5分で読める物語『霽れを待つ君』

あお

第1話

 ――それは雨の日のことだった。

「私たち別れましょう」

 彼女は冷めた表情で、僕の前から去っていった。



 僕たちは半年前に付き合った。僕の拙い告白を、彼女は優しく笑顔で受け止めてくれた。

 彼女との出会いは大学のキャンパスで。美麗で流麗なストレートの黒髪。顔立ちは綺麗に整っており美人である。僕の眼を奪ったのは、彼女の笑顔だ。くしゃっと笑うその笑顔は、大人びた顔つきとは、一味違う子供のような無邪気さをはらんでいた。ギャップ萌えなんて簡素な言葉でまとめてたまるか。友人たちと笑い合うその姿は、神でも天使でもない。人間としての暖かさ、心を持つ生物としての温もりに満ち溢れていた。彼女以外なにもいらないと心から思った。彼女が僕の世界の中心となった。

 付き合えた日の翌日、朝起きて大学へ向かう。いつもと変わらない街並みが、道に咲く花が、空いっぱいに広がる青空が、鮮やかな色彩を放って僕の瞳に映り込む。世界はなにも変わっていない。

 変わったのは僕の心。恋の成就は世界の見え方さえも変えてしまうのだ。

「おはよう、風花ふうか

 いきなりの名前呼び。まだ「長谷川さん」の方が良かっただろうか。そんなことを思いながらも、好きな人と結ばれた高揚感が、僕の迷いを吹き飛ばし「風花」という二文字を選ばせた。

「おはよ、まきくん」

 そんな風花は、僕の声に振り返ると、はじめて僕を「牧」と読んだ。何食わぬ顔で、いいのけるその度胸に、やはり女子はこういうものなのかと、自分を恥ずかしく思っていると、風花はさっと顔を俯け、スカートの端をぎゅっと両手で握りしめている。

 なんて暴力的なのだろう。風花から出る可愛さの暴力は、僕の理性を爆発させる。僕は思いのまま彼女の右手を握った。風花は身体を一瞬びくつかせ、握った僕の手を優しく握り返してくれた。

「なんか、恥ずかしいね」

 照れながらも嬉しそうな笑みを浮かべている風花に、僕は隣を歩くだけで精一杯だった。

 それからの僕たちは、喧嘩一つせず、互いへの想いを募らせていった。知らない風花が見える度、僕は嬉しかったし、彼女も僕の知らな一面が知れて楽しいと、手紙に書いてくれていた。



「それなのに、なんで……」

 風花は突然、僕に別れを告げてきた。

 降り止まない雨は、僕の代わりに涙を――いや、僕の涙を奪っていく。もし晴れ晴れとした空が広がっていたなら、僕は人目を気にせず大胆に泣き叫ぶことができたのに。僕の気持ちを見透かしているように降る雨は、そのしたり顔が目に浮かぶようで、ひどく憎たらしかった。


  ***


 風花と別れて一週間が過ぎた。

 僕は少しずつ失恋から立ち上がり、とりあえず目の前にあるゼミの研究に打ち込んでいる。風花と一緒の頃は、授業なんて退屈でしかなかったが、真面目に受けてみると意外と面白い。出会いから新しい生活が始まったように、別れた後も新たな生活が待っていたんだと実感する。

 そんな時、教室の窓から風花が見えた。同じ大学に通っているのだから、キャンパス内にいるのは当たり前だが、僕は目を疑った。風花の隣には、友人の距離感ではない男が歩いているのだ。

「なんだ、あいつ」

 男は背が高く、短く刈り上げた頭に、厚手のジージャン。ぴちぴちのスキニージーンズを穿き、足元は白のスニーカー。お墨付きは首元にシルバーのネックレス。

「そういう、ことなのか?」

 ただ仲の良い友達という線もある。それでも想いの深さが仇となり、裏切られたという感触の方が強かった。

 見ると二人は分かれ、男の方が自分のいる教室があるF棟に入ってくる。

 ちょうどいい、本人から直接聞きだしてやろう。

 教室を抜け、階段を下りる。一階に教室はないのであいつも必ず上がってくるはずだ。

 案の定僕らは二階の踊り場でかち合った。

「あなたは風花のなんなんですか」

 男はいじっていたスマホから、目線を僕の顔へと移した。いかついその顔面は、癪に障ったのかひどくゆがんでいる。

「あぁ? てめぇこそあいつのなんだよ」

 そう聞かれると、立つ瀬がない。しかしここで、嘘をついても意味はないので、真っ向から勝負する。

「風花の、元、恋人だよ」

「あぁ~! おまえがあの!」

 男はニタニタと笑いだす。

「お前も残念だったな。二股なんてかけられて」

「は?」

 いま、なんていった?

「あれ、知らねぇの。そっかそっか、じゃあ教えてやるよ」

 男が僕にぐっと近づき、それは悪魔のような笑みでこう続けた。

「あいつは、俺とお前で二股かけてたんだよ。そんでお前が捨てられたってわけ」

 意味が分からない。

 二股? 誰が。風花が? 俺と、こいつで?

「あぁでも俺いいやつだからさ、いいこと教えてやるよ」

 俺の耳元で囁くその声は、僕を嘲笑う悪魔そのものだった。

「俺がまっさらな、あいつの躰を汚してやったんだ」

 男は一歩下がると、僕の顔を見て大笑いしていた。

「ふはははは! サイコーだったぜ、チョー気持ちよかった。あいつ泣きながら、何度もやめて、やめてって言ってよぉ! 女のやめてはもっとして、だろ? だからへたりきるまでしてやったんだ。真っ白なあいつの身体が、どんどん汚れていってよぉ。こんな最高なことはないぜ! はははは!」

 あぁ、ああ、ああああ、ああああああああああああ!!!!!!!

 こいつっ!こいつこいつこいつこいつっっっっ!!!!!!

 許さない!ぜっっっったい許さない!!!

 俺がどうなろうと関係ない!

 この先の人生なんて知ったことか!

 もうどうでもいい。こいつを殺せれば、もう、どうでもっ!

「牧くんっ!」

 振り返ると、そこには風花が立っていた。

「風花……?」

「牧くん、ごめん、ごめん……っ!」

 風花はぽろぽろと涙をこぼし始める。その涙は止まることがなく、風花は顔をぐしゃぐしゃにして、嗚咽とともにしゃがみ込んでしまった。

「風花……なんで、なんで君が、謝るんだよ……っ」

 風花の前に膝を落とした僕は、悲しみと怒りと悔しさと、もう訳の分からない感情の渦に取り込まれ、風花と共に泣き尽くすほかなかった。

 どれくらい泣いていたのだろう。あの男は気づけば姿を消し、窓の外には多くの学生であふれていた。

「風花、だいじょうぶか?」

 泣き止んではいたものの、まだ顔を手で覆っている風花。

「ごめん、ごめんね、牧くん……」

「だから、もう謝るな。風花はなにも悪くない」

 僕は彼女の身体を抱きしめた。風花の身体は震えていた。

 窓から夕陽が差し込んできた頃、僕らはようやく落ち着いて話ができるようになった。

「さっきの男はだれなの?」

 僕が尋ねると、風花は真っすぐ僕の目を見て答えてくれる。

「あの人は山崎肇。私の幼なじみで、昔から言い寄られてて……」

 風花の顔はこわばり、手までも震えだす。僕は風花の手を握り、目線を合わせて、話の先を促す。

「二週間前のことだった。あの人が急にうちにきて、私をベッドに押しやって、力づくで無理やり……っ」

 風花の瞳には再び涙がたまっていた。

「もういい。大丈夫。怖かったな、つらかったよな」

 そういって頭を撫でると、風花は堪えきれなくなっていた。

 ああ、どれほど泣かせれば気が済むのだろう、あの男は。

 許せない。絶対に許さない。僕がこの手で、必ず。

「それで、私、牧くんと会うのもつらくなって。こんなこと誰にも言えなくて。だから、私、牧くんのこと勝手に振って、牧くんの前からいなくなっちゃえばって」

「うん。分かってる、分かってるよ。風花はなにも悪くない。もうこれ以上自分を責めないで」

「うん、うん」

 風花が僕と別れを選んだ理由は、汚されてしまったことへの負い目から。そんなことどうだっていい。僕の目からみて、風花はいまでも綺麗で純白な女の子。

 でもまずは、風花が自分のことを許せるようにならなければ。

 そして、あの男――山崎肇に制裁を下さねばならないのだ。

 僕は一週間ぶりに風花を家まで送り届け、山崎肇への報復について考えていた。

「警察に通報したところで、証拠がないと跳ね返される。弁護士とかは風花の負担が大きくなるし、やっぱり僕が手を汚すしかない」

 こうして、長く悲痛な一日が終わっていった。



 翌日、風花は体調が悪いとのことで、学校を休んだ。これは好機だ。

 風花と一緒にいたら、風花は僕を止めるだろう。彼女はいつだって優しく正しい。たとえ自分を大いに傷つけた相手でも、許してしまう。だからこそ、僕が一人でやらなければならない。

 僕はキャンパス内で、あの男を探し回った。

 肇は昨日と同じF棟の廊下にいた。幸い周りには誰もいない。

「山崎肇! お前だけは許さない!」

 僕は叫ぶと同時に、肇目掛けて走り出した。鞄から取り出した包丁を携えて。

「おうおう、随分ぶっそうなもん、持ってんじゃねぇか」

 肇が僕に気がつくと、再び悪魔のような笑みを浮かべ、持ってた鞄を投げつけてきた。

 横に避ける隙間はなく、鞄を正面から払い落とすと、その奥から肇が正面蹴りを突き出していた。両手をクロスして防いだが、そのはずみに包丁を落としてしまう。すかさず拾おうするも、肇が先に蹴り飛ばしてしまい、素手での勝負となった。

「これで、フェアだな。かかってこいよ」

 僕が地面を蹴り、肇に殴りかかろうとしたその時、二人のスマホが同時になった。

 僕が通知を許可しているのは、風花のメッセージだけ。

 同時になった通知に、嫌な予感がした。

 ゆっくりと、距離をとり、風花からのメッセージを確認する。

「風花、なんだよ、これ……っ!」

 メッセージにはこう書いてあった。

〈牧くんへ。牧くんに出会えて本当に良かった。牧くんと過ごした時間は私にとって全部たからものです。本当に、本当にありがとう。いつまでも牧くんと一緒にいたかったな。私は一人で先にいくね。勝手な私を許してね。でも追いかけてきたら許さないから。牧くん、大好きだよ。そして――〉



〈――さよなら〉



「あぁ、風花ぁ、ふうか、ふうかぁぁぁぁぁぁああああ!」

 膝から崩れ落ち、目の前は涙であふれて何も見えない。

 なんで、なんでこうなってしまうんだよっ!

「ちっ、あの女、ふざけた真似しやがったな!」

 肇はスマホを投げ捨て、走り去る。

 肇のスマホを取ると、そこには風花のメッセージが表示されていた。

〈私はいまから自殺します。遺書を残しておきました。そこにあなたのやったことすべてを記してあります〉

 ああ、本当に風花はもう。

 涙は枯れ、視界を遮るものはなにもないはずなのに、世界は真っ暗だ。

 風花のいない世界なら、もう意味はない。

 僕の心はいつしか、風花の後を追いたくなっていた。

 立ち上がり、学校の最上階へ向かう。

 屋上は、風が吹きさらし、西に沈み行く夕陽が眩しくきらめいていた。

 僕が屋上の端により、縁の上に足をかけようとしたとき、屋上の扉があいた。


「――風花?」


 雲一つない夕焼け空のもと、黒く長い髪が、風になびいていた。

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5分で読める物語『霽れを待つ君』 あお @aoaomidori

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