2杯目


 映画のフィルムが流れているみたいに,当時の思い出が頭の中で再生された。建物に入った時の高揚感,冷房の効いた室内を肌寒く感じたこと,ふれあいコーナーで水槽に手を入れた時の感触。遠い昔のことのように感じられる思い出が,明瞭に浮かび上がった。

ふと,扉があく気配がしてぼーっとしていた世界から引き戻された。入ってきた人を見て,息をのむ。


「かあちゃん・・・・・・じゃなくて,仁君のお母さんですか?」


 久しぶりに見る母の顔。普段から甘えることなんて一切なかったのに,今はどうしようもなく,甘えたい。太ももを思いっきりつねって,内側から溢れ出る感情を押し殺した。


「あら,お友達かしら? ごめんね。時々何かを呟いたり,意識がすぐそこまで戻ってきそうなんだけど,そこからがずいぶん遠いみたいで。生命活動は活発に行われていて異常がないっていうことだったんだけど,身体が頑丈なことだけが取り柄だったのに,こんなにみるみるうちにやせ細っちゃって・・・・・・」 


 こぼれそうになる涙を隠すようにして窓際を向き,手の甲を目元をなぞるように動かした。

 しばらくして落ち着いたのか,「お茶も出さずにごめんね」と微笑み,たいしたものはないけど,と言いながら備え付けの冷蔵庫やら棚やらをあさりだした。


「お気遣いは結構ですよ。長居するつもりはなくて,顔だけ見れたらいいなって感じだったんで。それに,お母さんの時間を邪魔して申し訳ないんでそろそろ帰ります」


 まだここにいたい気持ちと,逃げ出したい気持ちとがせめぎ合った。突拍子もないことを言いだしそうな自分が怖くて,まだ自分の考えが定まらないうちに結論を出し,帰り支度を進めた。

 それでも母ちゃんは,取り出した紙コップを二つ並べ,ジュースを注いだ。


「あら,仁の友達なのに,ずいぶん大人で遠慮深いのね。もし,嫌じゃなければ,仁とのことを聞かせてくれない? ほら,仁とはなかなか話が出来なくて,学校のこととか知りたいし,友達がお見舞いに来てくれたって知ったら嬉しいじゃない。あ,そういえば名前も聞いていなかったわね。なんていうの?」


 差し出された紙コップを口元に運ぶ。鼻から柑橘系のさわやかな香りが抜ける。コップを傾けて一気に半分ほど飲んだ。そのジュースは,常友の家で飲んだものと同じ味がした。



「ずいぶんと浮かない顔をしているね。何かあったの?」


 いつにも増して声に抑揚のない声がした。感情がつかめない。いつもならそんなに気にしないことも,今は無性に突っかかりたくなる。でも,今は顔も見たくないという思いの方が強かった。


「ねえねえ,どうして寝たふりをしているの?」

「・・・・・・」

「今ここにいるってことは,夢の中だけど意識は覚醒しているということなんだけど」

「・・・・・・」

「常友さんの秘密を教えてあげようか?」


 体がぴくりと反射的に動いた。別に常友がどうしたという訳でもなく,自分の中でも整理できていない感情を出しに取られてようで腹が立った。


「お前,なめてんのか?」

「あ,やっと口を開いた」

「お前みたいな臆病者には何も指図されたくなんだよ!」 


 大介は目をぱちくりさせて,済まなさそうに目を伏せた。


「そうだね。ごめん。確かに僕は臆病者だ。仁に偉そうなことを言う資格は一切ない」

「違うだろ。あー,いらいらするんだよお前てやつは」


 頭を掻きむしっても,まとわりついている不快感は少しもぬぐえなかった。そうだ。おれは悔しいんだ。伝えるべきことがあるのに何も言えず,ただ汚い言葉を浴びせることしか表現できない。おれは大介の強さを知っている。あの日の夜,大介は自分の正義を貫いた。


「お前は臆病者なんかじゃねえだろ。あの日,お前はおれを守ってくれた」

「守ってくれたのは仁でしょ。ぼくが囲まれているところを見つけて,救ってくれた。仁はぼくのヒーローなんだ」


 俯いて見える顔の角度は変わらないが,顔はさっきとは打って変わって赤らんでいる。こっちまで恥ずかしくなってきた。


「何がヒーローだ。それより,なんで言わなかったんだよ。あの日の夜,おれたちが出会っていたこと」

「それは・・・・・・お互い知っているものだと思っていたんだ」

「嘘つけ。初めまして感が満載だったじゃねえか」

「いや・・・・・・ごめん。ほんとはまず最初にお礼を言わないといけなかったのに。ほんと,ごめん」

「さっきから謝ってばっかりじゃねえかよ」

「ほんとだね。あの時はありがとう。ぼく,自分のことを守ってくれる人に出会ったのは初めてだよ。だから,嬉しかった」


 上目遣いで話す大介の顔から,光るものが零れ落ちた。地面なんてないこの空間に,ぽとりと音が響きそうなほど大きな涙だった。


「おれもだよ。いつも一人でさ,強がってばっかりだった。さみしかった。そのくせ,群れてるやつを見ると無性に腹が立ってきてさ。めんどくせえ性格だよな。」


 二人で笑いあった。何がおかしいのかわからない。でも,こうしている時間が何にも代えられない幸せな時間なのだろう。


「でも,仁は愛されている。そのことは伝わったんじゃない?」


 病室での出来事を言っているのだろう。あの無機質で味気ない空間で,おれは母ちゃんに愛されていることを認識したのだった。

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