第53話 忘れていた約束

 買い物をしているうちに外はすっかり暗くなっていた。夕食をどこかで取らなければ、と私はにわかに焦った。

 とりあえずこの大量の土産を宿屋に置きに戻ろう。私は買い物を抱えて広場を歩いた。


「重そうだな。持つよ。」


 聞き慣れた声がして、弾かれた様に振り返るとセルゲイがいた。

 彼は神官服でも騎士の服でもなく、珍しくかっちりとした私服を着ていた。白地に水色とグレーのストライプが入ったシャツはシワ一つなく、まるでアイロンしたてをそのまま着たみたいだった。セルゲイがボタンを一番上までしっかり留めているのを初めて見た気がする。なんだ。イメチェンでも計っているつもりか。長い黒髪は後ろの高い位置で一つにまとめられていた。

 彼の身を今飾るのは私があげた銀の指輪だけだった。そんなセルゲイをこうして広場の喧騒の中で見ると、とても大神官には見えない。大陸一大きいこの国の信仰と崇拝の対象であり、絶対的な宗教指導者というより、彼は私にとって、やはり単なるセルゲイだった。

 どうしてここに、と聞こうとして思い出した。そうか。多分今、七時なんだ。広場で待っているとの伝言をアレンが伝えたのだろう。あの後の衝撃ですっかり忘れていた。


「もう、来てくれないかと思っていた……。」


 いやいや、そのつもりだったんだけど、っていうか今通りすがっただけに過ぎないんだけど……。

 セルゲイは心底安堵した様子だったので、私は黙っていてあげる事にした。代わりに、抱えていた両手いっぱいの荷物をここぞとばかりに彼に押し付けた。こちらの世界の紙袋は持ち手が無いので、持ちにくいのだ。基本的に、古紙回収で新聞を詰めるみたいな紙袋しかない。なぜ紙の取っ手をつけるという単純で目的明朗な発想が起こらないのか不思議だ。

 セルゲイは突然渡された嵩張る紙袋の束を、取り落としそうになりながらも何とか持ってくれた。


「抜け出して来て大丈夫なんですか?」


 今日長旅から帰って来たんだから、仕事が溜まっているんじゃないだろうか。まあ、帰った日の内に仕事に戻るのも大変そうだけど。


「一時間くらいなら、良いと皆に言われた。」


 皆って誰だ。

 さしずめ、あの円卓にいた、妙に私を怖がっている爺さん達だろう。


「宿は近いのか?これを宿に置いたら、………何か……夕食を一緒に取らないか?エデュなんかじゃなく、ちゃんとした物を食べよう。」


 なぜ私がエデュを食べようとしていた事が、分かったんだろう。まさか大神官の神力はそんなことまで見通せるのだろうか。

 一人でちゃんとしたレストランに入るのは気が引けるが、エデュなら屋台でも買える。その上、パンの中には野菜がたくさん入っているので、栄養バランスもなかなかの筈なのだ。そう考えて、私は今夜の夕飯をエデュにしようと漠然と考えていたのだった。


 私達は宿屋までの道程を二人で黙って歩いた。こじんまりした宿屋の白い扉を開け、木の香りがする短い中廊下を歩く。私がチェックインした小さな部屋に入ると、セルゲイは入り口で一瞬足をとめた。あまりの狭さに驚いたのだろう。

 近いさな部屋の中には寝台と木の椅子が一脚置かれているだけで、尚且つそれだけで部屋の広さはいっぱいだった。

 セルゲイは運んでくれた買い物を寝台の上に乗せた。私達はそのまま何をするでもなく、視線を交わし合った。互いに見つめあった後、セルゲイが私を急に抱き寄せた。私は彼の硬く広い胸にドスンとぶつかり、ぎゅっと腕を背中に回されたのを感じた。

 セルゲイからは甘い上品な香りがした。そういえば、旅の間も至近距離にいた時、時折セルゲイからはこの香りがしたっけ。甘く、けれどどこか大人っぽい野生的な香り………。なんだかこの香りを、どこかで、別の機会に嗅いだ事がある気がする。私はパチパチと瞬きをして記憶を手繰り寄せた。

 一体、いつだろう?

 ……ああ、と思わず吐息が漏れた。

 これはお香の香りだ。かつてキム先生の講義で教わった、大神官のためだけに使われる、高価なお香の。なぜずっと気が付かなかったんだ!!

 セルゲイが大神官だと気付けるヒントはこんな形で転がっていたのに。


「離したくない。離したくないんだ。」


 セルゲイが私をかき抱きながら、熱に浮かされた様に繰り返す。そうして彼は私の額から頬に唇を滑らせると、唇と唇を重ねた。

 私ったらバカだ。

 なんだって別れたばかりの元カレを部屋にあげるみたいな真似をしてしまったんだろう。

 良くない、と頭の片隅では分かっているのに、セルゲイを払いのける気が全然起こらない。そんな未練がましい自分に呆れてしまう。

 ………未練がましい、とかじゃない。そんなんじゃなく、私はまだハッキリと彼の事が好きなんだ……。

 重ねられた唇の隙間から、セルゲイの舌が侵入してきても、私は抵抗出来なかった。正確に言えば、拒絶する気が僅かも起こらず、………それどころか喜びさえ感じている自分がいた。

 セルゲイの舌は控え目に探る様に私の舌の周りを動いていたが、私に彼を拒絶する意思がないと見るや、やがて貪る様に私の口内を踊り始めた。

 激しく絡ませられるその滑りを帯びた動きに、頭の中がぼうっとしてきた。

 そのままセルゲイは私を抱え上げて寝台の上におろした。背中に柔らかいベッドカバーを感じ、はっと横を見て顔を逸らした私の頭を、再びセルゲイは上向かせ、素早く私を組み敷くと、離れた唇を押し付けてきた。私はまた口の中を弄られて話せなくなる前に、言った。


「どうして大神官様なの?……狡いよ、狡い!」


「リサ……。俺を許してくれ。頼む。いや、許してくれなくたって良い。そばに居てくれ。俺はもう、産声の聖地を埋める手伝いを、リサにしか頼みたくないんだ。」


 産声の聖地?

 ああ、そうか。王都の川下りで見た、あのクレーターは結局セルゲイが作った物だったのか。

 私の胸元に頭を埋め、首筋に舌を這わせるセルゲイの頭を私は両手で抱き寄せてしまった。


「自分で自分が嫌だ……好きだよぅ、私、セルゲイさんが、まだ好き。」


 ついに口をついて出てしまった告白を受け、セルゲイは顔を起こして私を見下ろした。その力強い瞳には、一種憑かれた様な衝動的な光が浮かんだ。セルゲイが自分の頭の後ろに手を回し軽く頭を振ると、彼の黒髪が解かれ広がった。

 あ、まずい。

 予感は的中し、セルゲイは私の服を脱がせにかかった。私の着ているワンピースの背中部分にあるチャックを長い指で探り、見事な手付きで下ろし出した。

 セルゲイの手がするりと服の中に滑り込み、私の背中を撫でた。あっ、という声を漏らして私は身体をよじった。その拍子に私の視界に、足元の方に転がる紙袋の束が飛び込んだ。

 みんなへのお土産!

 急激に私は現実にひき戻された。私は何をしようとしているんだ。一時の情に流されて、大変な人物と身体を重ねていた。


「やっぱダメ!」


 寝台に手を付いて起き上がろうとすると、セルゲイに片手で元の位置に戻され、私の頭は再びベッドカバーの上にボスン、と落ちた。


「セルゲイさん、私は明日帰るんです。こんな形でお別れするのは、ダメです。」


 セルゲイを押し退けながら上半身を起こすと、彼はピタリと動きを止めてまるで怒っている様に眼光鋭く私を見てきた。


「分かっている。……そんなのは俺も嫌なんだ……。」

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