第30話:生き恥:初めての本物の失恋

翌朝。

いつものようにカバンの中から教科書を取り出し、机の中へ入れ込もうとすると、

中でカラカラ音を立てて私のくたびれた勢いに抵抗しようとする異物があった。

私は、中からその物体を取り出し、

みんなに見えないように下腹したばらふところへ収め、

改めて見つめ直した。

石堂くんにあげたピンク・クラウドのCDだった。

私は、それを見た瞬間、もう自分がどんな仕打ちを受けたのかをすべて把握はあくした。

慌てて押し込んだのだろう、CDは、どこかに打ち付けられたらしく、

プラスティックケースの中央に、ネジでえぐったような窪みができていて、

そこを拠点に、東京の入り組んだ路線図のようなひびが放射線状に散り渡っていた。

罅で複雑な角度の断面に変化したケースは、それぞれの断面によって朝日をにぶく吸収し、

安っぽくキラキラと反射しては、往復ビンタを喰らわすように幾重いくえにも私の顔面を引っいて照らした。

光は、縦、横、斜めからキュンキュンと私の目に飛び込んで、やがては奥へ入り込んで神経を握りつぶす。

まるで、髪の毛を、つかみ引っられるようなツーンッとした痛みが頭を締めつけた。

チカチカし、くらくらぼやける……。

打ち付けられた窪みをぜると、細かいプラスティックの破片が粉状こなじょうに吹き出していて、

それを、親指と人差し指でつまんで転がすと、ギザギザと指先に突き刺さる。

罅をなぞると、指先が自然にすべっていき、

やがて速度を上げて皮膚を切ろうとし、

そして、肉を引きちぎろうとする。

チクッとし、反射的に指を離す。

チャーの顔は粉々に分解して、もう私を見ていない。

形のひん曲がったケースのふたを開けると、キキーッとガラスを引っいたような不協和音が耳を切り、顳顬こめかみに突き刺さる。

無理やり全開すると、チャーが他所よそを向いていた。

遠くを見つめるような眼差しだ。

私なんか見ていない。

いつも優しく私のギターを見ていてくれたのに……。

酸味がかった唾液だえきが、口の中をヒリヒリとおかす。

我慢できなくて、舌でクチャクチャとぬぐい去り、のどの中へ押し込む。

しかし、腹に力が入らず食道が閉めつけられているので、何度も口腔こうくうにゴボゴボとえずき上がってくる。

やがて、上唇と下唇の間から、ニジーッと口外こうがいあふしたたり落ちる。

思わず舌舐したなめずりをした。

すると、朝、パンに付けたバターの油くさ口臭こうしゅうがモワッとせ上がり、

鼻の穴へ蛇のようにギュルギュルッと入り込み、

また、頭がツーンッとして、中年の二日酔いのような生ゴミの溜息がバフッとれる。

私は、小刻みに震える手で、CDをカバンの中へ精一杯の速さで落とし込んだ。

私には、みすぼらしいCDを眺めていることより、

石堂くんにCDを返されたことの方が精神的に苦しかった。

一度あげたものだ。いらないのなら捨てればいい。

〝お前のほどこしは受けない〟ってわけか……。

CDではなく、私の気持ちを拒絶した。

私に悔しいとか悲しいとかいう感情的な動きはなかった。

ただ「すじを通せ」と強く思った。

返すなら、面と向かって堂々と返すべきだ。

こういう、けて誤魔化ごまかすようなやり方はよくない。

なぜ戻したのかは、今さら分かっている。

でも、石堂くんから、ちゃんと説明すべきである。

そうすれば、私だって、理屈ではあるが、事実を理解し、石堂くんを許すことができると思う。

許せないまでも、自分を納得させることはできると思う。

〝男らしくない〟なんて古い言葉は使わない。

でも、卑怯ひきょうだよ、これは。

私は、石堂くんのもとへと向かった。

しかし、石堂くんは逃げた。

私をけにけた。

廊下でも食堂でも運動場でも、さも用事があるかのように、そそくさと目を合わさずり抜けていく。

そういうことか……。

そんなに私が嫌いですか。

そんなに西野が怖いですか。

それほどの男だったんですか。

そんな男に私はれていたんですか。

バッカみたいッ。

ヤケっぱちの「あきらめ」の溜息をついて、私は石堂くんを追うのをやめた。

自分がみじめになるだけ。


帰路、私は、電車のシートにぐたりと身体からだうずめ、頬杖ほおづえをついて正面を見る。

外はもう暗い。

窓に、マヌケな顔が、湿気でフニャフニャになった水彩画のように薄っぺらくしなびて映る。

リリーッと発車ベルの音が響き渡った。

すると、突然、正面ドアから一人の客がピョンと飛び込んで来た。

 石堂くんッ。

バチッと感電するように目が合った。

私は軽いショックできもがビクンとなって上目使いになる。

刹那せつなだった。

石堂くんは、私であることを察知すると、

一瞬のうちにヒョイッと、

VTRを逆回転させるように電車からピョンッとまた飛び降りていった。

一歩で入って一歩で出ていった。

まばたきの出来事だった。

瞬間、パスーッと空気圧でドアが閉まり、電車は私をビンタするように発進した。

石堂くんの顔は、スローモーションで流れていき、

やがて、夜色やしょくにじんで溶けていった。

正面の窓には、腹話術の人形のようなオモシロオカシイ私の顔だけ。

私は、マヌケに見つめるよりほか手立てがない。

これ、久々、こたえたよ……。

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