第19話 本音と葛藤(1)
森に出かけてから数日、クロヴィス殿下から強いアプローチをされたらどうしようかと構えていたが、いつもと変わらない日常が続いていた。
というよりも彼は一日中難しい顔をして机に向かっていて、私に構う暇がなさそうだ。
そう油断していると私が作った菓子を食べては、「特別美味しい」と蕩けるような笑みを向けてくるものだから心臓に悪い。
そういうときに限ってアスラン母子は執務室から姿を消している。
「外堀がもう埋まっているわ」
帰宅して、アスラン夫人に分けてもらったシチューを温めながら、ため息をついた。
緑の館の妖精が研究棟近くにいないことは殿下にもパールちゃんに確認済みだ。プライベートは守られているため、安心してパールちゃんに弱音を見せられる。
「ナディア、逃ゲラレナイ」
「うん……分かっているのよ? これは光栄な話でこの家から離れられるチャンスだということは。きっとお父様も私を追い出せて安心するわ。そうしたら本当にこの家から邪魔者が消えるんですもの」
義母とジゼルがどう思うかは分からない。あんな性格だけれど「面白くない」という理由で、さすがに王家の意向に逆らってまで破談させようとはしないはず。
王家と繋がりが出来るため、むしろプライドの高い彼女たちの自慢話に有益になるはずだ。
そして私は王子妃という盾を手に入れて、身を守ることができるようになる。
「良いことばかりなのよね。私の心が弱いのが問題なだけなの。臆病になってしまうの」
そう言っている間にシチューが温まったので、皿によそう。パールちゃんには小さなココットで用意してあげる。
さぁ食べよう――椅子に座ろうとしたとき、玄関の扉がノックされた。
義母とひと悶着あって以来の来訪に、身構えた。
「どなたですか?」
「私よ、お義姉様。大丈夫、お母様は来てないわ」
「ジゼル?」
私はそっと扉を開けた。
夜空の下でも輝く蜂蜜色の髪は珍しく無造作で、すみれ色の瞳は細められ、口元には微笑みを浮かべていた。
約一か月ぶりに見る義妹は相変わらず可愛らしい顔で、私を見下すような視線を送っていた。
「なにか御用でしょうか?」
「招き入れてくれないのね。まぁ良いわ。お義姉様が第二王子殿下の侍女になって一か月が経ちましたけれど、各名家の令嬢が途中辞退した中、これほど続いているなんて新記録ではなくて? マスカール伯爵家の自慢だわ」
「……それは良かったです」
「命じられた仕事の内容の噂を聞いたけれど、ここで掃除や洗濯を経験して良かったわね。私のお陰だと思わない? 折檻ではなく、お義姉様に掃除をやらせた方がいいとお母様に進言したのは私なのよ」
痛い思いをするよりは良いわよね――という幻聴が聞こえた。背中に冷たい汗が伝う。
「私に何をお望みですか?」
「ふふ、そろそろお義姉様には殿下の侍女を辞退してもらって、私の専属の侍女になって欲しいの。狂犬と呼ばれる恐ろしいお方から離れられるし、こんな小屋のような家ではなく本邸に綺麗な部屋を用意するわよ」
「……ジゼルに何の利点があるのでしょうか」
そう問うとジゼルは頬に手を当て、悩ましい表情を浮かべる。
「たくさんあるわ。お母様は意地を張って不要と言っているけれど、私はお義姉様が作る美容クリームが欲しいの。もう他は使えない……それにすぐに暴力を振るうお母様を止めるのも疲れたのよね。お義姉様が貴族籍を抜けて、侍女になれば主従契約の法律が守ってくれるわ」
過去に貴族から使用人に対する暴力が問題になり、使用人を保護する法律ができた。大きな怪我が伴う暴力はもちろん、小さなものでも日常化していれば貴族を罪に問えるもの。
家族間同士の暴力よりも、使用人の方が法律上守られているらしい。
貴族籍を抜けるためには特別な犯罪歴がない限りは本人の明確な同意が必要。だからジゼルが私を直接説得しに研究棟まで足を運んだのだという。
しかも彼女の侍女になれば、今殿下から貰っている額よりも多く出すとジゼルは言った。
「嘘だと思ったら法律を調べてみたらいいわ。私は欲しいものを手に入れて、煩わしさから解放される。お義姉様はお母様から怯えることなく、お金も手に入るの。お母様もお義姉様が他人になれば落ち着くと思うのよね。素敵な提案でしょう?」
「お父様は賛成するでしょうか? 私がこのまま殿下の元で働いていた方が、王家への忠誠を示すことになり、伯爵家の名に箔がつくと判断しそうだけれど」
長いものに巻かれよ、と楽な方へ傾く父がこの状況をあえて変えそうには思えない。
「……そうね。お父様は説得が必要そうだわ。けれどもお義姉様が殿下の元で働くのがつらいと、このままでは粗相をして怒りを買いかねないと泣けば、慎重なお父様は問題が起こる前に手を引くはずよ。陛下には自信喪失による貴族の責務が負えなくなったと伝えればいいのよ」
まるで最適解と言わんばかりの自信だ。
ジゼルは無邪気に笑い、「今からお父様のところへ言いに行きましょう」と私の手を握ってきた。
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