セントエルモの審判

壺天

セントエルモの審判

 層雲の海を飛んでいた。

 漂う白のたなびきに、視界はどうにも奪われる。

 だから集中すべき大一番を目前に、大物を捉えきるのが遅れたのは――――まぁ、落ち度と言われれば甘んじて受ける。


 周囲が激流の黒に埋め尽くされた瞬間、息をつめた。

 キャノピーに対流する自分の気配へ緊張が走る。

 積乱雲に突っ込んだ。

 思考が瞬時に走り、スロットルを握るグローブの指先が、僅か震えた。

 高度三万三千フィート以下。

 高高度への挑戦直前、俺の乗るF-4EJを喰らいこんだ雷の巣は、きっと必然的にそこにいた。



 暗闇が延々続くような気がした。

 音速を超えた機体は、運がよければすぐにでも化け物雲の腹を食い破って青天へ踊り出てもおかしくない。

 けれども今俺が飛んでいるデカブツは、相当広い胃をお持ちらしい。

 コックピットの中はひどく静かだ。

 機体の振動、ファンの単調な駆動音、自分の鼓動。

 それ以外は全く外を置き去りに、F-4EJは生真面目に飛行していた。

 だが俺には分かっていた。

 

 来る。

 必ず、来るはずだ。

 

 確信があった。

 だからじっと粘るようにその時を待った。


 訪れは、予想を正確に辿るように現れた。

 キャノピーの前方、青い発光がふっと前触れなく広がる。

 かと思えば操縦席の透明な覆いを補強する金属フレームの上を、素早い光が視界を弄ぶようにあっちこっち駆けていく。

 そしてとうとうガラス部分にすら光は遊び、前方を睨む俺の眼に、光はもう見逃すのが不可能な程に溢れた。

 はっと、スロットルを握る手を見る。

 指先は外を埋め尽くす光と同じ、青白く発光を帯びていた。

 近い。

 その時が迫っていた。

 俺は雷雲に誘発され、しこたま静電気を貯め込んだ機体の中で、息を潜めてただ待った。

 光が強まる。


 手が。

 女のような細い手が、するりとキャノピーの前方を撫でた。


 発光が恭しく道を開く。

 光の裂け目は闇を俺に開き、そこに髪を靡かせる存在を目の当たりにさせる。

 セントエルモの審判。

 飛行機乗りたちの間でだけ、全くの真実と伝えられる空の番人。

 必然だったのだ。

 高高度へと初めて挑む俺を、ずっと空は見ていた。

 だから雷雲は俺を迎えに来た。


 お前は天を衝くに足るものか?

 それを問うために。


 審判は微笑んだようだった。

 顔など視認できぬほどに神々しく青白い光を帯びているのに、俺には確かに分かった。

 しかしそれは、人で言う好意を示すようなものではないということも直感していた。

 微笑みは形だけなのだ。

 女のようなそれは、見定めている。

 コックピットに縛り付けられたように動かない俺を、理を超えたどこかで秤にかけている。

 何を問われているのか、それが言語化できる何かなのか。

 それすら、俺には分からない。

 ただ、吸い寄せられるように女の青白い顔を見つめ続けた。

 機体はすでに操縦者の支配を抜けて、一人勝手に飛んでいる。

 俺はただ求められるまま、女と対峙していた。


 見つめて、見つめ続けて。

 

 いつしか俺は、空を幻視していた。

 永遠のような雲海の広がり。

 遮る物のない、突き抜けた青。

 初めて一人飛んだ空を思い出した。

 あの時、きっと忘れてはいけない義務や責務を、俺は一時だけ置き去りにした。

 生まれてからずっと届かなかった場所へ、自分はようやく還ったのだと。

 そう、思えていた。


 そうだ、あの日、俺は、確かに空に溶けた。


 意識が急激に反転する。

 覚醒すれば静寂の機内に、俺は審判を待つままの身だ。

 泣きだしたいほどの憧憬は一気に遠くなり、けれど、目前の微笑みはひび割れなかった。


 審判は唐突に下った。


 どんっ!


 機体を貫く衝撃に、体が緊張をみなぎらせる。

 刹那、光はあっという間もなく四散し、俺は再び暗闇に放り出された。

 そして弾け飛ぶ白。

 突き抜ける青が、俺を迎え入れる。


 雲の腹を破り、晴天が迸る。


 赦されたのだと思った。

 空は俺を赦した。

 ようやく、空に溶けることができる。

 何人もの先達が教えてくれたように。


 『いつかお前も、空が迎えに来てくれる。

  その審判の時を、必ず迎える』


 苛烈でいて、穏やかでもあった、飛行機乗りに至るまでの日々が去来する。

 その果てにある、一つの関門。

 我知らず空を求めて生きてきた者たちが歩むべき、一度きりの通り路。

 セントエルモの審判の日。

 俺はどうやらそれをパスしたらしい。

 スロットルを握る手の中に、もう全ては返されていた。

 

 *


 俺は後方に座るORにこのまま高高度へ挑む旨を伝達する。

 ORは応え、機体は4万フィートまで上昇に転じた。

 これから俺は、初めて天に挑む。

 だがきっと、空は俺たちを静かに見守るだろう。

 セントエルモの光を無事越えた証に、俺を迎え入れるだろう。



 あの刹那。

 審判はおかえりと俺の頬を撫でた。

 その感触は残らなかったけれど、ヘルメットの内側に、やっとと泣いた俺の歓喜が滲んで溶けたのは確かだ。

 ようやっと還るのだと晴天を衝いて、俺は泣いた。

 泣いていた。

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セントエルモの審判 壺天 @koten-3

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