだと大げさに騒いだ。大矢先生は、そんな私を面白そうに笑っていた。


 この『幸せ』の感覚をどこかに焼き付けて、地獄をも生き抜こう。

 私の人生は、まだ両親の手の中だから。

 自分で人生を切り拓ける時が来るまで、ただひたすらに耐えよう。


 大矢先生につられて笑いながら、私は密やかに覚悟を決めていた。




(夏・完)

 ―――――――――――――――――――――――――――――――

 長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

 外伝という名のSSを挟み、お話は次の季節に移ります。

 お楽しみにー!

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