帰郷・上


「……この建物って、こんな外観だったんだね」


 私が研究所を見上げるとナユタが言った。当然といえば当然だが、ナユタはこの身体になってから外に出たことがなかった。


「研究所に運び込まれたときに見てなかったか?」


「あー、無理よ。病院を出る前から、ナユタちゃんの意識は無かったもの」


 芽依が何でもない様子で答えつつ、彼女も研究所を見上げる。


 円形でガラス張りのビル。こんなものを山の中腹に建てて、麓の駅からの道路を舗装し、シャトルバスまで運行させてしまうのだから、阿僧祇会の経済力は相当なものだと改めて思う。


「ほら、そんな所に突っ立ってないで、早く行きましょう」


「あぁ」


 芽依に急かされ、急ぎ足で共に裏手の駐車場へと向かう。


 今日の外出で彼女に同行してもらう理由はいくつかあるが、その一つが移動手段の確保だ。


 公共交通機関を利用しては、道中でナユタと会話することが難しくなってしまう。しかし、ペーパードライバーの蓮は運転に自信がなかった。


 対して彼女は遠方の研究施設へ赴く際に車を使用しており、運転には慣れている。普段は研究室でビールが飲めないからとバスを利用しているが、今日はナユタの為に車で出勤してもらったのだ。


 芽依の車に乗り込むと、彼女はエンジンを掛けてから無線のイヤホンを取った。ナユタの言葉を聞くために、芽依のイヤホンにも出力を向けていたが、流石に運転中は耳を塞ぐわけにはいかない。犯罪行為をもみ消す力を持った阿僧祇会でも、交通違反の切符までは面倒を見てくれないだろう。


 私は代わりに、音声出力を車内スピーカーへと切り替える。


「それじゃあ、行きましょうか」


「ああ、よろしく頼む」


「よろしくね、芽依さん!」


 車が走り出す。駐車場の前のゲートでICカードを読み込ませ、警備員に会釈をする。詰め所から出てきた警備服の男が、当然のようにトランクを開き中を検める。


 研究所は施設や外観ばかりに金をかけているわけではない。研究情報が外に漏れぬよう、セキュリティーも万全だ。阿僧祇会からすれば、金と時間を掛けて得た物が外部に盗み出されては堪ったものでは無い。


 警備員がトランクを閉め、ゲートを開ける。車はゆっくりと道路に出て、そのまま坂道を下り始めると、芽衣が安堵のため息を漏らす。


「何とかなるものね」


「この眼鏡を疑えるほど、警備員は情報を持ってないさ。それに、細かい事を言いだしたら、ナユタのVtuberとしての活動も許されちゃいないだろ」


 実を言うと、この眼鏡もグレーゾーンだ。最重要機密であるナユタとコンタクトを取れる物品は、機密保持の観点でアウトになる可能性がある。


「そう考えると、ナユタちゃんの活動ってよく許可されたわね。やっぱり、尊主の孫っていうのが利いてるのかしら?」


「……どうだろうな」


 甲斐の実験室にもVtuberとして活動している実験体が居るのだが、その事を言うべき思案する。しかし、その答えが出る前にナユタが話題を変えた。


「それにしても、お出かけできるなんて不思議な感じ。海珠さんに感謝だね」


 私は肯定しつつ、彼女の言葉を思い返す。ナユタの最後に同席したいとはどういう事だろうか? 確かに彼女には感謝しているが、何を考えているのか分からないのが少しだけ引っかかる。


 ちらりと芽衣を見ると、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。海珠に対してあまり良い感情を持っていないのは薄々感づいていたが、今ならその気持ちが少し分かるような気がする。


「蓮……ちゃんと用心してよね」


「海珠の事か?」


 私が尋ねると、即座に「違う」と否定される。


「今日の事よ。人の多い所に行くんだから、ナユタちゃんの存在が外に漏れないよう用心してよね。蓮は結構抜けてるところあるから、ちょっと心配」


「あぁ……作戦通りにすれば、問題ないだろ」


 芽衣に同行して貰ったもう一つの理由が、周囲の目を欺きつつナユタと会話する為だ。海珠の言う通り、私がナユタと会話すれば、傍目には不審に映るだろう。マイク付きのイヤホンで通話していると思われるかもしれないが、会話の内容によってはその限りではない。


 そこで、ナユタに語り掛ける際は芽衣に向けて喋る事にした。これで不用意に目立つことは避けられる。会話内容をよくよく聞くと、二人の会話が嚙み合ってない可能性はあるが、そこまで注意深く私たちを見張る人間も居ないだろう。


 私は肩耳に付けた補聴器型のイヤホンに触れる。もし芽衣と会話している時、常にイヤホンをしていれば、それはそれで不自然だろう。その点、補聴器ならば人との会話の最中に付けていても不思議ではない。


 対して芽衣は普段は結んでいる髪を下ろしていた。髪の長い芽衣ならば、これで両耳のイヤホンを隠せる。その為の作戦だが、髪を下ろした私服の芽衣はどこか艶やかで、妙に心がざわつく。


「芽衣さんの事ばっかり見てないで、外の景色も見せてよ」


 ナユタの言葉に動揺しつつ、私は視線を外に向ける。今日の私の視線は全てナユタに筒抜けなのだ。これは思った以上に気を使わなければならない仕事だ。


「一応言っておくけど、お手洗いに行くときは眼鏡を外して行きなさいね」


「……気を付けるよ」

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