第49話:迷走:頭ン中、からっぽ

「ただいまぁ……」とドアが気怠けだるく開いて、入ってきた。

学校で見せない甘えた感じの力の抜けた声だ。

その瞬間、悪酔わるよいのお祭りカラ騒ぎみたいな気分はっ飛んだ。

シュッシュッと、やはりピカピカの廊下をすべる上品な音がする。

高鳴るッ。

怖くて嬉しい。


やれる。


指先がピクピク武者震むしゃぶるいする。

足の指でギュッと拳を作る。

息が高くなる。

オヤジのアルコールのにおいが私をまどわそうとする。

しかし、その誘いは近づく足音でき消される。

私を見るだろう。

どんな顔をするのだろうか?。

テーブルの上に、頭上のライトの玉がズシリと泳ぐ。

私、どんな顔してる?。

影が見えた。

「理香ちゃん、お友達、来てるよ」

 オフクロの、緊張を無視した長閑のどかな声が響いた。

「だーれー?」

 とかったるそうな声がした瞬間、西野の視線が、ヒョイッと身体からだごと傾いてダイニングの中に飛び込み、私の視線とバチリと衝突しょうとつした。

 西野の軽いステップがビクンッとなまりのように固まり、目の玉がギョッと飛び出して顔面からこぼれれ落ちそうになっていた。

「ヤッホ」

 私はニコッと笑って、手をホイッとげ、言ってやった。

「何してるの……?」

 こおりついていた。

 オヤジがフラフラとした手でビールをいだ。

 速くて重いいびつな声。

 必死で悟られまいとしているのだが、芯が震えているのが分かる。

「家庭科の授業で忘れたでしょう?」

 私は、優しく微笑ほほえみ掛けて、カバンの中から文化庖丁ぶんかぼうちょうほうり出すようにヌッと無造作に差し出した。

 そして、柔らかい笑顔で、5本の指の中にぶらーんと包み、刃を突き付けた。

「……」

 真上のライトでギラッと刃がオレンジ色に目を見開みひらく。

 西野の肩がスクッとおびえてちぢみ上がり、睫毛まつげがピクピクとっている。

 あたり真っ白な世界。

 止まる時間。

 私と西野だけ色が付いている。

 オヤジがプハーッと景気よくビールを飲み干した。

 急速に周りに色が付き始める。

「どうしたの?」

 オフクロが、固まっている西野にニカニカ笑顔で言う。

 西野は、後退あとずさりしたいけどできない怖さで、私を固まった上目使うわめづかいで見ているだけ。

 私は笑顔でにらみ続ける。

 らすなよ、西野。

 西野ののどがゴクリと上がる。

 手の中の庖丁ほうちょう依然いぜんぶらーんと浮いている。

「ありがとう……」

 沈黙に耐えられない西野が言葉を切った。

 低く発し、西野は人差し指と親指で、私の握るの余った部分をつまみ、汚物を捨てるように、しかし、周りに悟られまいと、素早くテーブルの上に丁寧に投げ置いた。

 警察を呼ばれないように、私はいち早くこの場を片付ける。

「私、傷も引いたみたいだから、また部活出るね」

 ニコッととどめを刺す。

「はい……」

 西野は、コクリと低くうなずく。

 最後の力だったと思う。

 私は「失礼しました」とオヤジとオフクロにお辞儀をした。

 視界が真っ白にぼやけて、狂いそうにドキドキしていた。

「おうッ」

 オヤジは依然ご機嫌だった。

「あら、もーお?。夕飯食べていけばー?」

 オフクロはどこまでも明るかった。

 私は丁寧に断って家を後にした。

 逃げ出したいのは、私の方だったかもしれない。

 今にも鼻血が飛び出しそうなほど顔面が鬱血うっけつして、全身がパンパンにふくれ上がっていた。

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