第51話:虚無:地獄をみたかい?

駅。

走る力は残されていない。

足が筋肉痛でカチカチに強張こわばっている。

腰骨がギーギー音を立てて痛む。

ぼやけている。

もう外の世界に触れてその刺激を受け止める力が無い。

一歩一歩るごとに、暴れ足掻あがくような鼻息が漏れる。

カクンカクン身体がアスファルトに打ち付けられて鳴り響く。


見慣れた形。赤いような……。

我が家……。


ドアを開けると、人の体温で温められた室内の湿気にせ返るように迎えられる。

身体からだの中のにおい……。

母が「どこ行ってたの?」と驚いている。

私は、静養中だった。

エプロンのみ。

ずいぶん古いの着てるな。

私が中学校の時から使っているやつだ。

「学校行ってたの?」と私の制服を見て言う。

ニコッと飾らないしわが笑顔にけ込んでいる。

「演劇部に用事があった」とごまかす。

夕飯ができているから手を洗いなさい、と座った柔らかい声。

優しく耳をぜる。

から揚げのげたこうばしい油の匂い。

それが、壁のみや床のりキズと重なって、身体をそっとマッサージする。

フワリフワリと揺りかごを揺られているよう。

軽い眩暈めまいがする。

ムギュムギュと足だけで靴を脱ぎ、かまちを上がる。

フワーッとムーヴィング・ウォークを歩くよう。

私、この、ぺらんとがれた壁紙に、ザラついた床のキズに囲まれて……。

私、ここに住んでるんだ……。

みんななんてい色……。

洗面所の鏡で私と目が合う。

嫌な顔。

目をそむける。

見ないで。

私も見たくない。

ダイニングで新聞を読んでいる帰宅したばかりの父。

整髪料とあぶらじった生臭なまぐさい薬品の臭い。

ヨレヨレの背広。

浅黒い肌。

伸び始めているヒゲ。

目の玉がしっかりと座っている。

働いているんだ……。

テレビから、中華の外食チェーンの株価が上がったというニュースが流れる。

「どこが美味おいしいのかねえ」

 母が、から揚げを皿に盛りながら言う。

「ファミレスだから、子供が喜ぶんだよ」

 から揚げをっつきながら父が言う。

「チェーン店の味ってねえ……」

「そりゃ、個人の店の方が美味うまいさ」

「本のレシピ通りにやるんだけど、どうしてもお店の味が出ない」

「テンジャンっていう調味料があるんだよ。それを入れるとプロの味になるらしい」

「テンメンジャン?」

「それは甘味噌あまみそ。テンジャン油」

「売ってんの?」

「自分で作るんだよ。ラーメンのスープみたいに色んな具材を醤油しょうゆで煮込むらしいんだ」

「詳しいのね」

「学生時代、中華料理屋でバイトしててね。色んな料理の作り方教えてもらったんだけど、テンジャン油の作り方だけは教えてくれなかったなあ」

「企業秘密」

「魔法の調味料だからなあ……。八角とかタマネギとか、いろんなの入れてた。洋食でいうデミグラスソースだよ」

「へえ、誰か知らないのかなあ?」

「さあ。弟子の暖簾のれんけのとき、最後の最後に教えるらしいよ」

「へえ、大袈裟ねえ」


 涙。

 溢れる。


「ごめんッ。あとで……」

私は、たまらなくなって、必死でごまかして2階へ上がり、ベッドに飛び込んだ。

込み上げて嗚咽おえつする。

涙があふれる。

止まらない。

身体からだの底からどんどん、わんわん泣きじゃくる。


ばか……。なんてちっぽけ……。


自分が特別だと思ったら大間違いだ……。

よく見ろよ。

みんな、文句をれながらも、たとえ歯車の一輪だとしても、退屈な日課をこつこつこなしながら、どんどん新しく生まれ変わっているんだ。

西野への怒りは消えない。

でも、それは別の話。


こんなことしたって、何も生みやしない。


私は泣いた。

一晩中泣いた。

ベッドにうずくまり、身をちじめてビービー泣いた。

ヒリヒリ胸を痛め付けて泣いた。

そして、泣いて泣いて疲れ果てて、そのまま眠った。

夜中、キッチンに下りると、母の夕食がラップをして置いてあった。

私は一人、冷えた夕食を、鼻をすすりながらき込んだ。

冷え固まった油が温かく胸に突き刺さった。

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