第8話 時代に取り残されても腕力で解決する時代人

「うッぎゃあぁあぁぁあぁッ!」


 悲鳴を上げた。走った。息が切れた。必至だった。左腕がズキズキと痛む。だが、少しでも奴から距離を取らなくては、殺されてしまう。


「はあ、はあ……。くそっ! くそっ!」


 秋野和奏の苦渋に満ちた声が、夕闇の麻思馬市に染みこんだ。


「あ、ああ……あんのクソ親父!」


 数分前のことである。


 自宅に戻った和奏は、芸能活動の許可をもらうため、父である秋野大和あきのやまとに、包み隠さず事情を話した。どうせバレるし、コソコソやるのも性に合わないと思った。


 古い人間なら、熱い意思をぶつけることで理解してくれるのではないかと、ほんのわずかな期待を抱いていた。けど、それは幻想だった。真剣な瞳で親父に気持ちを伝えた次の瞬間、ちゃぶ台が派手にひっくり返された。


 そこから言葉はいらなかった。お互い感情をぶちまけてはいたが、そのお互いが聞く耳を持たず、暴力での語らいが始まったのである。いや、あれは暴力というよりも一方的な虐めだ。殺意の波動に目覚めた秋野大和が、これほどまでに強いとは思わなかった。


「はあ、はあ、う……らぁッ!」


 ハズされた左肩の関節を、電柱にぶつけて自力で治す。


「いってぇ……ぐ……。仕切り直しだ。見てろよクソ親父。ここからはサバイバルだ。日付が変わるのを待って、寝込みを襲ってやる……もう、殺るしかねえ……」


「――おまえに明日があるのならな」


 ふと、和奏の進行方向の曲がり角から、秋野大和がぬらりと現れる。


「な、なんで先回りできんだよ……」


「おまえの行き先など気配でわかる。若さで振り切ったつもりだろうが、その程度の脚でわしから逃げられると思ったか」


 秋野大和。五十八歳。和奏は、かなり歳を取ってからの子供だ。


 和装と空手着を好み、茶道と武道をたしなむ。身長170の体重は80。外見からはサイズほどのガタイの良さは見られないが、その内に秘めたる筋力はバケモノの類い。技術は疑う余地もない。


 白髪が増えてきたので、おじいちゃんに見えなくもないが、実力は日本どころか世界レベルで通用する。穂織から聞いたが、この地域での最強は京史郎か大和かといわれているそうだ。クソッ、京史郎を連れてくるんだった!


「和奏。おまえが道場を継がねば、秋野家はどうなる」


「知るか! 滅びちまえ、こんな暴力クソ道場ッ……おうわッ!」


 言い切るまえに、親父が間合いを詰めた。二十歩はあった距離が一瞬にして消えた。そして正拳突き。和奏はかろうじて防いだが、ギャリギャリと靴底を擦らせながら、三メートルは後退した。いや、あえて防げるように打ち込んだのだろう。恐怖を与えるために。


 ガチガチと、歯が鳴る和奏。


 ――あたしは、ここで死ぬかもしれない。


「アイドルなど、動物園のパンダにすぎん。ファンから金を巻き上げ、社会のために身を売る恥ずべき仕事だ。そこに尊敬などなく、あるのは虚構のみ。秋野家の人間がやるべきことではない。己が立場と才能は、正しきことに使え」


「うるせえッ! 親父の自己満足のために、娘の人生を潰すのは正しいってのかよ!」


「空手とは伝統だ。伝統は国のためにある。国と民に尽くすのが秋野家のあるべき姿だ」


「アイドルだって同じだろうが!」


「芸は欲望の世界。脚光を浴びているうちはいいだろう。だが、旬が過ぎた時、己の過ちに気づく。その時、失ったものは戻ってこない。いや……旬がすぎるもなにも、旬もなく散っていく者もいるのだ。そもそも、おまえにアイドルが勤まるとは思えん」


 ――うっわ、思ったよりも正論で攻めてきた。


「だいたい、女に道場主が勤まると思うのかよ!」


「男女平等の時代だろう。そもそもLGBT(性同一障害や同一性への好みのこと)がもてはやされる昨今、おまえが男らしく生きることは、なんら問題ない」


 こういう時だけ、時代を反映しやがって!


「親父。一度きりの人生なんだ、自分の生き方は、自分で決めたいと思わねえか?」


「わしも母さんも、おまえの周囲の人間も、すべてが己の欲望のままに生きたらどうなる? 社会は終わるぞ。それはもはや原始の人間以下。動物と変わらん」


「じゃあ、親父は明日死ぬとしても、好きなことはしねえのかよ!」


「せんな。明日死ぬとしても、いつものように朝食を食べ、いつものように稽古をする。そして、これまでやってきたことを誇りに思いながら眠りにつく」


「面白くねえ人生ッ! だったら、今すぐ誇り高く死んじまえバーカ! おがッ!」


 眉間に一本拳を食らった。視界が一瞬真っ白になる。仰け反ったところを、胸ぐらを掴まれ引き寄せられる。


「和奏。親に向かって、死ねとはなんだ? バカとはなんだ?」


 大和は右の拳を固める。背筋が凍った。全身が冷たくなった。脳裏に浮かんだのは『死』の一文字。そして穂織の顔だった。


 頭の悪い親友の夢につきあってくれてありがとう。夢を見させてくれてありがとう。穂織が一緒に事務所へ行ってくれなかったら、和奏は受け入れてもらえなかっただろう。


「……ごめん、穂織……」


 ――あたし、もう死ぬみたい。先にあの世で待ってるね。


 大和の右腕が動いた。

 その時だった。


「なにをやっているんだい?」


 おぼろげな視線で声のする方向を見やる。すると、そこには夏川穂織の姿があった。


「穂……織……?」

「夏川の……?」


「おじさん、和奏ちゃんが死んじゃうよ?」


「これは躾だ、殺すつもりはない」


「まあまあ、こんな住宅街のど真ん中で喧嘩してたらさ。警察が来ちゃうよ」


 さりげなく近寄ってきて、和奏と大和を引きはがす。さすがの大和も、よそ様の娘には強く出られないのか、表情をしかめていた。


「げほっ……おまえ、なんでここに……」


「喧嘩していないか心配だったんだ。家に行ったらいなかったしね。おばさんに聞いたら、ふたりで出て行ったって。そしたら、和奏ちゃんの悲鳴が聞こえたわけさ」


 本当に、頼りになる親友だ。子供の頃からそうだった。和奏の方が空手もできるし勉強もできる。けど、絶対に頭の上がらない相手。お互い、足りないところはあるけど、それを補いあえる最高のパートナー。


「夏川くん。よその家庭の事情に口を挟むな」


「すまないね。けど、和奏ちゃんがかわいそうだったから」


「子育ては、時として手荒になることもある」


「これ以上続けるなら、私が相手になるよ」


 チンピラにさえ怯えていた穂織。目の前の相手は、それ以上の強さを誇るというのに、まったく怯える様子がない。むしろ使命感に満ちあふれているようだった。うん。顔はね。首から下はぷるぷる震えているけど。


「やめろ、穂織。殺されるぞ」


「大丈夫だよ。私だって、黒帯なんだから」


 和奏が手も足も出ないのだ。京史郎の事務所で重火器でもくすねてこなければ勝てないだろう。あの事務所にならたぶんある。この親父なら、弾丸ぐらい避けるかもしれないけど。


 構える穂織。直立不動の大和。ふたりからはオーラすら漂っているかのように見える。


「……ふん。よそのお嬢さんと、殺し合いをする気はない」


 踵を返す大和。ゆっくりと歩を進め、背中を向けたまま語る。


「誰もが、望んだ境遇で生まれることなどできん。恵まれた家に生まれた子。貧しい家庭に生まれた子。政治家の子。老舗の子。親のない子。人生とは運命によっても定められている。アイドルなど許さん。絶対にだ。己の立場をわきまえろ」


「へっ。アイドルに親でも殺されたのかってんだ、バーカ――って、ふぇぇっ?」


 再び一瞬で距離が詰まる。そして、顔面への正拳。派手に吹っ飛ぶ和奏。


 嗚呼! 余計なことを言ったよ! くそッ! 京史郎と出会って性格悪くなっちまったのかなぁ。


 混濁する意識の中、穂織の心配そうな声が聞こえた。


「和奏ちゃーん! 和奏ちゃーん!」

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