マネージャングル、あるいはほとんど何もない一日

白鉄

マネージャングル、あるいはほとんど何もない一日

 この会議室の天井は白すぎる。

 ロウアー・イースト・サイドの片隅にある古ぼけたビルの中でイサカは天井の明かりを眺めながらぼんやり考えた。電球色ではないとはいえ、ごく普通のLEDの明かりがなぜだかいつもより真っ白にみえる。


 会議室の中にはまだ数えるほどの客しかいなかった。本番十五分前にも関わらずスタッフたちがのんびりしていることが本日の講演会の人気を物語っている。

 イサカの隣では人懐っこい笑顔を浮かべた初老の男性が早口でまくしたてている。イサカはほどほどで切り上げるつもりだったが、老人があまりにも熱心に話してくるので付き離すことができず、つい聞き流して別のことを考えてしまっていた。


「ヒロさん分かりました? とにかく限度まで借りるべきですな!」


「……そんな、ロムルダーさん……、僕にはとても……」


 ロムルダーの力強い声に、イサカは現実に引き戻されたように部屋の天井から隣に座る老人に視線を移した。だがすぐにまた視線を床に落としてしまう。できることなら席を立ってどこかに行きたかった。


 ロムルダーは小柄だが恰幅がよく、良く整えられた綺麗な白髪をしていた。頬はふっくらとして肉付きが良く、湯上がりのように赤みがかっており、髪の白さとは対象的だった。一方で老人の愛想よく人懐っこい笑顔にはなぜか作り物めいた清潔感が含まれているように感じられた。明らかなのはロムルダーが常に話し相手を必要とするタイプの人間であるということだ。


「ウィルでいいですよ」ロムルダーはにこやかに言った。

「大丈夫、金利はずっと上がらんですから」


「でも……やっぱり……」


 ロムルダーは何を馬鹿な、と言わんばかりに目を見開いて

「ヒロさん、もう一度よく考えてください。世界中どこもマイナス金利なわけです。マネーの期待リターンもインフレ率も低いですから仕方ないです。一方で使い途のないお金は市場にだぶついておる。もう無理やり需要喚起するしかないわけです。結局は富めるものがより富む政策で意味のないことだとは皆分かっておるわけですが、仕方ないわけですな」


 イサカは眼鏡を押し上げると、黙ってロムルダーがしゃべるのを聞いていた。


「この国ですらインフレ率は0.5%もないです。ここ十年はずっと需要喚起策の減税施策を打ち続けておる。無駄なことですがな。ともかく今回の住宅不動産税制の改正で、元本は3億ドルまで、投資案件も対象となっった。しかも利子分ではなく、残額から1%固定から控除されるように変更になった。つまり1%未満の金利だったら、借りれば借りるほど得をします。これがどういうことか!? つまり限度まで行くしかない!そうでしょう?」


 ロムルダーの口調に次第に熱が籠もる。ただでさえ赤い頬がさらに紅潮しイサカの服に唾がとぶ。


「でも、この辺も大分変わったのでは? 企業は次々と本社を売却しているといいますし。空室率が上がってると聞きます。投資としてどうなんでしょうか?」

 ロムルダーの話を黙って聞いているだけだったイサカがようやく口をはさんだ。本当は話題を変えたかったのだが、何を言ってもボールを壁にぶつけるようにすぐに言葉が手元に戻ってきてしまうため、つい会話のキャッチボールを続けてしまう。


「だからですよ、ヒロさん。人口減少時代ですし、たしかに高収益企業はバーチャルオフィス化しておりますが、逆にマンハッタンには世界中から低中所得層――失礼、普通の人々が集まっておる。最近では求職している地域は極一部ですからな。なのでこの辺のそれなりの小規模住宅は今が底値でまず下がらないです。もちろん、地域や物件にはよりますがな。とにかく、今はお金を借りる、不動産を買う。しばらくしたらそれを売ってそれを元手にもっと高い不動産を買う、そして今度はそれを元手にもっと高く。政府も再開発でそれを支援しておる。すぐになさるべきです。爆速でね」 ロムルダーは大げさに手を広げながら言った。


「この辺ですか?」

「そうですな、間違いないと思いますよ。大丈夫、私がアドバイスしますよ!」

「たとえば、僕の故郷はどうでしょう?」

「もちろん、もちろん悪くないです。いいところです。私が保証しますよ。しかしそうですなあの辺りは、その投資には向かんですな。もちろんいいところですがね」

「十年後には?」

「二、三〇%程度になるのではないですかな。もしかしたら半分くらいかもしれませんが。そこはなんとも」


 イサカは少し俯いて、分かりました、と答えたあと、


「ウィリアムさん、やっぱり今は時間がとれないんです。せっかくこっちに来るチャンスを掴んだのでまずは本業に力を入れたいんです」


「そうです、あなたはチャンスを掴んだんですよ。上手くこの国で職を得ることが出来た。それはとてもラッキーなことですよ。もちろんあなたが優秀である、という証明でもあります。あなたはまだお若い。三十九でしたっけ? 人生の半分も過ぎていない。私のような九十過ぎた人間とは違います」


 ロムルダーは深々と頷きながら、

 もちろん私もまだまだこれからですがな、と付け加えた。


「ウィリアムさんも買われるのですか?」

「もちろんです」 


 イサカは相変わらずロムルダーの素早い受け答えに対応できなかった。戸惑いの表情を浮かべると、相手の言ったことを自分の頭に浸み込ませるようにしばらく沈黙する。


「ウィリアムさんは……成功者じゃないですか? 

 今はお住まいもニュージーランドなんですよね。失礼ですがこれ以上何を?」

 イサカは少し間をとってからおずおずと訊ねた。


「もう、ニュージーランドじゃないです。ニューアイランドですな」

 ロムルダーは小さく手を振って訂正した。小さな虫を追い払うようなゆっくりとした振り方だった。


「そうでしたね……。僕にはとても考えられないところです。……というか信じられないですよ。個人主権者の方とお話できるなんて」


 ロムルダーは、控えめに小さく笑うと、

「まぁそんな大したものでもないですな。今日は古い友人に会いに来たんです。なかなか連絡が取れないもんですから。とにかく資産は増やせるときに増やしておくべきです。お金というものはですな、あって困るものじゃないですよ。

 違いますか、ヒロさん?」

「いや、それはそうかもしれないですけど……」

「それに楽しいじゃないですか?」

「何がです?」 


 イサカの質問にロムルダーは無言のまま微笑んだ。大体このウィリアム・ロムルダー老人はいつも笑みを浮かべているのだが、丁寧な微笑から、適度に抑制された満足の笑みまで、十種類くらいの笑顔のバリエーションを使い分けているようだった。しかしこのときの微笑はそのどれにも属していないようだった。あえていえば淫らとでもいうべき微笑みだった。


「ヒロさん、もし良ければ私が良い担当者を紹介しますよ。何、気にしないで、私は日本に住んでいましたから、日本の方は大好きですし、ヒロさんは同好の士ですから」そういってロムルダーはぐいっと顔をイサカの方に近づけた。


「いやぁ……、あ、見てください、講演が始まるようですよ」


 そう言ってイサカは会議室の正面に設置されたステージを指差した。


 講演開始を告げる影ナレが入り、袖から鼈甲色の眼鏡をかけた長髪の老人ウルリッヒ・ナイサーがおぼつかいない足取りでステージに入ってくる。

 イサカはウルリッヒ・ナイサーを写真や画像では何度も、それこそ牛が反芻するように繰り返し見たことがあったが、実物を見るのは初めてだった。ウルリッヒ・ナイサーは肩先までかかっている長い髪こそ黒いものがいくらか残っていたが、顔の大部分を覆う口ひげ顎ひげは真っ白で、眉間の皺は深く、頬はこけ、肌は一ヶ月はおかれたままのオレンジのように干からびていて、かびでも生えてそうに見えた。


 ナイサーがよろけそうな足取りで登壇すると会場から大きな拍手が広がる。まばらな人数にもかかわらずまるで会場が満員であると錯覚するような大きな拍手だった。イサカも手を叩きながら、何度か『ウル』と叫んだ。周囲にも同じように『ウル! ウル!』とコールする声がこだまして会場中に広がっていった。


 ナイサーはよろよろと演壇に立つと、軽く会釈して、どうも、と低い声で無愛想に挨拶した。明るすぎる会場の照明が、無機質な会場の壁を眩しすぎるぐらい照らし、イサカは今が夜だということを忘れそうになる。



 *



「僕はウルリッヒ・ナイサーの大ファンだったんです」とイサカは言った。

「僕がまだ小学校低学年、八歳くらいのときかな。親が持っていたものを聞いたのがきっかけでした。親は不在のことが多かったので、僕は親のコレクションを勝手に聞いていました」

「親のコレクション?」と私は首を傾げて訊いた。

「普段はタブレットを使って動画サイトで聞くことが多かったんですけど、親父はCDコレクターだったんで」

「今では音楽を聞くのも結構お金かかるものね」

 私はそう答えると、手にしたグラスを傾ける。シャルドネのキリっとした酸が口の中に広がる。そう言えば音楽をちゃんと聞いたのはいつだっただろうか、と考えながら。

 今では音楽を全部フル尺で聞くのにもかなりの金額がかかる。曲は秒単位で、ライブは高額のオークションで権利を落札する必要がある。音楽は一部の富裕層向けの娯楽になり、インディーズや海賊版以外は簡単に聞ける時代ではなくなった。音楽家の生活も苦しくなり、一部の人気ミュージシャンや作曲家はロムルダーのような独立主権者のお抱えになって暮らしているとも聞いている。

「講演会の次の日が僕の四十歳の誕生日だったんです」イサカは言う。

「ほとんどの音楽家が新作を出せる時代じゃなくなって、ウルも音楽シーンから姿を消してましたけど、作曲家としての活動を続けているのは知ってました。以前のような大編成のものはなくなりましたが、一人でやっている個人配信も大体手に入れてましたし。それが今度は政治活動を行うというのだから驚きました。オンライン配信もないって言うしこれは聞きに行かなきゃと思って、行ったんです」 

 そう言うと、イサカは苦笑しながら

「僕と同じ考えの人はあまりいなかったみたいですけど」

 と付け加えてグリーンアップル&シナモンのフルーツソーダを飲んだ。

 イサカは下戸らしい。

「そうかしら」 

 私は愛想笑いを浮かべながら僅かに首を傾げた。そう、私とは違う。



 *



 イサカの誕生日の一日前の夜、あと五時間でイサカが四十歳になる日、ナイサーが演台に立って手を上げると、拍手と歓声はひときわ大きくなった。

 その夜の講演会の主題は音楽オークションとそれを運営する事業者団体による審査の完全撤廃だった。さらにナイサーはニューヨーク市長選挙に出ること、当選した暁のニューヨークの分離独立を主張しており、その公約にも触れるのではと噂されていた。


 イサカは席から立ち上がって拍手をすると、心持ちロムルダーとの距離をとってから眼鏡スマートグラスのつるのスイッチを押して新着メッセージを確認した。あと五時間で四十歳になるということもあって、日本からもいくつかのメッセージが届いていた。イサカはいくつかの新着メッセージをざっとチェックしていたが、その中のひとつに目がとまると眼鏡スマートグラスを操作する指先が止まり動かなくなった。イサカは眉根を寄せ、困惑した表情を浮かべながら新着通知がついたアカウントをタップした。メッセージログが目の前に投影される。


 trkkkkr :今日、発つのか?

 isahiro :そう

 trkkkkr:新自由主義は亡国の思想だよ。

 trkkkkr:政府にはまだまだできることがある。そのことを忘れるな。

 isahiro :民間は疲弊してるってやつ?

 trkkkkr :そうだ

 isahiro :GDPが毎年こんなに下がっているのに無理があるんじゃ?

 trkkkkr:政府が供給を増やさないから、需要が増えないんだよ

 isahiro :政治活動するなら選挙に出たら? 本を書くとか

 trkkkkr :俺はネットの力を信じている

 isahiro :そろそろ搭乗時間だ。また今後。

 trkkkkr:ああ

 trkkkkr:  


 新着メッセージは空白だった。

 イサカがタカシと最後に連絡をとったのは一年前。イサカの三十九歳の誕生日、イサカがアメリカに発った日のはずだった。渡米後は忙しかったし、タカシと急いで連絡をとるべき話題もなかった。

 タカシと直接会ったのは六年前でそれ以降顔を合わせることはなかった。タカシは五年前に委託契約を切られた後は、定職につかず給付金で暮らしていたが、タカシは毎日ネットに大量に投稿し、それ以上に他人の投稿をシェアしていた。なのでイサカはタカシと顔を合わせなくてもなんとなく彼の動向は分かっていた。分かっているつもりだった。彼は自分のフォロワーの間では人気者だったし、日々リプライを返し合っていた。普段、業務に必要なやり取り以外ほとんど会話らしい会話をしないイサカよりも他者とのコミュニケーションの頻度は多かったかもしれない。



 *



「タカシは、五年間ほとんど自分の部屋にいたんです」とイサカは言った。

 私たちが座るカフェのテラス席に初夏の日差しが降り注ぎ、コンクリートの床に眩しいほど照りかえる。


 イサカはふとしたきっかけで、今年の誕生日の前日に起きた出来事について話を始めた。ウルリッヒ・ナイサーの講演会に行ったこと、そのときに旧友からの連絡があったような気がしたということについて話をした。


「その人からメッセージがあったの?」

「ええ、でもタカシはちょっと事情があって……。メッセージなんて来るはずもなかったんですが」

「事情?」

「タカシは二週間前に亡くなっていたんです」

「……残念ね」

「はい……」


 会話が途切ると私とイサカはしばらくの間食事に集中した。私は食事をしながら目の前のイサカをちらりと見る。

 私にとって目の前のイサカは優しそうではあるが、ぱっとしない小太りの男性。それ以上でもそれ以下でもなかった。彼の体格はプロフィール写真の二割増しだった。ぱさついた髪をごく適当に短めに切りそろえていて、安っぽいプラスチックの眼鏡フレームが黒く光っている。

 ただ、彼は腕利きのソフトウェアアーキテクトではあるし、英語の能力もなかなかだった。加齢調整にもしっかり取り組んでいるようで、まだ二十代後半から三十代前半に見える。見た目以上の努力家であることは間違いなかった。

 しかしたとえ彼が独立個人であったとしても

――彼と寝るのはちょっと無理

 としか思えなかった。


「そもそもタカシとはしばらく連絡もとっていなかったので……。

 そういうのってありませんか。ふとしたきっかけで疎遠になってしまう友達というか」


「あるかも知れないわね」

心当たりがありすぎた私は曖昧に返事をした。そのようなことはしょっちゅうだ。


「タカシはもともとはゲームの配信やエンタメについて投稿したのですが、業務委託契約を切られてからは、政治や経済の話が多くなりました。昔は僕も彼とネット上でちょくちょくやり取りしていたんですが、ここ数年はほとんど連絡をとっていなかった。自分の仕事や勉強が忙しかったですし、それに……」

「それに?」

「彼や彼の周りの、自分たちは物事を俯瞰して把握出来ているという態度にうんざりしていたのだと思います。だってタカシは大学卒業後ずっとコンビニで働いていたんですよ? それが悪いってわけじゃないですが、それがいきなり一流プロフェッショナル気取りって普通に考えておかしいじゃないですか?」

 私が、そうだね、と答えるとイサカは言い過ぎたと思ったのか恥ずかしそうに声のトーンを落として

「それに結局、匿名のネット民が天下国家を論じたところで影響を与えることなんてないと思うんです。だから僕は言ったんです。君が影響を与えるような立場になったら、と」

「ウィリアム・ロムルダーのように?」

 私が、そういうとイサカは苦笑した。私もつられてつい苦笑いを浮かべてしまった。どうもイサカの笑いは生理的に受け付けないところがある。

「でも当時のウィリアムさんはかなり苦しかったじゃないかな? 彼のファンドRINGABELLも当時出資してたファンドが追証払えなくてその穴埋めで大変だったみたいだし。だからこっちに出てきたのかもね」

「そうかもしれないですが、結局のところ、僕には分からないです」

「でも、いい人だったんでしょ?」 

「そうですね、彼とは共通した趣味があったということはありましたが……親切だし、悪気のない人ではありました」



 *



 ナイサーの講演会は予定を大幅に超過して三時間ほどで終わった。

 テーマは『社団法人による検閲の完全撤廃』から始まったが、途中から話は脱線し、世界企業や富裕層の税金逃れ、SNS原理主義者への徹底的なおちょくりに発展し、予定時間を大幅にオーバーしていた。意外なことに選挙の話は全くでなかった。ナイサーは喋りだすと、ステージに出てきた時のヨレヨレの姿が想像つかないほど背筋はシャンとし、目は爛々と輝きはじめ、熱い語りはいつ終わるともしれなかった。彼の音楽と同じように。


 講演が終わるとナイサーは軽く頭を下げ、舞台の袖に消えていった。

 イサカはナイサーを追って会議室の外に出ると、会議室の裏手でナイサーが数人の支援者に囲まれていた。イサカはシャイな性格で三人以上の人間がいる場所では、自分は存在しないものとして扱われるのを好むような男だったが、今日はどうしても、一言でも、ナイサーと話がしたかった。イサカが思い切って足を踏み出したとき、ロムルダーがするりとイサカの脇を抜けて囲みに近づいて行った。ロムルダーは囲みの外からナイサーに合図めいた目くばせをした。それに気づいたナイサーは支援者に、ちょっと、と声をかけると囲みを抜けた。


「ウィル……?」

「久しぶりだね、ウル。こうやってちゃんと話すのは何十年振りかな」

 ロムルダーは手を広げながら満面の笑顔で言う。

 心底幸せそうな笑顔だなとイサカは思った。

「お互いさまだが、大分変わったね。ハーバードにいた頃は君が前衛音楽家になるとは思っていなかったよ」

「前衛? 個性的なだけさ。まぁ昔より髪は伸びたかな。ところで、今日はどうした?」 

 ウルは白髪混じりの長い髪を掻き上げると、眼鏡を一度外してかけ直した。


「いや、まったく君というやつは。メッセージをいくら送っても反応しやしない。それで直接話しにきたんだよ。君の顔も見たかったしね。どうやら君は私と同じ主張をしていると聞いたので是非拝聴したいと思ってね。いや、素晴らしい講演だったよ」

 そういうと、ロムルダーは握手を求めて手を差し出した。


 ナイサーはロムルダーの差し出した手をちらっと眺めると、その手をがっちりと握った。


「ウィル、元気そうだな。莫大な金を稼いだやつらは慈善団体を作ることしか興味がないと思っていたんだが。一緒に乳首にサラダ油を塗り込んで乗り込むか?」

 ナイサーは笑ってロムルダーの手を握りながら、ロムルダーの隣にいたイサカの顔をちらりと見た。イサカはナイサーの視線を受けてドキッとしたが、顔には出さなかった。一方のロムルダーはナイサーの軽口を意に介していないように

「ウィル、今日は君に相談があってね」

 ロムルダーはそう言って、腕にはめたスマートブレスレッドのスイッチを押した。ナイサーとロムルダーの間に事業計画書のような資料が投影される。

「実は、私も君のニューヨーク市長選挙の支援者の一人になろうかと思っているんだ。君は現職のマックスを批判しているだろう。私もマックスの事が嫌いでね。支援を検討していた対立候補の知り合いがいたんだが、君の方が私の主張に合うんじゃないかと思ってね。ニューヨークの分離独立や国連改革も大変興味深いしね。どうだろう、私に君を支援させてもらえないかな」

 ロムルダーはそう言った後、彼の十種類の笑顔から、もっとも人懐っこいものを取り出し「また学生時代のように、一緒にね」とにこやかに言った。

「たしかにお前には、ぴったりだ」ナイサーは考えを巡らせるように髭を触った後「お前のような最高のエンターテイナーにはな。政治は最高のステージだろうよ」と言った。

「ウル……、私は本気だよ。君がメインメンだ。私じゃない。そうだ、私達で革命を起こすんだよ、規制が一つもない社会、最高じゃないか。そのうち国境もなくなる。国家の管理もなくなるんだ」


 ロムルダーの言葉にまた熱がこもり始め、たっぷり油が入った汗が額を流れる。ロムルダーの年齢に似合わない脂ぎった肌が汗で油を引いたように光っていた。


「それで、何がおこるんだい? ウィル?」ナイサーはロムルダーから飛び散った汗を手で拭いながら、低く冷静な声で応えた。


「革命だよ。革命!君にも分かるだろう。昔から私たちが取り組んできたことさ。私の投資先にイルという人間がいるんだが、彼はいうのさ『国家を超えるプログラムがもうすぐできる』と面白い、面白いじゃないか?」

 喋りながらロムルダーの顔はどんどん紅潮していった。イサカは隣で一言も喋らずに黙って二人のやり取りをじっと眺めていた。ロムルダーが”革命”という言葉を一体何回使ったのかを考えながら。


「それでどうなるんだ?」

「『いい』だろう? 面白いじゃないか? 国家を超えるシステムだよ。世界はより自由になる。そして私たちは競争から自由になるのさ」


 イサカから見てもロムルダーの熱意は本物だった。ウィリアム・ロムルダーは自分の言葉を本当に信じているのだった。彼は他人を騙すという意味での詐欺師ではなかった。しかし――

「ウィル、お前は友人だから言っておくが……三つの理由がある。」

 ロムルダーの演説を眉一つ動かさずに聞いていたナイサーはまだ言葉を続けようとするロムルダーに手の平を向けて遮ると、ため息まじりに言った。

「一つ目はまぁお前の言う革命ってやつだな。昔俺たちが学生だったころ、お前の言う革命の結果、それで何が起こったか? ってことだ。

 二つ目はお前は自分のゲームに夢中すぎるってことだ。お前はワーカホリックだし、アクティブな男だが、昔から本当には何も信じていない奴だった。

 三つ目は俺自身の話だ。……俺はお前らリバタリアンとは組まないよ。あの糞ポピュリストが好きだってことじゃないぜ。ああいう連中を俺は心の底から憎んでるよ。ただ俺は大事なことは自分自身の声に従って生きていたいのさ。」


 ナイサーはそう言ったあと、

「自分自身を特別だと分かってるやつら、極まともだとおもってるやつら、世の中を俯瞰して見れていると思っているやつら。お前みたいなアクティビストだけじゃない、電脳空間の中に潜む貪欲なアホどもでもない、自分自身の良心――いや”狂気”を持っているが、無難なありきたりの部分に置きかえてしまっている人々。そういう人の為に俺は曲を書いていくよ。ウィル、お前の幸せを心から祈っている」

 それだけ言うと、ナイサーはロムルダーに手を振り背を向けると、他の支援者の中に戻っていった。


 ロムルダーはナイサーの背中に向かって声を掛けるが、ナイサーはロムルダーに背を向けたまま周りの人々と通路の突き当りを曲がって消えていった。ロムルダーはナイサーの姿が見えなくなった後、ほんの一瞬俯いたが、すぐに顔を上げた。ロムルダーはイサカの方を振り向いて「ヒロさん」と自分の手持ちカードの中で最も明るい口調で呼びかけた。


「まったく彼は昔から――」

 イサカは無表情にロムルダーの声を聞いていた。今のイサカにとってロムルダーの声はエレベータミュージックのように何の注意も喚起しなかった。イサカは全く別のことを考えていた。それはタカシのことだった。その時彼の眼鏡が小さく揺れた。それはイサカがフォローするユーザーがコミュニケーションサービスに投稿した通知だった。イサカはロムルダーの言葉を無視して眼鏡スマートグラスのスイッチを押し、アプリを起動した。目の前にはタカシの二週間前の投稿が映し出されていた。


 ――われわれは、政府の行動を監視していかなければならない――

 ――予算の出し渋りが諸悪の根源なのだ。金を出せ。みなの命を守れ――


 それは彼の最後のメッセージだった。ここ数年来家からほとんど出ずに暮らしていたタカシ。自宅の中古パソコンの前でグミの食べすぎで死亡した彼が現実世界からいなくなってからもう二週間、ネットでは彼のことを思い出す人間などいない。


 イサカは画面を見ながら口元を緩め薄く笑うと、つぎの瞬間、自分の眼鏡スマートグラスを握りしめ地面に向かって投げつけた。フレームがひしゃげ、液晶が粉々に砕けて周囲に飛び散る。大きな破砕音が鳴り響くと、通路で撤収作業をしていた数人の会場スタッフが驚いてイサカに向かって一斉に視線を向けた。

 イサカはポカンと口を開けたまま立ちすくんでいるロムルダーに向かって何も言わずに中指を立てると、そのままナイサーが消えた通路の奥に走っていった。ナイサーの姿はもうそこにはなかった。イサカは通路にある非常階段の扉を開けると、非常階段を駆け降りた。もう何もかも放っておいて、どこか遠くへ行ってしまいたかった。



 *



「不思議ね」私はイサカの話に曖昧な返事をしながら、私だけ頼んだ食後のエスプレッソを一気に飲み干した。スペシャルティコーヒーらしい酸味が少しはあったが、あまり感じられなかった。しかしそれは一応エスプレッソではあった。


 イサカの話は、死んだはずの旧友からなぜか通知が届いたところで終わっていた。微妙な話だなという以上の感想は持てず、どのようにコメントすればいいか持て余していた。

「でも、憧れの作曲家と会えたなんて素敵ね」

 私はイサカの話が終わった頃合いを見て無難にまとめたあと

「そろそろ行きましょうか」と言って席を立った。

 イサカが会計のために取り出した情報端末スマートデバイスは真新しかった。私はそのことについて話題を振ろうかと思ったが、結局やめた。


 イサカと一緒にランチの会計をして店を出ると、そのまま二人で晴天のセントラルパークを散歩することにした。

 外は素晴らしい天気だった。雲一つないくらい晴れきった日差しの中、二人とも無言のまま歩き続けた。私は、今回も失敗だったな、と思いながら、どこで散歩を切り上げて別れようかと考えていた。

 私とイサカが噴水の前にさしかかった時、噴水の向こうから一人の老人がこちらに向かって歩いてくるのが見える。陽の光は穏やかに照り続け、噴水の水面に反射した光が眩しく目を射るが、老人の背後には陽射しが曇るほどの影のようなものが立ち込めていた。それは死の影といっても差し支えなかった。

 無言で隣を歩いていたイサカは老人の姿を認めると、驚いたように

「ナイサーさん?」と声をあげた。

 と同時に老人の方に駆け寄って、呼びかける。

 

 私は、イサカの様子を眺めながら、あの老人が作曲家のウルリッヒ・ナイサーなんだと考えていた。私はウルリッヒ・ナイサーの名前を聞いたこともなかったが、イサカから聞いていた精力的に講演している姿とは、まるで違っていた。目の前の老人は体を動かすのもやっというようなおぼつかない足取りで、明るい日差しに照らされたぼさぼさの髪は白いものが目立ち、乾いた艶のない肌は想像以上に老いを感じさせた。

 イサカはナイサーに近づくと

「先日の講演会に参加したイサカです。貴重なお話をありがとうございました。お体のお加減はいかがですか?」と言った。

 ナイサーは側に来たイサカの顔を見つめ、低い声で、ああ、と答えたのち

「もちろん、もうすぐ死ぬよ。他のみんなと同じように」と淡々と答えた。

 言葉の通りナイサーは今にも死にそうな顔つきをしていたが、眼だけが老いた鷹のように鋭く光っていた。

「講演会の後、あなたとロムルダーさんが話しているのをやり取りを聞いていました。失礼ですが。あなたのお考えをもう一度聞かせていただくことはできますか」

 柔らかな陽射しの中、ナイサーはゆっくりとイサカから視線を逸し周囲の樹木を見上げながら

「自分の夢を語り聞かせたいってやつがいたとするよな。それがどのような形でなされるかというと、たいていは誰でも思いつきそうなクソみたいなたわごとでできた感動の超大作を聞くチャンスを頂戴する羽目になるってのがオチだ。今や、誠意の欠如が、むしろ普通となっているように俺には思える。統計を取ってみれば、誠実な人の方が多いのかもしれないけど、誠意のかけらもない、ごく少数の連中が全てをコントロールしているため、バランスがひっくり返されている」

 一気呵成にそこまで言うと、ナイサーはイサカの顔に視線を戻した。

「それは、俺たち自身のせいでもある。立ち向かい、時には仕返してやることも必要だ。悲惨な目に遭わせてやらないとな」

 ナイサーは茶目っ気のある笑顔を浮かべながら「そうじゃないかい?」と言った。

 イサカはなんと答えればいいか分からず、そうですね、と曖昧な返事を返すだけだった。

「これくらいにしておこう。話ができて楽しかったよ。あっと、それから選挙への投票を忘れないでくれよ。いつも言ってるんだがこないだは言い忘れたよ」

 ナイサーはそう言うと、イサカに軽く会釈をした。


 私が二人のすぐ近くまで来てもイサカは黙ったままだった。イサカの顔を見ると、イサカは他に何か言うべきことを探しているが、それを言葉にまとめることが出来ていない、そんな顔をしていた。


 私はじっと俯いているイサカを横目に二人の間に割って入るとナイサーに

「最近、何か気になっていることはないですか?」と突然聞いてみた。

 なぜそんなことをしたのか後から考えてみても分からない。でもそうしなければならない、その時はそんな思いにとらわれていた。

 ナイサーはイサカの顔から私の顔に視線を移し、額に手を当てて少し考え込んでから、もう一度イサカの目を見つめると

「大昔、ウィルと飲んでいたとき、彼の背中にゴキブリがいたのさ。でもウィルは全く気付かずに平然と飲み続けていた。背中にゴキブリだぜ?彼はそういうやつさ。とても面白い」と言った。


 それだけ言うとナイサーはイサカと私にもう一度別れを告げ、よろよろと倒れ込みそうな足取りで私たちと反対方向に歩いて言った。

 私とイサカは黙ったままナイサーの後ろ姿を見送った。やがてその後ろ姿は樹木の陰に消えていった。



(了)

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