去りゆく後ろ姿


 頭がぼーっとしてきた。「起きてるの?」と大介の母さんが声を掛けなければ,そのままのぼせて倒れていたかもしれない。

 脱衣所で自分の顔を見る。顔が火照っているのは,入浴時間が長かったことだけが原因ではないのだろう。

 浴槽の中ではずっと常友のことを考えていた。普段なら身体を洗ってから浴槽で鼻歌でも歌っているのだが,今日は違った。不衛生だと思いながらも,始めにざぶんと頭まで浸かって頭の中を無にしようとした。上半身に汗がぽつぽつと浮かんできたころ,ようやく身体を洗うために浴槽からいったん腰を浮かせた。いつもより念入りに,優しく洗った。頭皮を傷めないように指の関節を折り曲げてこすり,タオルを使って足の指の間まで丁寧にぬぐった。さっぱりとした身体とは裏腹に,心の中ではなにかがぐるぐると回り続けてた。


「しょうもな」


 わざと声に出して呟いた。鏡の向こうの自分は,完全に頬が緩み切っていた。


 常友とキスをした。

 その事実が,心を躍らせていた。何も考えないようにしても,あの瞬間のことが映画のワンシーンのようにスローモーションで脳内で再生される。



「ねえ,うちの女子どう? 気になる子とかいるんじゃないの? 結構かわいい子もいるし」

「は? 何言ってんだ急に。だいたい,おれはまだこの学校に来てそう長くないんだ。女の顔なんていちいち見ていねえよ」

「えー,でも女の子好きそうなのに」

「それなら大介に伝えとく。なんてったってこれはあいつの身体なんだからな」

「いやいや,種掛くんはそんなことなかったよ。きっと,内側から溢れ出るオーラがそう感じさせるんだろうね」


 常友は心底楽しそうに笑った。悪い気はしない。むしろ,この時間がいつまでも続けばいいのにと思う。


「それでさ,誰が気になるの? 同じクラスで言ったら,佐藤さんとか?」

「誰だよ,そいつ。顔も知らねえよ」


 事実だった。どこに座っているのか,どんな顔だちをしているのか,基本的な情報が全く思い浮かばない。

 これ以上突っ込まれるのもめんどくさくなって,窓の外を見ながら言い放った。


「別にいねえよ。気になるやつもかわいいと思うやつも」


 これは半分は事実だ。「お前の他にはな」というキザったらしい言葉を胸の奥にしまい,オレンジジュースに手を伸ばした。その時に飲んだジュースは,今までで一番甘酸っぱかった。



「青春してるね」

「・・・・・・なんだよ,その言い方」


 大介はさっきからおれの目を見ようといない。だいぶこの無重力空間に慣れたおれは,大介の正面へと回り込む。その気配を察した大介は,さらに身体をひねらせた。


「さてはお前・・・・・・羨ましいんだろ?」


 大介の顔がみるみる赤くなった。


「羨ましいって何だよ。生徒会長に立候補して何にも準備が進んでいないのに,お気楽だなあとは思うけど」

「ふーん。まさか,常友のことが好きとか? まあ,別にいいんだけど」


 大介は分かりやすく口を尖らせて,熟れたトマトのように赤くなった。


「余計なことを言ってないで,やるべきことをやれよ。そうやってふざけてると,落選するぞ」


 こんなに感情を表に出す大介を初めて見た。面白くなってきたので,さらにいじわるなことを言ってやった。


「いいことを教えてやろう。実はな・・・・・・」


 たっぷりと間を取って,できるだけ妖艶な声で言ってやった。


「おれ,常友キスしちゃった」


 大介は肩を怒らせた。おっ,と少しだけ身構えたが,すぐに自分を落ち着かせるように大きく息を吐いたかと思うと,またいつものように落ち着いた表情に戻った。なんだ,おもしろくない。もっと取り乱すかと思ったのに。


「まあ,お前の身体なんだ。。お前がしたようなもんじゃないか」

「そんなことにぼくは興味がない」

「だからお前は童貞なんだよ。あ,身体をもとに戻すっていうのはどうだ? そしたら,お前もいい思いができるぞ。ほら,常友って結構いい女だしさ」


 背中を丸めて下を向いた大介はみるみるうちに小さくなっていく。さっきの勢いづいていた時はずいぶんと生気にみなぎっていたが,今はこのまま本当に消えてなくなりそうに思えるほど気力が感じられなかった。


「おいおい,どうしたんだよ。・・・・・・元気出せよ」


 返事はない。いや,小さな声で何かを呟いた気がする。


「なんか言ったか?」


 今度は返事はない。だが,さっきは何かを訴えようとしていた気がする。それが何なのか,本人の口からきかないことには分からない。


「何だって言っているんだ」


 大介はチラッと顔を上げて,また俯いた。


「ぼくは君みたいに強くないから」


 蚊が鳴いたような,消えてなくなりそうな声だった。


「確かに,もやしみたいで弱そうだけどよ,飯食って筋トレしたら強くなれるぜ」


 くだらない,と自分でも思う。でも,こんなに悲しそうな大介に何か言ってやらないとと思って口にした。おれは,だれかの心を軽くするための言葉を持っていない。


「ぼくは弱い。だから君に頼った。変わりたくて」


 でも,と大介は続けた。その目からは光るものが伝っていた。


「それじゃあぼくが変わったことにはならないよね。そんなことはぼくだって分かってる。迷惑かけてごめん」


 そう言って背中を向けると,向こうの方へと進んでいった。

 ちょっと待てよ,と追いかけたが,距離はどんどん離される。やがて,大介の姿は見えなくなった。



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