2人分のオレンジジュース


「汚いけど,別に気にしないでしょ?」


 カバンを勉強机の上に置きながら常友はリモコンのスイッチを入れた。夏至はとうに過ぎて秋を迎えつつあるが,二階は日が照りつけてさすがに熱がこもるのだろう。少しだけ蒸し暑さがあった。

 だが,ぼろアパートの一回に住んでいるうちの家とは大違いだ。もちろん,おれの部屋なんてない。あの場所に比べたら,大介の家も常友の家も大豪邸だ。

 大きな本棚と一人で使うには広すぎるベッドの他に,部屋の真ん中にローテーブルがあるくらいで,想像していた女子中学生の部屋とはかけ離れていた。ミニマリストという言葉を聞いたことがあるが,常友も不必要なものは部屋に置かない主義なのだろうか。ここが女の子の部屋だと分かるのは,扉を開けた時にふわっと漂ってきた花のようなにおいの他には何もない。


「あんまり人の部屋をじろじろ見まわさないでくれる? あ,もしかして下着とか探してたり。ちょっとやんてよね,二人きりだからって」

「何勘違いしてんだよ。貧乏くさそうな部屋だなって思って見てたんだよ」

「そりゃあ大介くんのところと比べたらどこだって質素ですよーだ」

「は? あそこは・・・・・・」


 あそこはおれの家じゃない。それに,おれんちは母子家庭で,おふくろも夜の仕事で朝方に帰ってくる。

 そう言おうとしたが,やめた。種掛大介としての自分に言っているのであって,おれの本当の家について言っているわけでもないし,いちいちそんなことを否定して自分の暮らしの悪さを分かってもらおうだなんてつもりは毛頭もない。ただ,世の中みんな,自分が恵まれた環境に置かれているのにも関わらず「親がうざい」だとか「こんな親の元に生まれてくるんじゃなかった」とか言っているのを聞くと虫唾が走る。そういうやつを何にもこづいてきた。やられた当の本人はなにが逆鱗に触れたのか知る由もなく,ただ危ないやつだと認識して周りから人はいなくなっていった。


 何かを察したのか,常友は何も言ってはこなかった。「床で悪いけど,座りなよ」とカーペットの敷かれた床に置かれたガラス張りのローテーブルの方を指さしたので,座らせてもらうことにした。

 飲み物を取ってくると言って部屋を出ていってから,一人部屋に取り残されて改めて部屋を見回す。意外と気が利くやつだよなあと思う。「別にいい」という言葉を「私が飲みたいからついでだよ」と退け,飲み物を取りに行く。きっと,いい奥さんになるに違いない。

 そんなことを考えていると,扉が開いた。



 トレイを片手に常友が戻ってきた。


「お待たせ」


 八重歯を覗かせた顔に一瞬気を取られた。「待ってねえけど」とわざとそっけなく返したが,うまく演じられていただろうか。常友は扉から身体を半分だけ部屋に滑り込ませた形で動かない・何してんだよ,と口を開きかけたとたん,トレイの上にのせられたグラスが一つであることに気付いた。


「なんだよ。おれのはねえのかよ」

「だって,いらないって言ったじゃない。残されてももったいないし」

「そんなの遠慮に決まってんだろ。どこまで分かってねえんだよ」


 まったく,感心したおれがあほみたいだとうんざりしていると「じゃじゃーん」と嬉しそうに後ろ手に隠したグラスを目の前に差し出してきた。


「おまえ・・・・・・ほんとガキかよ」

「ガキってなによ。もうあげなーい」

「うそだよ。お姉さん」


 何がじゃじゃーんだ。まんまとペースに乗せられている自分が急に恥ずかしくなる。


「まずは一息つかなきゃ」


 ローテーブルにグラスが二つとジュースのペットボトルが載ったトレイを置き,「よっこらせ」と年寄り臭いくさい言葉を出しながら膝をついた。

 何が一息だ。まだ何もやってねえじゃねえかと軽口を叩こうとしたが,思わず息をのんだ。

 制服姿のまま膝をついた常友は,そのままお尻を落として膝を抱きよせるようにして座った。傷一つない宝石のような膝がグラス越しに歪んで見える。トレイでちょうど遮られているが,ガラス張りのローテーブルの向こう側にはすらりと伸びた綺麗な足があるのだろう。思わず視線が動きそうになるのをぐっと堪えて,視線を前に固定した。身体が熱くなってくるのが分かる。


「何よ,硬い顔をして」


 硬い顔。おれは今どんな顔をしているのだろう。認めたくないが,おれはこいつに惚れている。惚れた女と二人きりで部屋にいる。そんなことで取り乱すなんて,まるで童貞みたいじゃないか。

 自分を落ち着かせようとしてわざと大きなため息をついた。


「ジュース,飲んでいいのか?」


 あ,という表情を見せて細い腕をペットボトルに伸ばした。


「ごめんごめん。せっかくだからついであげるよ」

「当たり前だろ。ずっと待ってんだよこっちは」


 わざとそっけなく言ってそっぽを向いた。ん~,と唸るような声がする。ゆっくりと,もう一度視線を前に送る。


「もしかして・・・・・・空けられないのか?」


 涙目でこくりとうなずいた。


「だって,異常に固いんだもん。ほら,手なんかこんなに真っ赤だよ!」


 掌を差し出して,はい,とペットボトルを差し出してきた。

 「めんどくせえ」と言いながらペットボトルを受け取り,キャップをなんなく外した。さすが~,とご機嫌そうな常友にペットボトルを差し出すと,素直に受け取りながら二人分のオレンジジュースを注いだ。


「これ,好きなんだ。甘ったるくないし,果汁100%なんだから。どう? おいしいでしょ?」


 まあまあな,と目も見ずに答えた。酸味の効いた液体を舌の上で染み込ませるように味わいながら,手の平に残った温かい感触を思い出していた。

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