008

 どうやら私の歌声は、ヒトの脳を麻痺させる効果があるらしかった。


 私の歌声を聞いたケイの瞳はとろんと溶けそうな、黒鉛筆で斜めに走り書きを繰り返したか後のような、魂のこもっていない眼になっていた。


 人前で歌うなど気恥ずかしい真似を全くしてこなかった私にとって、その現象とは衝撃的な出会いだった。


 だからと言ってケイを利用するわけにはいかない。


「待った待った待ったケイ。ケイ。ケイ。ケイは今催眠状態におちいったようなもので……、簡単に物事を決めちゃダメだよ」


「うん。そうだね。でも決めたんだ。僕はもう大学へは行かない。僕はやらなくてはいけないことを知っている。だから、それをやる。一ヶ月だけ時間をくれないかな。そしたら必ず、メルを助ける。メルがいた世界を必ず救う」


 ああ。

 思った。

 もうこれは止められない。

 幻術にかかったかのように。

 まるで運命に運ばれるように。

 ケイは言葉を紡いでいた。


 それからケイを大学で見ることはなかった。

 そして私も一週間程度で授業へ行くのを止め、図書館でひたすら本を読む生活へと切り替えた。



 一ヶ月が過ぎた。



 ケイから連絡がきた。

『やるべきことは終わった。またアパートに来てくれ。ハイイロに会いに行く』


 ケイのやることとは、『一冊の本を書ききること』だったらしかった。


 まだ『らしい』としか言えないものの、本人は確信を持っていた。


 ケイは能力として書くこと以外何も誇れるものがないと割り切っていた。

 だから辿たどり着いた生きる意味が『一冊の本を書ききること』だった。


 知らなかったがケイは二十歳の頃にオートマの免許を取っていたらしい。


 自動車でハイイロに会いに行くらしい。


 どうやって?


 自殺した私がハイイロに会えたのだから。

 ケイも自殺するとハイイロに会えるのではないかという算段だった。


「ケイが自殺するなら、私もいっしょに逝く。私もハイイロに会いに行く」


 私は選ばれし者の自覚をさすがに持っていた。

 死の経験で死ななかったこと。

 死んでしまって祖国を失ってしまった愚かさ。

 私はもう逃げない。

 それに今はケイがいる。同じく選ばれしものの仲間がいる。





 三時間かけてやってきた先は京都北部、若狭湾。

 海岸沿いに車を駐車し、大きなリュックサックを背負い、岸壁のふちを歩いて行った。


 飛び降りたくはない、とケイは言っていた。せめて原型をとどめたまま死にたいね、そう言っていた。


 岸壁の淵で、私たちは両腕両脚におもりを付ける。

 七月初夏の穏やかな海だった。小魚が群れを成して泳いでいる。ヒトデもいる。ウニもいる。


 私たちは生命の祝宴のなかをゆっくりと歩いて行った。



 頭の先まで海に浸かって三分ほどたっただろうか。ケイが私を抱きしめた。


 私も抱きしめ返した。このまま硬直するのならば、白衣と黒衣を身にまとった、海に沈んだギリシア彫刻のようになれるのかな、なんて思った。


 それは図書館で見た、地球の美しい光景の一つだった。



 意識が朦朧もうろうとし始める。

 波に揺られる意識の中で、視界が黒い泡でポツポツとさえぎられていく。


 黒い泡と自然の光の白が調和し、混濁する。

 視界が灰色になったとき。


「ワタクシに二度も会うのは歴史上あなたが初めてです。メル・アイヴィーさん」


 例の山高帽が現れた。

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