第10話 道場の夏合宿
「買い物かい」
姉様から言われた買い物の帰り道、土手の端に咲いていた小さな白い花を見ていたら、後ろから首筋を撫でられ、背中がゾワリと震えた。
振り返ると、姉様の客が儚げな笑顔で佇んでいた。普通の人が見れば優しそうな顔、でも私には貼り付けただけの表情に思われて、見え隠れする残忍な光を宿した目に恐怖した。
「はい、あの、急ぎますので」
「あぁ、私も……のとこに行くのだよ。荷物を持ってあげよう」
「滅相もございません。女将に叱られてしまいます」
私は荷物を抱えてジリジリと後退った。この客に何かされた訳じゃない。口調も態度も、いつも穏やかで紳士的だ。それなのに、その瞳だけは客の態度を否定する。自分をいたぶった父親と同じ澱んだ瞳。
私はバッと身を翻すと、一目散に駆け出した。
★★★
合宿所は海辺の廃校になった小学校だった。校庭から階段を降りればすぐに砂浜で、目の前には海。やった、海水浴だと思いきや、海水浴シーズンは先週で終了していた。
入ってもいいけど、クラゲに気をつけて……って、そんなこと言われたら入れないよ。
道場の子供達は、水着で波打ち際で足を濡らしてはしゃいだり、砂浜で遊んだりしてるけどね。
「かき氷作るの手伝って」
首からタオルをかけた花岡君が、買い物袋を両手に下げてやってきた。
私と花ちゃんは合宿所について荷ほどきをしてから、砂浜に下りる階段に座って子供達を見つつ海を眺めていた。
初心者と子供達の練習は朝練と夕練のみ。昼間は有段者が練習するらしい。なので、昼過ぎについた私達は、夕練の時間までフリータイムなのだ。
「おーい、おまえら。かき氷食べたい奴集まれー」
浜辺で遊んでいた子供達に花岡君が声をかけると、みんなわらわらと階段を走って上がってきた。
「一、二、三、……みんないるな」
体育倉庫から机とかき氷を作る機械を運んできた尚武君が、子供達の人数を数えた。
「自分達で好きなシロップかけろよ。ほら、ちゃんと並べ」
手慣れたように尚武君がかき氷を作り出し、私と花ちゃんで器を用意したり子供達に渡したりする。子供達は好き勝手にシロップをかけて、かけ過ぎだと花岡君に叱られたりしていた。
全員に行き渡った後、私達にもかき氷が配られる。
「熱中症対策」
「琴音ちゃん、全部乗せする?」
ラーメンじゃあるまいし。私はイチゴと練乳をかけた。
「二人は水着にはならないの? 」
「でも、海には入れないし」
「足くらいなら大丈夫っしょ。二人の水着姿見たいよな、な、尚武」
「いや別に」
「新作買ったんでしょ? 御披露目しようよ」
花ちゃん談なんだろう。花岡君は新しい水着を買ったことを知っているらしかった。
「実は、下には着てるんですのよ。でも恥ずかしくて」
「えー、見たい見たい見せてよ」
花ちゃんはどうしようかしらと、モジモジとワンピースをいじっていたが、少しだけ……と、その場でワンピースを脱いでしまった。
「いかがですか? 」
まさかここで脱ぐとは思わなかったから、思わず目が点になってしまう。花岡君はガン見だし、尚武君は僅かに視線を反らしていた。見ないふりをしてチラ見ではなく、本当に見ないようにしていた。
「すっごい! 可愛いじゃん」
花岡君に誉められて花ちゃんは照れ笑いを浮かべている。
マネキンが着ていたのよりも、花ちゃんが着ている方が破壊力は半端なかった。胸の谷間は鉛筆が挟めそうなくらいだし、引き締まったウエストとチラ見えのお臍はスタイルの良さを際立たせていた。
「琴ちゃんも水着になろうよ」
え?
この横で貧相な身体を晒せと?
「あー、うん。片付けたら行くから、先に下りといでよ」
私は花ちゃん達から食べ終わったかき氷の器を受けとると、いってらっしゃいと花ちゃんの肩を押した。
「いいんですの? すぐに来ますわよね? 和君、行きませんか」
「あぁ、うん」
チラッと私を見た花岡君だったけれど、花ちゃんに軽く腕をつかまれてデレッと笑顔を崩す。うん、胸が当たったんだね。男の子って本当にわかりやすい。
花ちゃん達は階段を下りて砂浜へ向かい、かき氷を食べ終わった子供達もそれに続いてまた遊びに戻って行った。
「悪い、洗い物頼めるか? 俺これしまってくるから」
「いいよ」
私は器を重ねて乗せたお盆を持って手洗い場へ向かった。回りに誰もいないのを確認して、Tシャツと短パンを脱ぐ。どうせ後で脱いで水遊びするのだし、洗い物で濡れてしまうなら水着の方がいいだろうと思ったのだ。それに、花ちゃんみたいに人前で脱いで見せるほどの度胸もない。
どうせ海に入れないし、上にTシャツ着ようかなと考えながら洗い物をしていたら、いきなり背中から首筋まで撫でられた。
「ウギャッ……」
洗い物を持ったまま、思わず横っ飛びして振り向いた。
「あ、驚いた? ごめん。綺麗な背中だったからさ」
「だ、だからっていきなり触らないで! 」
振り向いた先には、ニコニコ笑顔の花岡君がいて、その笑顔は全く悪びれていない。
「花ちゃんは? 」
「なんか、ガキらにつかまって砂の城作ってる。洗い物、手伝うよ」
「もう終わるから大丈夫。花ちゃん一人で小学生八人も見るのは大変だから戻ってあげて」
「大丈夫だよ。あいつら、ここの海は慣れっこだろうし、海に入れないんだから危ないこともないし」
花岡君は笑顔で話ながらも、視線は私の全身を舐めるように見ていて、その視線の気持ち悪さに水着姿になったのを後悔した。
花ちゃんと違って凹凸の乏しい身体を見て、何か楽しいんだろうか?
「僕は、琴音ちゃんみたいにスレンダーな体型が好きだな」
嘘つけ!
花ちゃんのオッパイ見て、にやけていたくせに!
「背中、けっこう開いてるよね。肩甲骨のとことか凄く色っぽい」
うわあッ、ダメだ! 気持ち悪い!
変な目で見られてるのかと思うと、背中のゾワゾワが止まらなくなる。全身に鳥肌が立ちそうだ。
私は濡れた手も気にせず、Tシャツをつかむとその勢いのまま被るように着た。
「あれ、着ちゃうんだ。残念」
「私、洗い終わった器を返してくる。あとスプーンよろしく」
まだ拭いていない器をお盆に乗せ、猛ダッシュで洗い場から離れる。脱ぎ捨てた短パンを回収する余裕もなかった。校舎まで走り、後ろを見て誰もいないのを確認してから速度を緩めた。
校舎の一階にある家庭科室に器を返そうと、校舎の中に入る。
廃校を宿泊施設として貸し出しているが、特にその為に改装などはされていない。食事は家庭科室で自炊、宿泊は教室に畳を敷いてその上に布団を敷いて寝る。廃校の施設は使い放題だから、中高の部活の合宿場として安く貸し出されていた。
家庭科室のドアを開けようとしたら、中からドアが開いて尚武君が出てきた。あまりに近くてぶつかりそうになる。
私が落としそうになったお盆を、器も落とすことなくキャッチした尚武君は、逆の手でぶつかりそうになった私までキャッチしてくれた。つまりは、私は尚武君の逞しい胸に飛び込んだ形になり、転ばないように尚武君に腰を抱き寄せられた……という訳だ。
「ごめん! ありがと」
「危な……、なんて格好してんだ」
ホッと息を吐いた尚武君が、私を見下ろしてギョッとしたような表情になる。
「え……? あ、違う。ほら水着だから」
Tシャツの下に超ミニスカート(実際はミニスカ付きワンピースの水着ね)を履いているように見えたのだろう。普通にこの丈のスカート履いたら、パンツ丸出しだよ。
「ああ、水着」
尚武君はなるほどと納得したようだが、私から手を離すのを忘れているようだ。腰に回された手は温かく、そのホールド感は安定感抜群だ。尚武君に二心がないせいか、この距離感でも嫌悪は感じない。かなり恥ずかしいけど。
「あの、ありがとう。もう自分で立てるから」
「……!! 悪い」
尚武君は、大きく一歩飛び退いた。離れてしまった体温が、ほんの少し胸をチクンとさせる。
「あのね、スプーンは花岡君に頼んだの。花ちゃんが一人で小学生達見てるみたいだから、ちょっと行ってくるね」
「ああ、こっちも片付け終わったらすぐ行く」
「うん、待ってるね」
尚武君に器を預けて家庭科室を出てから、そういえば器を拭いていなかったことを思い出した。海への階段を下りかけ、戻ろうかどうしようか考えたが、スプーンを洗い終わった花岡君が校舎に入って行くのが目に入り、私はそのまま階段を下りることにした。
後で尚武君に謝らないとだ。
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