悪い男

大塚

第1話

 やあ久しぶり元気だった? 本当に来てくれるとは思わなかったな。と岩角遼いわすみりょうは言った。

「あなたに呼び付けられたから来たわけではありませんよ」

「そうなの? じゃあ何か刑務所に用事があって? ……ああ、弁護士復帰したのかな?」

「残念ながら今は別の仕事をしています。ご期待に添えなくて申し訳ない」

「ふうん。まあいいや。久しぶりだね宍戸ししど先生、会えて嬉しいよ」

 アクリル板越しに微笑む岩角は私が最後にその顔を見た時、つまり拳銃の不法所持と恐喝行為で逮捕されたという報道が流れた半年前よりはよほど健康的で、明るい表情を浮かべている。肩口まで伸びた黒髪は青く艶やかで一本の白髪もなく、この男が刑務所を気楽に出入りできるホテルか何かだと勘違いしていることがひと目で分かった。私はちいさく息を吐き、もう弁護士ではないので、と強調する。

「先生ではありませんので」

「じゃあなんて呼んだらいい? 宍戸くん? なんだか他人行儀だなぁ、弟よ」

「……」

 弟。嫌な響きだった。先生と呼ばれるよりも、よほど。


 指定暴力団関東玄國会げんこくかいの若頭である岩角との出会いは今から10年ほど前に遡る。三浪してようやく入学した国立大学をどうにか卒業し、初めに師事した相手が暴力団、ヤクザと呼ばれる人々の人権を守るために活動している、界隈では札付きの弁護士だった。私が弁護士を目指した理由はシンプルに金で、少年時代に経験した極貧生活を二度と繰り返したくないから、である。だからクライアントが一般企業でも、暴力団でも、きちんと金を払ってくれるならなんだって良かった。私は師匠である綾鳥あやとり先生とともに玄國会の顧問弁護士として働くことになった。

 最初の裁判で弁護したのが、今目の前にいる男の弟分だった。殺人未遂。元ボクサー。というかボクサーになることすらできなかったチンピラ。だが岩角はそのチンピラのことを大層お気に入りで、できれば刑務所には入れずに更生させてやりたいなどと言う。10年前だ。私も若かったが、岩角とて若い。40代の現在とはまた違う、どこか浮世の人間ではないような異様な美貌を持つ岩角に両手を取られ「業原わざはらをよろしくお願いいたします」と言われ、私は発奮した。なんとしても勝たなくてはならない裁判だと思った。そうして勿論、勝った。原告側の非をこれでもかというほど調べ上げ、法廷で暴き立て、岩角気に入りの舎弟を取り戻した。

「宍戸さんは優秀なんですね、素晴らしいな。さすが、綾鳥先生が連れてきただけある」

 裁判から数日後、私は個人的に岩角に呼び出された。彼の知人が経営しているという高級焼肉店の個室で、岩角は私の目をじっと見詰めてそう言った。鳶色の、まるで宝石のように煌めく虹彩と夜の闇よりも深い色の瞳孔、綺麗なアーモンド型の目、それを縁取る長くて濃いまつ毛が彼が瞬きをするたびにぱさぱさと揺れた。

「宍戸さん、宍戸先生、これからも俺の味方でいてくれますか?」

 酔うていた。それに若かった。金のために選んだ職業で、こんなふうに誰かに認められ、求められることがあるなんて想像すらしていなかった。それも、こんな、世の中にふたりと居ないような美しい人間に。

 彼がヤクザであろうと関係なかった。差し伸べられた手を取って、私は大きく頷いた。

「岩角さんのためなら、なんでも」

「ありがとう。……あなたみたいな弟が欲しかったって、勝手なことを思ってしまいます」

 白皙の美貌を薄っすらと赤らめて、岩角の長い指が私の可愛げのないごつごつとした手を絡め取った。大学に入るまでの浪人生活の傍ら私はおもに肉体労働で金を稼いでいて、傍から見れば無闇に鍛えられた肉体と日焼けで真っ黒になった肌を持つ私の方がよほどその筋の人間に見えただろう。岩角遼は迦陵頻伽の如き声で、笑った。


 私はスーツのふところから名刺入れを取り出し、そこから更に三枚の紙切れを抜き出して、私と岩角の間に立ち塞がるアクリル板に押し付けた。岩角は形の良い眉をぴくりと跳ね上げ、ええ、と呆れ返った様子で息を吐く。

「この御三方が? きみの依頼人?」

「再三になりますが私はもう弁護士ではない。だがあなたが私にしか会いたくないと駄々を捏ねているという理由で、この三名が直接私を訪ねてきた。迷惑をしているんです」

「ふうん」

 三名。

「玄國会会長補佐鞍林鳴くらばやしめい。……鞍林こいつはまあ分かるよ俺の上司だしね。でもさあ」

「でも? なんです?」

東條組とうじょうぐみは大阪じゃん。なんで大阪のNo.2が、黒松くろまつが俺にコンタクト取りたがるの」

「昨年あなたが黒松氏の舎弟を沈めて回ったからでしょう」

「俺じゃないもん」

 直接はやってないもん、と小首を傾げて岩角は不服げに呟く。

「で、この、3人目……誰? あき?」

「秋、さん。名前以外は私も知りません。この名刺を持ってきたのもアシスタントを名乗る女性です。秋という名前だけで知られている、所謂殺し屋ですね。その職の総元締めというか、派遣会社の社長とでも言いますか」

「ハーーーーーン……要するに俺を殺したい3人が俺に会えないから宍戸先生にご依頼をしたってわけ? ダッサ」

「私はもう、弁護士ではないんですよ。ダサくてもダサくなくても、とにかくいちばん迷惑をしているのは私なんです」

 少しばかり語気を強めた私に、分かってるよう、と岩角は形の良いくちびるを尖らせて見せる。こんな物騒な話をしているのに刑務官ひとり同席していない異様な空間に、私は不意に寒気を覚えた。岩角はこの刑務所をホテル扱いするためにいったい幾ら積んだのだろう。


 弁護士資格を喪失したのは岩角とつるむようになって3年が経った頃だった。原因がなんだったのか、今でも良く分かっていない。ただ、私がそうなる少し前に師匠である綾鳥先生が死んだ。自殺だった。理由は分からない。遺書もなく、死体が発見された東京から少し離れた山中に停められた愛車の運転席、足もとに練炭を置いた彼の手元に残されたメモに「これ以上は関わりたくない」と書かれていたのを覚えている。他殺も疑われたが、警察が隈なく調べた結果の自殺という結論だったのだ。それ以上踏み込むことはできなかった。

 私は当時30代になったばかりの若手弁護士だったが、綾鳥先生の後釜になるそれなりの腕を持つ弁護士を見つけるまでは玄國会の顧問弁護士=宍戸クサリという扱いになった。昇進といえば昇進である。毎月の顧問料も格段に上がった。岩角の紹介で彼が暮らすそこそこ悪くない立地のマンションの一室に引っ越し、綾鳥先生の事務所を引き継ぐ形で仕事を続けた。裁判には勝ったり負けたり、まあこればかりは時の運。それに絶対に守らねばならない人間と見捨てても良い者との見極めも必要だ。すべて岩角が教えてくれた。いつからか私は彼を「兄貴」と呼ぶようになった。人前ではもちろん控えたが、大きな仕事の打ち上げの際など、他者の目がない時ほど大っぴらに。そんな時岩角は大抵うっそりと微笑んで、「クサリって変わった名前。俺が新しい名前を付けてあげようか」なんて戯言をかした。

 弁護士会からの業務停止命令が下ったのは、ちょうどそんな頃だった。理由は本当に良く覚えていなくて……いや、覚えていないふりをしているだけなのだ。たぶん。だって私は弁護士なのに、ヤクザという反社会的な存在にべったりと依存し、あまつさえひとりの男に夢中になり、兄貴とまで呼んで慕った。これはどんな権力からも離れて独立していなければならないという『弁護士』の理念に大いに反する行動だ。戒告をすっ飛ばしての業務停止命令。2年間、弁護士としての活動を禁じられることとなった。

 玄國会は私の馘を切りはしなかった。「2年なんてすぐだよ」と岩角が嘯くので、ああ彼がすべての決定権を握っているのだなと思った。当時岩角は若頭ですらない、何人もいる幹部のうちのひとりに過ぎなかったのに。だが、すぐに新しい弁護士がやって来た。当たり前だ、組織としては顧問弁護士が仕事をしてくれないと困るのだから。現れたのは関西出身で、それなりの実績もある、私よりふた周りほど年上のインテリ男。

 私は、玄國会を辞した。家も引っ越し、また肉体労働で金を稼ぐ日々に戻った。2年が過ぎれば再び弁護士として働くことはできる。岩角の口添えがあれば玄國会の顧問弁護士として復帰することも可能だろう。だが。


森屋もりや先生が亡くなりましたね」

「森屋?」

「私の後釜の顧問弁護士ですよ」

「あーあいつ。俺あいつ嫌いだったな」

 そうだろうなと思う。岩角遼のチャームは若き日の私のような無闇にプライドが高く世間知らずの人間にしか効果がない。海千山千の綾鳥先生や、今回の依頼人の一人である玄國会の鞍林、それに私の後任であった森屋先生は岩角の振る舞いを寧ろ嫌悪しただろう。

「ね。弟」

「……」

「何しに来たの。伝書鳩ってわけじゃないっしょ」

「あなたの周りの人々は、あなたがこのホテルを退室することを望んでいます」

「ふーん。断る」

 額に落ちた黒髪をさらりと払い、岩角は即答した。

「俺にここ出てどうしろってのよ。宍戸先生は知らないかもしれないけどさあ、俺みたいな若手があの手の古臭ふるくさ組織で生き延びんの、結構大変なのよ?」

「でもあなたは、」

 このホテルにいながらにして森屋先生を殺したじゃないですか。

 言おうとしてやめる。自分の首を絞めることになる。

「弟」

「……はい」

「弁護士に戻りなよ。そんで今度は俺の専属になりな」

「……」

「俺を守ってよ」

 守れない。私にはもうその資格がない。岩角が人差し指を少し動かせば、魔法のようにバッヂを取り戻した私をどこかの弁護士会が受け入れて、再度弁護士として活動することも可能だろう。だが、もう無理だ。私は大人になってしまった。綾鳥先生が自殺でないことも知っている。

「帰ります」

「ね、弟」

 立ち上がった私を見上げて、岩角は蕩けるような微笑を浮かべた。

「おまえがいまどこで誰とどんな仕事をして食ってるのか、俺が知らないと思う?」

「……お元気で」

 社会人としてきちんと頭を下げ、アクリル板に背を向ける。弟よ、俺は今でもおまえを愛してるよ、と岩角が言った。ヤクザのくせに愛とか言うな。


 刑務所を出てバスと電車を乗り継いで都心に戻り、指定されたホテルのラウンジに向かう。いちばん目立たない奥まった場所に置かれたソファに腰を降ろして、ひとりの男が私を待っている。

「お疲れさん。どうだった?」

「駄目です。あと、あまり関わると檻の外の死人が増えます」

「相変わらずか。迷惑かけて悪いね、宍戸さん」

「いえ」

 運ばれてきたコーヒーに口を付ける。味は良く分からない。

「宍戸さん」

「はい」

「弁護士に戻る気は?」

「ないですね」

「そうか」

 この人までそれを訊くのかと思ったらおかしくなって笑ってしまった。俺は別にいい弁護士じゃなかった。金が欲しいだけだった。そのためにはなんだってした。岩角とだって殊更仲が良いわけじゃない。奇跡的に利害が一致していただけだ。あの頃の俺とあの頃の彼と。それだけだ。

「山田さん」

「ん?」

 左腕の付け根から先が綺麗になくなってしまっている長身のヤクザ、山田徹やまだとおる、岩角遼の昔馴染み、玄國会に属しているけれど組織の中ではあまり重宝されていない男、それでいて俺が知る10年前の玄國会の最後の生き残り、その彼の顔をじっと見詰めて俺は言う。

「岩角は本当に俺に会いたいって言ったんですか?」

「言ったよ。可愛い弟になら話をしてもいいってさ。その伝言が森屋先生の最後の仕事だったが」

 そうか。くだらない。

「山田さん、俺今舞台の仕事してるんですよね、制作と舞台監督」

「あ?」

「それで飯食ってんすよ。だからもう弁護士には戻らない」

「舞台って金になんのか?」

「なるわけないでしょ」

「あんなに金が好きだったおまえが?」

「もうどうでもいい。でもあの人相変わらず外の人間平気で殺してるみたいだから、俺の仕事仲間に絶対手ぇ出させないって約束しろ」

 黒縁の眼鏡を掛けた山田は大きく嘆息し、

「できる限りは」

「約束」

「分かった分かった。あんたとあんたの周りは玄國会が絶対に守る。ま、その前に岩角がくたばると思うがね」

「ほんとにどうでもいい……」

 コーヒーを飲み干して席を立った。弁護士の真似事も、兄弟ごっこもこれで終わりだ。弟、という岩角の声が私の心を掻き乱すことはきっともうない。二度とあの男には会いたくない。

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